短期投稿 スタジアムエッセイ第一回「ボールパークへ連れてって」

ボールパークへ連れてって

   国民的ソング

 ラッキーセブンの攻撃を迎えるにあたって、客席は少しだけ腰を浮かせかけている。定番となっている球団歌が流れる場面である。球団によっては歌が終わるとともにジェット風船を空に放つことを恒例にしている。子供などは、それが試合よりも楽しみであると言いたげな顔で風船を手にしていたりする。日本のプロ野球ではおなじみとなった光景である。だが、ある日の東京ドームの試合は違っていた。
 かつて、東京ドームをホームとする球団は二つ存在した。一つは言わずと知れた読売ジャイアンツであり、ジャイアンツは今も東京ドームをホームにして活動している。もう一つは、パシフィック・リーグに属する日本ハムファイターズだった。
 ジャイアンツの試合は毎試合大勢の観客が訪れ、チケットの確保も楽なものではなかったが、パ・リーグの試合は当日券で入場できた。理由は簡単で、空いているからだ。球場の外に身構えるダフ屋の方々も暇そうである。ジャイアンツ戦では有り得ないことだが、パ・リーグの試合は窓口で当日券を買い求めるよりも、ダフ屋のおじさんから買った方がチケットが安く入手できた。
 私はダフ屋の誘惑から逃れ、内野上段スタンドの席を指定された当日券を握りしめて入口に向かう。客入りの悪いパ・リーグにささやかな貢献をした気分で階段を上がる。入口に立つ退屈そうな係員が、けだるそうに当日券をもぎった。
 今日のファイターズの対戦相手は千葉ロッテマリーンズであった。私はマリーンズを好ましく思っているから、マリーンズを観たくてやってきたのだ。当日券に指定された席は三塁側のどこかだが、上段スタンドは閉鎖しているかと見紛うほど空席だらけだから、私はこの球場でパ・リーグを観る時は大体上段スタンドのバックネット裏付近と決めている。
 空いているからビール売りも滅多にやってこない。飲みたければ、急な階段を昇降してスタンド裏の売店に行くしかない。もっとも、東京ドームのビールは他球場と比べれば割高だ。それは美人揃いのビール売りの女性陣が厳しいオーディションを経て採用されていて、その人件費ゆえの値段なのではないかと邪推しているくらいの値段の高さだから、一杯でやめておく。
 ドーム球場という場所は、どこかテーマパークじみている。安心と安全が保証されている。困ったことがあれば係員に尋ねれば万事は解決であるし、ピクトグラムの類も充実している。方向オンチの私でも迷わずに済むくらいである。
 そんな安心安全さは快適空間を約束してくれても、試合の臨場感を高めてくれるかというと、そうでもない。むしろ足枷になっている感すらある。一階席ではファウルボールが飛んでくると、すぐに係員が駆け寄る。見守られているのは有り難いが、集中力を削がれるようで落ち着かない。私がこの球場で一階席に座る機会が少ないのは、チケット代だけが理由でもない。
 同様に感じている人もいるようだ。束縛された安全よりも、不便さと引き換えの自由を求める人もいるらしい。内野の一階席に陣取る年配ファンは鬱憤を発散するかのごとく、野次という手段を持って、ここが野球場である事実確認をしながら試合に参加していたりする。
 上段スタンドに座っていても、そんな空気を感じとれる程度に、客席は空いていた。だが、その日は少しだけ様相が違っていた。客席に白人の姿をよく見かけるのだ。私の近くにも白人男性のグループがいる。理由はすぐにわかった。今日は「ヤンキースデー」という試合で、日本在住のアメリカ人を多数招待しているようだった。ニューヨーク・ヤンキースはファイターズの業務提携先である。
 彼らはビール片手に談笑している。試合を真剣に観ている様子はない。無理もないことだ。両チームにアメリカ人がよく知る人物はおそらく皆無であったからだ。彼らはどちらのチームにも関心はないようだった。
 そんなアメリカ人たちの様子に変化が見られたのは七回表が始まる前だった。
 今はパシフィック・リーグもセントラル・リーグも七回になると場内にそれぞれの球団歌が流れるようになったが、当時はホームチームのみ、つまり七回裏の開始前に流れるだけだった。七回表は無風のままビジターチームの攻撃が始まる筈だったのだ。攻撃の前のインターバルに場内に流れる軽快なBGMを掻き消すように、レフトスタンドに陣取るマリーンズファンが合唱を始めた。その声は野太く、ドーム球場のカーボンファイバーの白い屋根に大きく反響した。それまで眼前の出来事に集中していなかった周囲のアメリカ人たちが、会話を止め、手を止め、視線をレフトスタンドに向けた。そこから聞こえてくる歌声に耳を澄ましているのだ。

