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車窓を求めて旅をする⑦ 東北ほろよい列車 ~由利高原鉄道・秋田内陸縦貫鉄道~

東北ほろよい列車 ~由利高原鉄道・秋田内陸縦貫鉄道~

     由利高原鉄道

 旅というものは地理や文化を知る非日常であり、知っていたからこそ発見できるものも少なくない。
 そこに歴史というキーワードが加わると更に旅が奥深いものとなる。私は歴史に疎く、旅先でも一応城址を歩いたり、史跡を眺めたりしたことはあったが、積極的に足を運んだことはなかった。ところが、ひょんなことから戦国時代に興味が湧いたのをきっかけに、旅先で積極的に史跡めぐりをするようになって三年が経過していた。
 2018年9月3日月曜日、私と同行者Tさんは岩手県にある東北新幹線の水沢江刺(みずさわえさし)駅に降り立った。
 駅は町はずれに立っていた。階段を下りるとコンコースに手形のレリーフが飾られている。この地が舞台となった大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」の出演者の手形だ。このドラマは奥州(おうしゅう)藤原氏の成立と終焉を描いた高橋克彦さんの小説を原作とした三部構成の作品で、渡辺謙さんと村上弘明さんが主役を演じた。大河ドラマのセットが「歴史公園えさし藤原の郷」として公開されていて、この駅からもほど近い。
 同行者のTさんはこの「炎立つ」が放映された1993年生まれである。Tさんは歴史に疎い人だが、これからタクシーで向かうのは胆沢(いさわ)埋蔵文化センターという歴史の展示を観る施設で、私の見たい触れたい知りたいに付き合ってもらう形である。
 施設は農村の只中の、店などが少し密集した通りに位置していた。四本の赤い円柱が目立つ玄関から入場し、二百円という安い料金を払った。
 この施設は周辺で発掘された歴史的史料の展示が主だが、その中心に据えられているのが、東北エミシの英雄アテルイとモレに関する展示だ。八世紀末に勃発した大和朝廷とエミシの戦いでエミシを指揮した人である。「炎立つ」の高橋克彦さんがこの戦いを「火怨(かえん)」という小説で描いている。それを読んできての訪問であるから、私は案内役の如くTさんに簡単な説明をする。もっとも、この戦いをまとめた解説映像を上映しているコーナーがあり、専門家が監修したわかりやすい映像を視ることができたのだった。
 一通り見学して外に出る。施設の斜向かいに広大な草地がある。そこは胆沢城の跡だった。朝廷軍を長年連破し続けたエミシたちに手を焼いた朝廷は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を将軍とした軍勢を奥州に送り込んだ。アテルイたちの拠点である胆沢まで進出した田村麻呂はここに城柵を建造し、最期は降伏させる。ひとつの歴史に区切りがついたのだった。
 胆沢城跡はわかりやすい遺構はない。だが、この野山の風景をアテルイもモレも田村麻呂も見たのだ。
 胆沢城跡の前からバスに乗り、水沢駅に出た。昼食として食べた駅そばの「冷やしめかぶそば」が美味しい。東北に来る度に食と酒に笑顔を作っている。恵まれた自然から生まれた味であり、その恵まれた自然があったからこそ、大和朝廷はこの大地を欲したのだろう。
 水沢から東北本線の普通列車に乗って15分、13時29分に平泉(ひらいずみ)駅に着いた。次は平安時代に奥州藤原氏が築いた宗教都市平泉の面影を辿る。
 駅前のレンタサイクルで自転車を借りて漕ぎ始めて間もなく、空から雨粒が落ち始めた。雨合羽も借してもらえたので着用して走り出す。
