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車窓を求めて旅をする③ 日帰りで行く個性派私鉄旅 ~芝山鉄道・秩父鉄道~

車窓を求めて旅をする③ 日帰りで行く個性派私鉄旅 ~芝山鉄道・秩父鉄道~

     芝山鉄道

 まだ乗っていない私鉄線は50を超えていた。大阪の地下鉄線は全線乗っているのに、東京はまだ乗っていない区間がある。神奈川県に住んでいながら、案外関東の私鉄線に乗っていない。東京に住んでいながら東京タワーやスカイツリーに行ったことがないという事例と似ている。要するに近い場所は足が遠くなる。「いつでも行ける」は、行先の選択肢から除外される理由となりやすい。
 鉄道路線図を眺めると、千葉県に未乗の私鉄がまだいくつか存在した。その中で少々面倒なのは浦安(うらやす)市にあるディズニーリゾートラインだ。テーマパークのアトラクションのような鉄道に思えるが、鉄道法のもとで運行されている立派な鉄道路線であり、最寄りの京葉(けいよう)線舞浜駅と各施設を結ぶ大事な足ともなっている。テーマパークに入るつもりはないが鉄道だけ乗っておきたい。調べると一日乗車券があるようなので、京葉線方面に出かけた際に勢いをつけて乗ってしまうことにした。
 私は関東に住んでいながら東京ディズニーリゾートには行ったことがない。「いつでも行ける」が足を遠ざけている。
 他にも、千葉県には個性的な私鉄がいくつもある。代表格は小湊(こみなと)鉄道だろうか。市原市の五井(ごい)から房総半島の内陸部に向かって延びるこの私鉄は、駅も車両も随分と昭和な設備で、それが鉄道ファンのみならず、レトロアイテムが好きな人々にも好まれて、今や休日ともなれば多くの観光客が訪れる鉄道となっている。終点の上総中野(かずさなかの)で接続する第三セクター鉄道のいすみ鉄道も様々な企画で人気の路線だ。
千葉県の東端を走る銚子(ちょうし)電鉄も味わい深い。全長6・4キロの短い路線ながら、駅や車両の古さと可愛らしさで人気である。
 銚子電鉄の全長も相当短いが、更に短い鉄道が存在する。それも同じ千葉県内を走っている。千葉県は個性派鉄道が集う県である。