 Take me out to the ball game
 Take me out with the crowd
 Buy me some peanuts and Cracker Jack
 I don't care if I never get back
 Let me root, root root for the home team
 If they don't win it's a shame
 For it's one, two, three strikes you're out
 At the old ball game

 歌が終わると共に、私の周りのアメリカ人たちはレフトスタンドに向けて拍手を送った。
 マリーンズの七回の攻撃が終わり、続いて七回裏ファイターズの攻撃となる。通常であれば、ここでファイターズの球団歌である「ファイターズ賛歌」が流れるのだが、この日は違った。聞こえてきたメロディは、のどかな音を響かせた往年のカントリーソングを彷彿とさせる旋律であり、それに続いて場内スピーカーから英語の歌が流れ始めた。少し前にレフトスタンドから聞こえてきた曲だ。
 本来ならば、ここで球団歌を歌う主役となる筈だったライトスタンドのファイターズファンは置いていかれたまま呆然としている。仕方がない。今日はヤンキースデーなのだ。
 その時だった。レフトスタンドの端に陣取る数百のマリーンズファンたちが歌い始めたのだ。先ほど伴奏も無しに歌い切った彼らは涼しい顔をして最後まで歌い切った。
 私の周囲のアメリカ人たちが立ち上がり、歓声を送りながら温かい拍手を送った。マリーンズファンが歌った曲は彼らもよく知る「国民的ソング」だったからである。
 アメリカベースボール界にはファンがひとつになって歌える曲がある。なんとも羨ましく思える話であり、それを改めて認識させられた日だった。

 この話は90年代の出来事だ。長らくアメリカ合衆国ではアメリカンフットボールが人気スポーツの座に君臨し、テレビの視聴率も、入場チケットの入手難易度も、NFLというアメリカンフットボール最高峰のプロフェッショナルリーグが合衆国でもっとも人気の高いスポーツエンターテイメントとなっている。
 90年代においても、ベースポールはまだ高い人気を誇っており、ランディ・ジョンソンもケン・グリフィー・ジュニアもバリー・ボンズもスーパースターだったし、野茂英雄もそうだった。まだベースボールが「ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)」だった。
 そのベースボールで七回になると必ず行われる約束事がある。「セブンス・イニング・ストレッチ」と呼ばれるもので、要するに「みんなで、観戦で凝った体をほぐしましょう」というリラックスタイムなのであるが、その時に球場内で流れる曲が、このヤンキースデーの東京ドームに流れた曲「Take me out to the ball game」。邦題「野球場へ連れてって」である。
 この「Take me out to the ball game」のアメリカ合衆国における知名度は相当なものであるようで、「国歌の次に有名な曲」という話も聞こえてくる。あの日の東京ドームのアメリカ人たちの反応を見るに、あながち誇張とも言い切れないと私は感じている。
 そんな、アメリカ人なら大抵知っている筈の曲を、なぜ日本のプロ野球ファンが合唱できたのか?
 マリーンズは平成七年(1995)、メジャーリーグでの監督実績を誇るボビー・バレンタインを監督として招聘、本場メジャーリーグからやってきた監督を迎えるにあたって、球団と応援団が従来の応援形式を見直し、メジャーリーグのように声援と拍手を前面に出した応援にしていこうと試みた。その形に、日本の旧来の応援形式である応援歌による応援を組み合わせ、サッカーのサポーターのような声を前面に出した応援形式に転換したのだった。
 それだけではアメリカナイズされた応援という形にならないから、球場では七回裏のマリーンズの攻撃になると「アメリカ合衆国において国家に次いで有名な曲」を流すようになり、ファンも合唱するようになったのだった。