 平泉は平野という訳ではなく、所々に丘がそびえている。やってきた中尊寺(ちゅうそんじ)もそうであった。中尊寺は嘉祥三年(850)に創建されたという寺院で、奥州藤原氏ゆかりの地である。奥州藤原氏は大陸から僧侶や文化人を多く呼び、平泉を大きな都市に築き上げたのだ。
 自転車を停め、木々に包まれた参道を歩いて本堂にやってきた。靴を脱いで中に入ると、木のぬくもりとお香のおだやかな煙に包まれた。Tさんがしみじみとつぶやく。
「やさしい雰囲気のお寺だね」
 奥州藤原氏は仏教を特権階級のものに限定せず、庶民にも開放した。その息吹は今も息づいているのかもしれない。
 境内には金色堂(こんじきどう)というお堂がある。私たちはそこに向かった。ここに奥州藤原氏四代が安置されている。
 約百年もの繁栄を極めた平泉は、源氏によって滅ぼされる。時代が鎌倉時代に移っていく頃のことだ。またしても中央政権によって奥州の繁栄が壊されたのであった。鎌倉に二階堂という地名があるが、この地名の由来になった二階建てのお堂を持つ永福寺(ようふくじ)という寺院が、かつて鎌倉にあった。この寺院は、この時の戦いで亡くなった人たちを弔うために建立されたそうである。
 雨は降り続いている。私たちは毛越寺(もうつうじ)に向かった。毛越寺は大きな庭園を持ち、奥州藤原氏が京からの使者を歓待する場所にも使われたという。庭園の造りのあちこちに京文化の影響が感じられるそうである。
 平泉駅に帰ってきた。Tさんが売店で金色堂ビールというクラフトビールを買ってきてくれた。金色のラベルが厳かさを感じさせるビールで、もちろん美味しかった。
 平泉を15時54分に出た頃は雨も止み、16時26分に着いた北上(きたかみ)では少しずつ晴れ間が見えてきた。ここからは北上線に乗る。
 16時40分、一両の気動車が夕陽を浴びて発車した。北上市は遺跡の多い地域で、北上線の二つめの江釣子(えづりこ)は駅の近くに江釣子古墳があり、古代東北の北上川(日高見川)流域の文明を今に伝える地である。
 列車は和賀川(わがかわ)の渓谷に入っていき、ごつごつした岩が川面に並ぶ景色は、やがて錦秋湖(きんしゅうこ)に変わっていく。
 列車は秋田県に入った。私たちの今夜の宿は北上線の終点横手(よこて)である。眩しいくらいの夕陽に包まれたホームには大勢の高校生が立っていた。横手は古い建物が残る町である。旅館の場所を探していた私たちは親切な婦人に案内されて旅館に辿りつき、女将さんから頂いたすいかの差し入れを食べてから、古い町並みの残る通りに向かった。食堂風の構えの居酒屋に入って、扇風機の風を受けながらビールで乾杯をして、秋田の地酒高清水(たかしみず)を味わった。食事はおまかせコースのみという風変わりなこの店は、次々と家庭料理的な小皿が出てくるという庶民の良心が詰まっていた。締めは秋田名物稲庭(いなにわ)うどんである。

 翌朝、早起きしておいしい空気を吸い込みながら駅まで歩く。山が近い町なのだ。空も澄んでいる。7時15分発の奥羽(おうう)本線の普通列車は水田の中を安定した走りで抜けていく。朝の日差しを受けて緑が眩しい。
 秋田駅では51分の余裕があるので構内の食堂に入り、しらかみ豚かきあげそばを食べる。やはり美味しかった。麺も肉も固さがちょうどいい。
 9時13分の羽越(うえつ)本線普通列車で庄内(しょうない)方面に向かう。秋田県の本線で使用されている普通列車用の車両は通勤型ロングシートなので旅情に乏しいが、日本海沿いに走る車窓が絶景になる前に降りなくてはならない。9時55分、目的地の羽後本荘(うごほんじょう)に着く。
 ここから乗るのは第三セクター鉄道の由利(ゆり)高原鉄道である。私は以前ゴールデンウイークに訪れたことがある。黄昏時の高校生の帰宅ラッシュで座れず、運転席の後ろで景色を眺めた。夕陽に彩られた田んぼと畦道が淡いトーンで心に迫ったことをよく憶えている。
