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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(21)

エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ

Everybody’s Happy Nowadays

 

シングル発売のみ

B面:「ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?」

録音:1979年、ストロベリー・スタジオStrawberry Studios[1]、ストック・ポート

発売日:1979年3月2日

ソングライター:ピート・シェリー

プロデューサー:マーティン・ラシェント

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

レコード内溝のメッセージ:「黒髪に誘惑されるな」

 

この曲はいつレコーディングしたかは憶えてます?

 

マーティン・ラシェントがマンチェスターに出張してきて1979年1月に、ストロベリー・スタジオでレコーディングした。10cc[2]がいつも使ってて、スミスも後になって使った。前もって何日かは練習に費やしたな。

 

創作はどこで、いつ?

 

『ラヴ・バイツ』のツアーが終わってしばらくたった頃、前の年の9月か10月。切れ切れの記憶だけど。

 『トップ・オブ・ザ・ポップス』に二回登場したのはこの曲だけなんだよ(『エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ』よりも収録回数が一回多かった。あっちの収録は一回だけで、それを使いまわしたんだね)。

 

歌詞ではどんなことを扱ったんです?

 

「エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ みんな今は仕合せ」ってくだりはオルダス・ハスクリーの『素晴らしい世界Brave New World』から取ったんだ。ディストピア的未来。人々が仕合せになろうと国公認のソマSomaという名のドラッグに浸り、しかもそうなることが国のスローガンになっている、そんな内容の小説だよ(それが今やシタロプラムCitalopramやプロザックProzacで現実のものになっているわけで、すごく先見性のある作品だ!)(訳注:シタロプラムとプロザックはともに抗鬱剤)。

 極端にミニマリスト的かつ計算高い人間を描いた曲だね。歌詞の内容は殆んどこれといった展開はない。そういう意味では未来的な感じはちょっとするね。基本的には、現状を肯定してるんだ。本の内容のことじゃないよ。もし望みのモノが手に入らないなら、その人は不仕合せになる。けどそんな生き方は幻想で、それが判れば人は解放され仕合せになる。ちょっと仏教哲学的だよね。当時の僕はこういう重い内容の本をいろいろ読んでいたんだ。

 バックの音は穏やかだね。全ての演奏がドラムに収斂されていっている。ジョンはハイハットを使わずに叩き続けるんだ。ドイツの『ロック・ポップRock Pop』って音楽番組に出演したとき、「まともに叩いてんのか?」と言われてジョンは「ああ、ちゃんとやってるさ」って答えて、スタッフは唖然としてたよ。余計なモノを削ぎ落として最低限な、硬質な音になったね。『エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ』のときは知っての通りバッキング・ヴォーカルを重ねたりしてるけど、それとは対照的だよ。

 

スリーヴ・デザインはどんな案配に?

 

その件でトッテナム・コート・ホールにあるマルコムのスタジオを訪ねた。彼の見せてくれたアイデアっていうのが、二人の子供が巨大なニンジンのそばに立っているという画だった。『不思議の国のアリスAlice in Wonderland』[3]を一層サイケデリックにしたようだった。

 

スリーヴで使われた配色は一つじゃないですね?

 

スリーヴは三段階に分けて印刷されてるんだ。業界用語で「スリーアップthree₋up」

っていうんだけどね。マルコムは用紙一枚にそれぞれ三つの異なる色付けをした。全て白地の用紙で、レタリングはそれぞれが異なる色なんだ。一つはオレンジ、一つは青、一つはグリーン。彼はどの色にするって聞いてきた。これがスリーアップなんだよって説明してくれたんだけど、僕はこう答えた。「三つ全部じゃダメかい?」それで三色になった。余分なコストはかからなかった。僕は考えた。「全部つぎ込んじゃえばいい!」制作状況にまで思いを馳せる人はいないよね。三つの配色については別に宣伝もしなかったわけだし。でもそれに気付いて感じ入る人もいるはずなんだ。

 マーシャル・ピーターズって男がいてね。彼はバンドのスリーヴ全てをコレクションしてるんだ。今までリリースした全て。輸入盤から見本盤から全てさ。貴重な資料だよ。完全収集家に幸あれだ!

 

『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演のときは飲んでたんですか?