 2016年12月30日。年末休みを利用して青春18きっぷを片手に日帰り旅に出た。向かうのは「日本一短い鉄道」である。
 品川から総武(そうぶ)線快速に乗り、千葉で成田方面の列車に乗り換える。次にやってくるのは総武線快速として千葉まで走ってきた快速エアポート成田で、つまり品川駅で時刻表を確認して乗っていれば千葉駅で乗り換える必要はなかった訳だった。
 今日の天気は冬晴れで空は青いが、吹く風は随分と冷たい。寒さを堪えながら快速の到着を待つのだが、こういう時にかぎって列車が遅れたりする。12時ちょうどに千葉を出る筈だった快速は8分遅れで発車した。
 四街道(よつかいどう)の辺りから車窓は農村めいてくる。日本の高度成長期に宅地化が進行したのは千葉市とその周辺までで、その先は都内への通勤圏としては少し遠いということだろうか。古くからの町である佐倉や成田もJR線よりも私鉄の京成(けいせい)線沿いの方が市街地化されている。JR線の駅の方がローカルな構えだ。京成はJRよりも便利なダイヤとなっているから、運転本数の多い路線の沿線が開発されるということかもしれない。
 その京成線の線路と成田の先で合流し、並走しながら線路は地下に入っていく。二つの路線が同じトンネルを使用して線路を敷いているが、JRと京成では軌間幅が異なるので、それぞれ独立した線路となっている。
 千葉から40分で快速列車は地下駅の空港第2ビル駅に到着した。同じ駅名でJRと京成でホームを別々に用意している。これは隣の終点成田空港駅も同様で、両社の関係を邪推してしまうが、成田空港への短絡ルートが開通してからは京成がシェアでJRを圧倒しているので、旅行者が想像するほど現地には火花は飛んでいない。
 以前、鉄道に乗ることだけを目的に成田空港駅にやってきた時、改札で警備員から身分証明の提示を求められたことがあった。海外旅行者であればパスポートを持参しているのだが、私は只の鉄道旅行者だ。素直に訪問理由を説明して外に出た思い出がある。
 だが、今回はそのような検問はなかった。世の中がそれだけ平和になったというべきか、たまたま前回は警備強化日だったのか、真相はわからない。
 改札を出たところに空港ターミナルビルに向かう通路とは別の通路が存在している。乗客の流れとは無関係な方向に地下通路がひっそりと延びている。通路の上には「京成線東成田駅への連絡口」と掲示され、その下に、この先はカート使用禁止を警告する立て看板が置かれている。
 誰も歩いていないこの通路に私は入っていった。幅はさして広くない。少しだけ暗い照明の下、白い壁に包まれた通路を歩く。壁には何も貼られていないが、空港第2ビル駅から100メートル歩いた地点で、それを示す案内板が両脇に現れた。通路はこの先、東成田駅まで400メートルとある。
 おそらく等間隔に設置されているのだろう防犯カメラと、非常口の方向を示す案内板。そして、100メートルおきに現れる距離を示す案内板。それだけが、静まり返った通路で存在を主張している。このまま誰ともすれ違うことなく東成田駅に着くかと思われたが、警備員が前から歩いてきた。
 歩き始めて8分。視界に白いタイル壁の駅構内が出現した。東成田駅。京成線と芝山(しばやま)鉄道の境界となる駅であり、かつて「成田空港」と呼ばれた駅である。

 昭和五十三年(1978)5月21日、成田空港開業に合わせて京成線は京成成田から成田空港まで延長開業し、成田空港駅は空港連絡駅として使用開始された。しかし、駅の位置は空港のターミナルビルから離れているため、バスに乗り換えなくてはならなかった。そのような不便を強いられた原因は、当初空港アクセス鉄道は国鉄成田新幹線が担当する計画となっていたからで、京成はその補完と職員輸送を受け持つ予定だった。
 時代の流れの中で新幹線計画は頓挫し、新幹線駅が造られる予定だった地下空間に京成とJRが乗り入れて空港アクセス鉄道が本格開業したのが平成三年(1991)5月19日だった。この日から、それまで成田空港と呼ばれた駅は東成田という駅名になり、空港利用者を運ぶ使命から退いた。
 最盛期は一日二万人以上の乗降があったというこの駅も、今は人の気配の薄い駅となっていた。近年の乗降客数は二千人を割っている。利用者のほとんどが空港関係者。つまり通勤需要のために駅は存在し続けている。
 広いコンコースに残された「曲水の宴」という陶板壁画は外国人観光客を迎えるための演出だったのだろうか。その堂々たる大きさの壁画と、地上に出る階段の幅が、かつての国際空港連絡駅の体裁を保っている。だが、おそらくベンチがあったと思われる場所は広い空間となり、売店やレストランがあった場所は仕切りで閉ざされていた。
 切符を買う。これから乗る芝山鉄道はICカードが使用できない鉄道だった。芝山鉄道の終点であり、隣の駅である芝山千代田(しばやまちよだ)までは200円。
 改札を通ってホームに向かう。二面四線のホームのうち、特急スカイライナーが発着していたホーム一面は閉鎖されて、そこは照明が落とされていた。
 今この駅にやってくる電車は少ない。日中40分間隔で京成線と芝山鉄道を結ぶ電車が走るだけだ。このまま誰も現れないかと思われたホームに、スーツ姿の男性がやってきた。ほどなく電車が到着した。京成の銀色に赤と青の帯が入った車両である。
 数名の乗客が居るだけの電車は速度を上げて地下線を走ると、すぐに窓外は明るくなり空港の風景が映し出された。待機中の航空機が何機も佇んでいる。見慣れた青と白のANAもいれば、見慣れぬ白に水色と黄緑のウズベキスタン国際航空もいる。気づけば電車は減速に入り、一面一線の高架ホームに入っていった。所要時間3分。全長2・2キロ。公式サイトに「日本一短い鉄道」を掲げる芝山鉄道の乗車が完了した。