 一日乗車券を売っていたので購入する。値段は千五百円。今日はこのあと男鹿(おが)線に乗るので途中下車している余裕はないが、絵柄付きの切符を買った方が記念になる。
 ホームはJRと隣接していて、先ほど降りたホームに向かうと、白とオレンジの気動車が一両で停まっていた。「鳥海(ちょうかい)おもちゃ列車なかよしこよし」という観光列車だった。
 車内に入ると、木をふんだんに使用した内装は温かみがあり、車名どおりにおもちゃがいくつも置かれた遊戯空間があり、、外に向いて座るカウンター付き座席もある。私たちはテーブルを備えたクロスシートに腰を下ろした。
 10時43分に発車した矢島(やしま)行き気動車は、本荘の町並みを抜けると田園地帯に入っていった。沿線はほぼ農村である。
 おばこ姿の女性アテンダントが案内にやってきた。平日の午前とあって車内は空いている。アテンダントの隣には、学校の制服を着た女子高生がアシスタントとして付いていて、説明の際にフリップなどを持っていた。社会実習だろうか。
 この路線は国鉄時代は矢島線と言ったが、現在は鳥海山(ちょうかいさん)ろく線という線名が付けられている。アテンダントが沿線で鳥海山が望める箇所は少ないと説明する。名山鳥海山は見えなくとも、周囲の山々の稜線はなだらかな斜線を描き、夏から秋に移り変わる緑を輝かせて美しい。
 田んぼの中にぽつんと狭いホームが伸びる無人駅がある。曲沢(まがりさわ)と駅名標にあり、ホームに小さな待合室がある。こういう簡素な駅でぼんやりと過ごしてみたいとも思う。
 久保田という駅は、ホームから一段低い位置に青いトタンの駅舎があった。Tさんが「降りてみたくなる駅」だと言った。小さな待合室に地元の若者だろうか、男女が仲良く談笑している姿が窓越しに見えた。
 青々とした稲に包まれるように延びる線路は、寄り添う相手を少しずつ集落に変えていく。終点に町があるからこそ敷かれた路線なのだ。終点の矢島は規模こそ小さいが山の麓の城下町である。11時22分、列車は吹き抜け天井を持つ木造駅舎の終着駅矢島に着いた。
 駅舎内は売店があった。まつ子だんという超ベテラン名物店員が働く「まつ子の部屋」という店で、まつ子さんから花茶をいただいた。
 待合ベンチには鉄道に関する本や漫画が置かれ、整備の行き届いた居心地のいい駅である。先ほどまで私たちを案内してくれたアテンダントと高校生アシスタントの二人が、まつ子さんと談笑している。
 矢島は鳥海山の修験者の宿場として栄え、戦国時代にはこの地方をまとめていた由利十二頭のひとつ大井氏によって矢島城が築かれた町である。矢島城は江戸時代に生駒(いこま)氏の城となった。駅前から眺める山並みも流麗で、のどかないい所だ。
 沿線にも降りてみたくなる駅が揃い、終着駅も歩いてみたくなる町だが、鉄道乗りつぶし旅のせわしなさで、私たちは次の目的地である男鹿線に向かう。Tさんの第三セクター鉄道乗りつぶしが一路線終わった訳だが、またの機会に、ゆっくり巡ってみたいローカル線である。

     秋田内陸縦貫鉄道

 由利高原鉄道を名残り惜しげに降りた私たちは、秋田に戻り、秋田から男鹿線の列車に乗った。男鹿線は奥羽本線の追分から分岐している男鹿半島を走るローカル線である。最近、蓄電池で走る電車が投入されたと聞いていたので見てみたかったが、タイミングよくその車両がやってきた。
 蓄電池電車は男鹿寄りが赤、秋田寄りが青い車体の二両編成で、側面に形式番号と共になまはげの絵が添えられている。車内は残念ながらロングシートだった。
 ロングシートで飲食するのは気が引けるのだが、私たちは秋田駅の売店で地酒の小瓶を買ってしまっていた。終点で降りてから飲めばいいのだが、ローカル線の風情は気分を誘う。
「おっ、やっているね」
 男鹿線はワンマン運転で、途中駅で降りる人は先頭のドアまで足を運んで運転士に切符を渡して降りる仕組みだ。途中駅で降りるおじさんが、袋に包んだ瓶を控えめに飲んでいる私たちに笑顔で声を掛けて降りていった。