   ボールパーク

 日本の野球は学生野球の発展によって歴史が開かれていき、その先にプロ野球が生まれた。プロ野球連盟が結成されたのは昭和十一年(1936)。2リーグ制を開始したのが昭和二十五年(1950)のことである。
 プロ野球の球場で繰り広げられる応援がトランペットと太鼓に合わせて歌を歌う形になったのは80年代のことであり、広島東洋カープの応援団が始めたとされている。この応援形式は学生野球の応援団が見せる、ブラスバンドとコールによる応援が根源にあると考えられる。そういった応援風景は高校野球のテレビ中継で日本人にとっては馴染み深いものであるから、プロ野球の球場にも浸透した。
 メジャーリーグの球場には基本的に応援団というものは存在しない。観客はプレイを観て歓声を上げ、拍手をする。場内演出に合わせて手拍子を打ったり、何かを揃って実行するという応援はあっても、定形としての集団応援はない。だが、そんな彼らが心をひとつにして揃って声を張り上げる瞬間がセブンス・イニング・ストレッチであり、「Take me out to the ball game」なのである。
 日本の球場におけるそれは、球団歌の合唱が定着した。それは、応援団主導の応援形式の浸透でもあるし、球場演出の成果でもある。日本の応援風景として変えようのない定番となり、球団、球場によっては、七回にこれをしないと観に来た気がしないというくらいに試合の流れと密着している演出となった。
 だが、各球場で共通のいつも流れているおなじみの曲があれば、贔屓球団の垣根を越えてファンがひとつになれる歌として認識されるだろうし、そんな音楽が存在したらよいのにと思う時もある。そういう歌が存在していれば、日本代表チームの試合の時にも選手と観客の気分の高揚に使えたのではと思うのである。
 応援しているチームを超えて、ファンの心がひとつになる音楽。実はない訳でもないのだった。
 平成十六年(2004)のシーズン、パシフィック・リーグの大阪近鉄バファローズが消滅するという報道に、ファンの間に激震が走った。動揺したのはバファローズのファンだけではない、パ・リーグのファンも、あるいは、セ・リーグのファンも震撼させられた。何故ならば、この一球団消滅という事態は球団の身売りではなく既存球団との合併であり、追随する球団の噂が流れると共にプロ野球の1リーグ制移行が報道によって囁かれたからだ。
 ファンが抱くリーグへの愛着心という点においては、セ・リーグよりもパ・リーグの方が強い。セ・リーグが球団への愛着を持つファンによって隆盛が築かれていったのに対して、パ・リーグは球団単位では注目度が低かった歴史を持つため、各球団のファンが「パ・リーグ球団を応援する者は同志である」というような一体感を抱いていた。だから、この「球団消滅と1リーグ制移行」を2が1になる組織再編という事象以上に、「パシフィック・リーグの消滅」であると受け止めたのだ。
 報道を受けて間もなく、パ・リーグ各球団の応援団はイニングの合間に共通の歌の合唱を開始する。短いフレーズだが、歌詞はこうだった。

 我らの 我らの パシフィック・リーグ

 この歌は球界の激震を受けて応援団が作った訳ではなく、それはパシフィック・リーグの連盟歌「白いボールのファンタジー」という歌である。昔は球場でも流れていたようだが、いつの頃からか知る人ぞ知る楽曲となってしまった。
 この連盟歌の、このフレーズを球場内のファンは合唱した。バファローズの存続はパ・リーグの存続でもあったのだ。
 結果、バファローズは存続し、今もパ・リーグは存在している。バファローズは合併という形の落としどころとして名前が残り、6チームによるリーグ運営の継続のために新球団が生まれた。あの時、ファンがひとつになって、ひとつの歌を歌ったからだと美しくまとめるのは気持ちの収まりがつかないが、歌が熱意という形の表現として作用し、関係者の心理に多少なりとも影響を与えたと思いたくはある。