 

全員さ!収録は水曜日。放送の前日だった。火曜日の朝に曲がチャートに入って、BBCがじゃあ番組にって一方的に出演決定になっちゃって、電話でそれを聞かされて速攻ロンドンさ。

 BBCには一日中カンヅメ。朝からずっとカメラリハーサルでさ。最後のリハと本番の合間に、BBCのバーにしけこんだよ!バーの中にはニュースキャスターやら天気予報士やらが大勢いて、代わるがわるトイレにかけ込んでたよ。

 ワンテイクでは僕ら全員、オックスフォード・ストリート(ロンドンの方ね。マンチェスターのオックスフォード・ロードじゃないんだな!)であつらえたバイカー用のレザー・ジャケットを着た。僕は手持無沙汰だったから、手をポケットに突っ込んでいた。で、もう一つのテイクのことなんだよ。その頃、両親がアメリカに住む親せきを訪ねに休暇を取って旅行に行っていて、ちょうど帰ってきたばかりでね。その親戚の先祖がスコットランドからの移民で、コネクティカットとかロング・アイランドに移住してたわけなんだ。両親は土産にジャケットをくれたんだけど、何だか毛ば立った壁紙みたいだった。クリームがかった茶色にグリーンに渦巻が浮き出ているような感じでさ。収録のときに僕はそのジャケットをシレっとした態度で着てからステージに上がって、手にはパンパンのサイフを持っていた。周りの連中は気にも留めてなかったね。まだこの時代にはポンド通貨は流通してなかったことを知っておいて欲しいんだけど、サイフには8ポンド分の紙幣を入れていた。五ポンド紙幣が一枚に一ポンド紙幣が三枚。僕はその紙幣を取り出してヒラつかせながら胸ポケットへハンカチのようにネジ込んだ。まるで猛牛を挑発する赤い布のようにイメージした視聴者もいただろう。僕を「成り金野郎」だと思っただろうね。たった8ポンドだったけど。ハリー・エンフィールド(訳注:コメディアン)のようだったね。

 

ヴォーカルのキーの高さは、再現できないんじゃないかってくらいですよね?

 

今なら、そうだね!あれが精一杯の高いキーだった。たいていの人にはキツイよね。

 

アメリカ退職者協会the American Association of Retired Persons(訳注:以下、AARPと略)の広告に使われましたね・・・・。

 

そうなんだよ。あそこのスローガンは確か「高齢者は誕生日を愛す。多くの高齢者がそうなのだから」じゃなかったかな。AARP何だかイギリスのサーガ(SAGA)みたいなもんだね。年寄りを代表して議会に陳情したりするし。でも当人達に言わせれば、モノになるのは「年を喰った」50歳からだ!ということだよ。バズコックス・ファンはもうその年齢になりつつあるし。[4]

 

映画『Shann of the Dead』の中でアッシュAshのヴァージョンが使われましたし、コールドプレイのクリス・マーティンも歌ってますけど。

 

アッシュは、まずまずの出来だね。

 

こうしたたくさんのカバー例を見ていくと、あなたの作品が広く受け入れられてるってことですね。

 

クリス・マーティンがとり上げられたのは、彼が「売れている」からだと思うね。最高の作品をつくろうという姿勢が感じられない。それよりもサントラ盤をいかに買わせるかの方が大事だってことさ。映画を観に行く、エンド・クレジットでこの音楽が使われてるってことを知る。音楽の、映画での扱いはこの程度でしかない。人気のある映画で使われてる音楽だから聞こう、そういう人は一定数存在する。毎年200曲が使い捨てられるんだからね。映画の公開が終わって、さあ次の音楽はどこから調達しようかとなる。あこぎな商売は続くのさ。

 

その皮肉な歌詞を誤解した人もいたわけですね。例えばクラスは自分のアルバムの中でパロディにしてましたしね。

 

そう、ホント皮肉だよ。-「いいのさ、これで」って、まるで格言みたいだ。クラスのような、『すばらしき世界』との関連性を理解し得た連中にこそ受け入れられるべき曲だと思うけどね!でも、クラスの政治主張は真っ当なものだよ。



[1] ストロベリー 10ccのエリック・ステュアートとグラハム・グールドマンがピーター・タッタ―サルと共同経営し、ストックポート・ウォータールー・ロードの一角に、1968年から九十年代初頭まで稼働していた。使用者の中にはポール・マッカートニー、ニール・セダカも含まれる。スタジオ名はビートルズの「Strawberry Fields Forever」へのトリビュートである。


[2] 10ccという名前の由来には様々な説があり、メンバー間でも意見が分かれているが、有力なものとして射精される精液量の平均が10cc以上(あるいは10ml以上)(ティースプーン二杯分に相当する)であるところからだとされている。

[3] マルコムギャレットの回想:「ニンジンのイメージは、この気ちがいじみた本の中にある巨大化したモノを描いた画から得たものなんだ。でも私は気に入らなかった。気に入っていたのは黄色の微笑むバッジの方だった。もちろん1988年の第二次サマー・オブ・ラヴより前の時代。アシッドとかを連想させる前の時代。七十年代末期のヒッピーが消え去った後の名残りを、そのバッジは映し出していたからね。でもピートはダメ出しをし、私も食い下がってね!もめた末に曲のタイトルを記すことに落ち着いた。手書きの、いかにもⅮIYですっていう字でね」

[4] インタヴューは2012年から2013年にかけて行なわれた。