 男鹿は漁港町だ。私が前回訪問したのは随分と前のことなので駅前の記憶が曖昧だが、駅近くの食堂でアンコウを食べた。古びた駅の印象だったが、時を経て駅舎は改築され、駅前広場も広くなっていた。駅から少し歩くと海だ。強い風が吹く漁港は、動く船も歩く人もいない時間帯で、風が空気を裂いていく音だけが響いていた。
 秋田行きは同じ蓄電池電車だった。男鹿線は非電化で旧来は気動車が走る路線だった。蓄電池で起動する電車なら架線は要らない。速度や走行距離の問題で短距離路線向きなようだが、今後増えていくのかもしれない。新車投入で引退間近の国鉄型気動車と途中ですれ違う。こちらはクロスシートだった。

 二日めの夜は秋田駅前で二軒の居酒屋をはしごした。きれいな店とカウンターだけの店。魚の美味しい店と串焼きの美味しい店。それぞれ異なる空間で秋田の味を堪能した。三日めの朝も快晴である。
 秋田6時15分発と早起きした出発は、八郎潟(はちろうがた)周辺の広大な水田が朝陽に包まれる風景を眺める旅となり、11分遅れの7時50分に鷹ノ巣(たかのす)に到着した。ここからは内陸線の通称を持つ、第三セクター鉄道の秋田内陸縦貫鉄道に乗る。駅は隣接しているが、こちらは駅名が「鷹巣」と異なる。
 片道寄り道きっぷという片道使用に限定されたフリー切符を購入する。千八百円と金額は一見高く思えるが、全線94・2キロ、乗り通すと千七百円だから安い。
 フリーきっぷと一緒に、田んぼアートの場所を記した沿線マップを駅員から受け取る。こういう旅の演出は第三セクター鉄道や私鉄がJRより一枚上手に思える。
 8時10分に鷹巣を出る内陸線の列車は「犬っこ列車」という車両で、車内には犬の写真があふれている。秋田といえば日本酒と即答するくらい、この旅で飲んだくれている私たちだが、世間では秋田犬と答えるのが正解だろう。
 秋田駅で買ってきた駅弁を開く。秋田県名物の三種の肉が入った「秋田肉三昧」という美味しい逸品だ。秋田黒毛和牛、十和田湖(とわだこ)高原ポーク、秋田比内(ひない)鶏。鷹ノ巣から先の大館(おおだて)にかけては比内鶏の産地である。
 3分遅れで鷹巣駅を発車した列車は田園地帯を走り始めた。駅員からいただいたマップを手に、犬を形どった田んぼアートを眺める。緑に輝く稲穂が鮮やかに広がる。秋田は米どころでもある。
 列車はやがて杉の林の中を走り始める。沿線は高品質な杉が採れる林業の盛んな土地でもある。そして、秋田美人の本場でもあるそうなのだが、朝の下り列車は旅人とお年寄りが僅かに乗るだけであった。
 列車は阿仁川(あにがわ)の右岸に沿って走り始めた。阿仁川はこの先、鷹ノ巣の方ではなく、北に向かって二ツ井(ふたつい)のあたりで米代川(よねしろがわ)と合流し、能代(のしろ)で海に達する。内陸線の沿線は山中になってきたので川幅はさほどでもない。
 鷹巣から33キロ、大きな三角屋根の鉄筋駅舎を持つ阿仁合(あにあい)に着いた。若干乗客の入れ替わりがあり、ここからは急行となるが、百六十円の急行券は鷹巣駅で購入済である。フリーきっぷを購入した際、駅員が最初の下車駅を尋ね、急行券も一緒に発行してくれたものだ。こういうきめ細かい対応もローカル線ならではかもしれない。
 車窓は随分と山深くなった。斜面に杉が高々と茂り、沿線の民家も少なくなってきた。比立内(ひたちない)から先は国鉄時代に建設が停止し、第三セクター化された時に開通した区間である。つまり、国鉄時代は内陸を縦貫していなかった。比立内までは阿仁合線と呼んだ。比立内は少しだけ開けた平地に形成された集落で、私は前回内陸線に乗車した際、ここで降りて駅の近くの温泉に入った。