 プロ野球は今も十二球団であり、リーグも二つのままだ。2004年の騒動後、球場風景に大きな変化は訪れなかった。パ・リーグファンが共通の歌を合唱することはなくなり、応援がアメリカナイズされることもない。年月が積み上げてきたものが簡単に変化する筈もない。当然だ。
 しかし、意識として変わった風景がある。メジャーリーグの風景を取り入れようとした結果の風景が存在している。それは単語として浸透している。ずばり「ボールパーク」である。
 メジャーリーグの球場はボールパークと呼ばれている。この単語を聞いてイメージするのは、内野にまで敷き詰められた天然芝のフィールド。スタンドは大きく、観客席には色々な仕掛けが施されている。異様に高いフェンスであったり、噴水であったり、海であったりする。日本で観客席に工夫を施し、ボールパークという単語で説明したのは2009年に開業した広島の新球場マツダZoom Zoomスタジアムである。
 この広島の新球場が大好評で受け入れられたことにより、各プロ野球場がボールパークを目指すようになった。目指す方向はスタンドの演出であり、スタジアム外周の縁日化である。野球を観る以外にも楽しみを与える。そこがキーワードとして重要視されてもいる。
 球場の設備についてをメジャーリーグを参考にして設計することは以前から実施されてきた。昭和三十七年(1962)に東京都荒川区に開業したオリオンズの本拠地東京球場はサンフランシスコのキャンドルスティック・パークをモデルに造られ、ポール型の照明塔、スロープ式のエントランス、内野の天然芝、余裕あるシートピッチなど、ボールパークと呼ぶにふさわしい設計となっていた。
 建物や構造を参考にしたものとしては、ミネアポリスのメトロドームの屋根を参考にした東京ドームや屋根付きスタンドの構造がシンシナティのリバーフロントスタジアムに似ている千葉マリンスタジアムなどがあった。だが、正面切って「ボールパーク」を掲げたのは広島が初といっていいだろう。
 広島の成功を受けて各球場は改築を開始した。フィールドレベルの内野席を設けることは常識となり、観覧車を備える球場まで現れた。来場者が野球以外にも楽しみを見出せる施設。スタジアムという枠を超えてパーク(公園)と呼びたくなる普遍性と大衆性を備えたと言えるかもしれない。

 スタジアムの観客席のボールパーク化が進行していく中で、競技者第一の思想で設計されるスタジアムは増えないのが寂しい。つまり、天然芝の野球場だ。膝の故障で引退する選手のニュースを聞く度に、人工芝のプロ野球場が無くなってほしいと願っている。
 90年代に入って日本のプロ野球場がドーム型球場に代わっていく流れがあった。ドームは全天候型の利点を活かしてイベントにも使用される。だが、イベントに使用するための効率的問題とフィールドを屋根が覆う構造上の問題で、ドーム型球場は人工芝となる。
 ドーム球場のみならず、旧来の屋外式スタジアムが新規開業しても人工芝であるケースが多い。地方の新しい野球場も人工芝を採用することは珍しくなくなった。経費と芝の管理の問題が大きいのだろう。
 その施設の主役は誰なのか。あれも、これもと手を広げた結果、使用者は誰も喜ばない施設になっていないか。
 スポーツ施設は金がかかる箱である。メジャーリーグでは自治体がスタジアムを建設するケースが多い。日本も基本的にはそうだ。税金を使ってスタジアムを造る。是か非かを問うために、アメリカでは住民投票が実施される。住民が必要だと感じれば建つし、この町には必要がないと感じているのなら建たない。実に民主的である。
 日本のスタジアムも市民の意見が反映されるものであれば、不必要なものは建たず、必要であれば必要な規模で必要な設備を備えて完成する筈である。
 野茂英雄のロサンゼルスドジャース移籍から四半世紀が経過した。BS放送で日本の野球ファンも外の世界を知ることができた筈だった。だが、変わったものよりも、変わらないものの方が多いのではないだろうか。日本には日本の正解がある。それは確かだが、果たして日本の「ボールパーク」は野球をプレイするための最良の施設になり得ているのだろうか。

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