 芝山鉄道の終点である芝山千代田駅は空港のはずれのような場所に立っていた。そこは芝山町の中心から少し離れている。平成十四年(2002)10月27日に開業だから、駅ができて十四年が経過しているが、駅の周囲に商店が立ち並んでいることもなく、ロータリーにはバスの姿もなく、バス停のポールだけがぽつんと立っている。
 案内板を見るかぎり、駅の南側は航空会社の建物や航空貨物ターミナルが集まっているようだ。時刻は13時を過ぎている。昼食にしたかったが、これといった店が見つからない。私は案内板を頼りに、駅から徒歩数分の距離にあるコンビニに行くことにした。
 道路の周囲は空地とも農地ともつかない空間と、点在する建物が並んでいる。駅ができたからといって開発が急展開するような場所ではないのだろう。
 農協の建物の先にコンビニがあった。私はそこでパンを買い、駅に帰ることにした。日差しは柔らかいが吹く風は相変わらず冷たい。駅のホームにはガラスで覆われた待合室がある。そこに座って40分に一本の電車を待ちながらパンを食べた。

 芝山千代田を出た電車は東成田を経て京成線に入っていく。京成成田で下車し、徒歩でJRの成田駅に向かった。成田市内にはまだ未乗の路線があった。京成の成田空港駅から北総線に向かう空港短絡ルートである成田スカイアクセス線である。この路線に乗るには成田空港駅か空港第2ビル駅に向かい、そこから成田スカイアクセス線経由の列車に乗らなくてはいけない。だが、私はJRの成田駅に向かうことを選択し、そこから成田線の佐原(さわら)に足を延ばすことにした。佐原は成田から30分ほどの距離だ。
 今日手にしている切符は青春18きっぷだ。少しはローカル線の旅をしたかった。成田線は成田を出ると俄かに農村の景色が濃くなり、単線の線路と細いホームの駅が旅気分を盛り上げてくれる。そして、佐原は水路が町を流れる古い家並みのある所だった。駅には何度か降りているが町歩きをしたことはない。
 鉄道路線に乗るための旅をしていても観光はしたい。そんな風に寄り道をしているから、近場に未乗路線がいくつも残ってしまうのだろう。
 冬支度の畑をぼんやりと眺めていると電車は佐原に到着した。駅前から延びる細い道を歩きながら、古びた商店を眺めつつ町の中心に向かった。吹く風はやはり冷たかった。