 9時50分、10分遅れで列車は阿仁マタギ駅に到着した。変わった駅名だが、駅からほど近い場所にマタギの里として知られる打当(うつとう)がある。私たちはそこに向かう。森に囲まれた民家の少ない駅に、私たちと一緒に子供の集団が下車していた。小学校の遠足か社会見学らしい。
 打当には「マタギの里」という施設がある。そこに行きたい訳だが、距離にして約2キロある。送迎バスがあるらしい。駅前に貼り出されている電話番号に掛けたが繋がらず、山に囲まれた田舎道を歩いていこうかと考えていたところ、Tさんが子供の引率の先生に話しかけられて車への同乗が成立した。
 やってきたのはマタギの里の送迎バスだった。運転中で電話に出られなかったらしい。恐縮しながら乗り込むと、子供たちから次々と挨拶が飛んできた。元気で明るい子供たちに癒される。
 マタギの里は農村の一角に立っていた。ちょっと大きめの公民館のような趣きだが、それがいい。
 受付の人が、資料館は子供たちで混むので、先に温泉に入ることを勧めてくれ、それに従う。入浴料六百円。
 打当温泉、浴室はとてもきれいで窓も大きい。森の風景が明るい日差しに包まれているのを眺めながら、先客がいない貸切状態で温泉を楽しんだ。
 資料館は二百円。マタギについての色々を展示している。マタギは、古くからの風習やしきたりを大切にしながら山で狩猟をする人たちである。山に入る前に身を清め、山の中ではマタギ言葉で行動をするなど、その独自性は東北の民俗学を語る上で重要な存在でもある。
 館内にはマタギの道具、マタギの暮らしを再現した部屋、熊の毛皮、マタギの歴史などが展示されている。熊を射抜く彼らの腕前が戦で登用された歴史は、知らなかった歴史であった。
 施設内には食堂もあった。私たちは熊鍋を食べることにした。マタギと言えば熊猟の印象が強いし、展示物にも熊の毛皮などがあった。どんな味がするのか気にもなった。
 昼から鍋を二人分食べるのは重いので、一人分を注文して二人で食べることにする。もちろん、ビールも頼んだ。受付の人が送迎バスの発車時刻を教えてくれたので、その時刻まで滞在することにしたのだった。
 熊肉は適度に脂が乗って美味しかった。
 案山子の並ぶ阿仁マタギ駅前に帰ってきた。私たち以外に誰もいない駅と駅前に、森の彼方から列車の音が届いてきた。やってきたのは、正面に猫の顔のイラストが描かれた「ねこっこ列車」だ。
 ねこっこ列車の車内は猫の写真が飾られ、猫のイラストがあちこちに添えられている。座席の一部には、猫のイラストが集合したデザインのクッションも置かれてある。素敵な癒しの演出に、私たちは歓喜しながら列車に揺られている。
 上桧木内(かみひのきない)で先ほど乗った犬っこ列車と行き違い、車窓は森から、やがて山麓の平地に移っていく。第三セクター化以降の新規区間は終わり、松葉からは国鉄時代は角館(かくのだて)線だった区間となる。
 旧角館線区間は農村を走る景色となり、再び秋田犬の田んぼアートが現れた。12時05分に阿仁マタギを出たねこっこ列車は、小京都と呼ばれ、武家屋敷もある町として知られる角館に13時03分に到着した。
 駅舎内には見どころを手書きした観光ポスターが貼られている。隣には蔵造り風のJR角館駅の駅舎が立ち、駅には観光地らしさが溢れていた。
 角館の町は駅から少し離れている。日差しが強いので、私たちは散策はせず、売店で買った「桜こまちビール」を屋根付きのベンチに座って飲んだ。桜の天然酵母を使用したと説明書きにある。田沢湖ビールという会社の製造だ。これから乗るのは田沢湖線で、その在来線上を走る秋田新幹線こまち号が乗車列車である。新幹線は快適ではあるが、私たちはもう少しだけ、秋田内陸縦貫鉄道のさわやかで可愛い余韻に浸りながらクラフトビールを味わっていたい。

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