     秩父鉄道

 佐原の町歩きで風邪をひいたようだった。吹く風に寒気を感じながら町歩きを済ませて、駅の待合室で暖をとっていたのだが、少し無理をし過ぎたようだ。
 年明けに行きたい所はいくつかあった。だが、風邪の症状が落ち着くまで家で悶々と過ごすほかなかったのだった。
 2017年1月4日、高崎線の熊谷(くまがや)駅までやってきた。これから乗るのは秩父(ちちぶ)鉄道という私鉄である。
 秩父鉄道は社名の通り秩父市を通る秩父観光の鉄道線であるが、営業区間はなかなか長く、東武伊勢崎線と接続する羽生(はにゅう)から熊谷を通り、東武東上線と八(はち)高(こう)線が集まる寄居(よりい)を経て三峰口(みつみねぐち)に至る、全長71・7キロの路線である。沿線の足としてだけでなく観光客誘致にも力を入れていて、、SL列車も走っている。
 秩父鉄道に乗るのは初めてではなかった。過去に秩父から寄居、熊谷から羽生にそれぞれ乗ったことがある。中途半端な乗り方になっているのは、他社線に乗った帰りに寄り道して乗ったからであって、全長が長いゆえに何かの合間に乗るという姿勢では完乗できない鉄道である。
 全長が長いということは運賃もそれなりにかさむ訳だが、ありがたいことに「秩父鉄道開運縁結フリーきっぷ」という一日乗車券が販売されていた。千四百円という値段も割安だ。何しろ、羽生から三峰口まで普通に乗り通すと千円を超えるのだ。
 JR線の連絡通路に面した乗り場から改札を抜けてホームに下りると、側面に鮫のイラストが描かれた電車が停車していた。元は東急のステンレス製通勤型電車だが、海面を模した青いラッピングが施されている。鮫の電車は10時58分に熊谷を発車した。
 電車は市街地を抜け、すぐに農村と郊外住宅地を走り始めた。前方遠くに見えていた山々が少しずつ近づいてくる。三路線の鉄道がやってくる寄居の広い構内に近づいた頃には、山は線路の近くまで迫っていた。この辺りが関東平野の端なのだろう。
 寄居を出ると左窓に荒川の渓流が寄り添い始める。線路は荒川に沿って左右に曲がりくねりながら、秩父山麓の農村を結んでいる。舟下り観光で知られる長瀞(ながとろ)を過ぎ、平地が広くなってくると秩父市の中心駅である秩父に着いた。熊谷から1時間9分が経過していた。
 秩父駅の駅舎は地場産業振興センターが入った小さな駅ビルとなっていて、その一階で肉そばを食べてから町に出た。
 住宅や商店が密集する道を歩いていくと秩父神社が現れた。古代からの歴史を持つ社で、武州六大明神の四宮に数えられている。参拝者で賑わう境内に入り、本殿で手を合わせた。
 秩父神社から町中を南の方角に歩いていく。やがて御花畑(おはなばたけ)駅が現れた。可愛らしい駅名だが、駅の東にそびえる丘にある羊山公園は芝桜の名所で、駅舎に掲げられた花のイラスト入りの駅名標にも「芝桜駅」と掲示され、その上に小さく「秩父鉄道御花畑駅」と添えられていた。
 御花畑駅の横に構える西武秩父線の西武秩父駅の広い構内を横目に秩父鉄道の電車は発車した。御花畑から3分で着いた影森(かげもり)がこの電車の終点だった。
 影森は山の入口といった風情がある。駅の近くまで山が迫り、線路の先は谷となっている。ここで電車を乗り換えるのは編成が四両から二両となるためで、つまり影森から先は乗客が少ないローカル区間ということなのだろう。11分の乗り換え時間を経て、13時25分に電車は山に向かって発車した。
 電車は熊谷から乗った編成と同じ形式で、元東急の通勤型電車だから内装は旅情に乏しいが、窓外は車内と比例せず山間に入っていく。荒川が作り出した河岸段丘の上に敷かれた線路は、河岸段丘に作られた小さな集落に停車していく。小ぶりなスレート屋根の駅舎が古民家のようで愛らしい。
 影森を出てから14分、終点の三峰口に着いた。広い構内に何本もの側線を持つ駅で、側線には古い車両が何両も佇んでいる。
 駅舎はここまでのローカル駅と同様に古びたスレート屋根のものだったが、駅前広場はバスが乗り入れられる程度の広さがあり、土産物屋なども並んでいる。ここは三峰神社の最寄り駅である。
 三峰神社へはバスで向かうことになるのだが、次のバスは14時30分と40分以上の空き時間があった。そばに立っていた観光客に店のおばさんが「今からバスで行っても帰りの便がない」と説明している。三峰口を出るバスは15時30分発が最終だという。三峰神社は山中にあるので、バスを降りてから神社までは少し距離がある。つまり、次のバスで向かっても参拝時間の余裕はないのだった。
 参拝は諦めて、私は駅構内に展示されている旧型車両を見に行くことにした。
 線路の先にある踏切を渡って駅の裏に出る。線路の先は谷が深くなっていて、鉄道がここまでしか敷かれなかったのが頷ける険しい景色だが、駅の裏手は荒川に面した緩やかな起伏に立つ農地となっている。線路に沿って通路を歩き、展示場に出た。かつてセメントを運んだ黒い貨車が繋がれている。台が置かれてあったりするので上がってみると、貨車の錆びた荷台が覗けた。
 機関車の転車台が現れた。ターンテーブルと呼ばれる丸い部分に機関車を停めて回転させ、それで向きを変える仕組みとなっている。運転台が一方向にしかない蒸気機関車はこれを使って向きを変える。現代ではほとんど見られなくなった鐡道施設だ。太陽が山肌に隠れ始めた山地に昭和の残像が映し出されている。
 更に歩くと古い電車が出現した。ベージュとえんじ色の車体は凄まじく錆び、鋼板が剥がれている箇所もある。説明板には「クハニ29号」とあり、戦後の車両不足を補うために国鉄から払い下げされた車両だとある。製造年は大正十一年、改造年は昭和二十八年。昭和六十三年まで現役だったという。

 錆びた電車と深い山々。冬の西日はすでに傾き始めている。14時50分に三峰口を出た電車は行きと同じく影森で乗り換えとなり、今度は19分の時間を置いて熊谷方面の電車が発車した。
 まだ日が暮れるには早い。どこかで途中下車をしようと考えている。観光地ではないが、店などがあるくらいの規模の集落がよい。黄昏の里を歩いてみたい。15時42分に到着した皆野(みなの)で降りてみた。
 西日を受けて淡い色に染まる駅舎の上に平たい雲が浮かんでいる。空はまだ青い。駅前から細い道が延び、道の脇にタクシー会社の営業所や割烹料理店などが立っている。
 道はすぐに商店街に突き当たった。低い山を背にした小さな町だが、店はいくつも点在している。町に根ざした小さなスーパーマーケットがあった。こういう店を見ると入りたくなる性分だから、秩父の地酒武甲正宗(ぶこうまさむね)のワンカップとチョコレートを買ってみた。
 16時13分、夕陽に染まるホームから熊谷行きに乗った。昼過ぎに熊谷から乗った鮫の絵が描かれた電車だった。車内の壁には動物の姿があちこちにプリントされている。乗客は家族連れに若い女性グループと観光客が多い。皆野の集落をもう少し散歩するか、もう一駅降りてみればよかったと思いながら窓外を見つめる。
 景色は平野に入ってきた。寄居の町にさしかかった頃には日は暮れ、畑が青く染まり始めた。その畑もやがて住宅地の景色となり、皆野からちょうど1時間で熊谷に到着した。
 熊谷に着く手前から私は思案していた。もう少し乗っていたい気分だったのだ。せっかくのフリーきっぷだから全線を乗り通してみたい。自己記録としての秩父鉄道の全線完乗は果たしたが、今日はまだ熊谷から羽生の区間は乗っていない。
 時刻表によると羽生行きの発車時刻まではまだ少し間があった。熊谷駅を包む空は薄暗い程度の明るさを維持しているが、その電車が熊谷を出る頃はもう夜景となりそうだ。それがわかると羽生行きへの意欲は吹き飛んだ。
 熊谷まで乗ってきた鮫の電車はドアを開けたまま発車時刻を待っていた。時刻が迫っていないから車内は閑散としている。私は座席に落ち着いたまま、秩父鉄道の電車の感触を名残り惜しむように、皆野で買った武甲正宗を飲み始めた。

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