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バズコックス『レイト・フォー・ザ・トレイン』ライナー・ノーツ全訳

1989年の再結成から2018年12月にピートが死去するまで、バズコックスは世界中のファンに向けてショウを行ない、ツアーをして回ると共に、各国の先進的ラジオ放送局にも出演を続けた。1989年初頭ファンに対して行なったギグに始まり、1990年代には誰もが予想もしなかったニルヴァーナやセックス・ピストルズの残座を務めた。21世紀に入り、結成30周年を迎え、生ける伝説としての地位を固め、ライヴでは古典となった名曲の数々と新鮮さあふれる新曲とを違和感なく演奏した。

本作を6枚のディスクに収めるにあたって、未収録分はほぼないように計らったつもりである。多年にわたる大量の録音を聴き直し、1989年から1993年にかけてのショウは(調整卓で録音されたテープから)よりよい部分を取捨選択した。商業用に録音された1995年と1996年のテープは音質に磨きをかけることにした。BBCからもフィンズべリー・パークや、1993年から1996年にかけて収録放送されたライヴ音源をいくつか提供してもらった。加えてジャッキー・ブランブルズの番組用に収録されたもの、マンチェスター在中のマーク・ランドグリフとマーク・ライリーからもBBCが保管していた音源を提供してもらう好意を得た。これらは放送されて以来一度も陽の目を見ていないものである。

4人の男たちと会場を埋め尽くしたファンとの濃密な一体感を捉えた丸々1ステージを、私は提供したかった。これを踏まえて、スティーヴ・ディグル氏に各ステージの舞台裏、そして会場のファンと一時代を画したもっとも偉大なるバンドの一つである彼らとが過ごした特別な夜の思い出を回顧してもらった。楽しんでくれ!

BS
2020年9月


1989年、再結成の時・・・・
解散して80年代はずっとソロ活動に勤しんできた。それに一区切りをつけて、1989年に再結成することにした。俺は自分のバンド、フラッグ・オブ・コンビニエンスFlag of Convenience(便宜置籍船~または税金逃れのための便宜置籍船)、後のF.O.Ⅽを率いてパリやベルリンで活動していた。ライヴ告知のポスターにはバズコックス/F.O.Ⅽと記されていた。これが再結成のきっかけになった。―俺たち全員にアメリカ人の代理人イアン・コープランドが、アメリカ・ツアーをしてほしいと電話をかけてきた。3週間のツアーに同意したが、それがワールド・ツアーに発展していき、俺としてはオリジナル・メンバーでないとバズコックスとしてやっていけないと踏んだのだ。ファンが予想をしていなかった再結成、最初のワールド・ツアーは申し分のない出来で、バンドには上々の滑り出しとなった。

T.T.T.ツアー・・・・
1993年、(再結成後最初の)アルバム『トレイド・テスト・トランスミッション』(以下、TTTと略)をレコーディングした。タイトルはテレビの試験放送用画面がヒントになっていたから、ステージでは毎回、バンドの後ろにずらりとテレビを並べて演奏中たくさんのモラージュ映像を流した。終演時に俺は後ろにあったテレビを叩き壊して画面を爆発させ、煙がもうもうと立ち昇らせるようにした。その様は壮観だった!アメリカのボストンで演奏した時のことだった。客の中にニルヴァーナのメンバーがいて、カート・コバーンが終演後に、あのテレビのぶっ壊しが気に入ったと言ってきた。俺は、あれもアートの一種であって、ツアーでは何百というテレビをつぶしていること―煙を発生させるためには潰し方にも正しい方法があることを説明した。彼は感心していた。TTTツアーはゴキゲンなワールド・ツアーになった。―アルバムは会心の出来栄えだったし、収録曲はステージでも気分よく演奏できた。

パリとブリットポップ・・・・
パリで演奏するのはいつも特別な気持ちにさせる。だから俺たちはライヴ・アルバム(『FRENCH』と『ENCORE DU PAIN』)をレコーディングしたわけだが、これらにはパリジャンたちの熱気が見事に捉えられている。90年代、ブリットポップ・ブームが訪れ、俺たちはパンクとは何ぞやという定義付けをいろいろしたわけだが、ブリットポップ・バンドの中に俺たちの影響を見て取ることができるだろう。―今や古典となったシングル曲や4人編成バンドとしての特徴といったところ、など。実際、2大ブリットポップ・バンドのメンバー達はバズコックスからの影響を公言しているのだ。

セックス・ピストルズとフィンズベリー・パークで共演・・・・
1976年、セックス・ピストルズを招聘し、互いに交流を持った。―パンクの草創期だった。時は流れて1996年、歴史は繰り返す。ロンドンのフィンズベリー・パークで俺たちは共演することになった。すごい日だった。―ぞくぞくする雰囲気に満ち、バズコックスはノリまくった。セックス・ピストルズと力を合わせ、ぶっ飛ばしてやったのだ!

30周年ツアー・・・・
「30周年ツアー」でイギリス、ヨーロッパ、日本を回った。いつもそうだが、日本ではたくさんのオフを取った。大阪、古の街京都。東京ではイギリスにあるのとそっくりでパンクな飲み屋があって、毎晩くり出していたと思う。素晴らしいギター・ショップも東京にあって、行くたびに5本はギターを買う羽目になる!バンコクでも演奏したが、あそこは実に荒っぽいところだった!

BBCについて・・・・
BBCセッションの数々は、常にライヴ演奏するのに、かつ、未完成の新曲を演奏するのに適した場だった。―それは危なっかしくあったがいいことだ思っていた。ジョン・ピールはバズコックスをデビュー時からひいきにしてくれて、彼の元で多くのセッションを持った。マイク・リードもマンチェスターのショウを丸々1ステージ放送してくれた。

後に、『TTT』レコ―ディングの時期だったが、ジャッキー・ブラムブルズのショウで俺が書いた新曲「アイソレーション」を上手く演奏させてもらえた。ラジオ・マンチェスターのマーク・ラドクリフのショウでも何年にもわたってたくさんのインタビューを受けた。―これも良い番組だった。さらに、マークはラジオ1でも1つ番組を持っていて、「エナジー」という俺の新曲を演奏したのを覚えている。人が必要とし、人を高めるためのエナジーを、実際は周囲が、政府が、社会が吸いつくす。もちろんそれは大量のエナジーだ!こんなことをするオカシナ科学技術がはびこっていることを、この曲は歌っている。今日の健康志向は、まさにこうした近未来的な様相を呈している。

BBCセッションの数々は、少ない手間でレコーディングさせてもらえた。キッチリしたライヴ演奏で、1テイクで済ますことができ、リスナーにバンドとその楽曲に、別の新たな魅力を知らしめたのだ。

スティーヴ・ディグル
2020年8月

現場の情景

カーライズル・マーケット・ホール-俺は16歳、一人の女とねんごろになろうと躍起になっていた。運よく成就したが!アルバート・ホールに出たときのメンツは40年後も、まだやっているんじゃないかって、当時皆言っていた。・・・・ピートがいなくなってしまったのが悲しいが。最近のウィッカーマン。フェスティバルもすごくよかった。―元気いっぱいだった!
―ギデオン・オズボーン

2014年4月、ホルムファース。誕生日のお祝いだった。何言ったかは憶えていないが、俺は浮かれていると、スティーヴは思っただろう!楽しかった。良いギグだった。
―ロブ・ビーチャー

スティーヴ・ディグルと初めて会ったのはキッダーミンスターでのショウだったのを憶えている。会場の外にあった壁用のレンガに座って、バンドの事、バズコックス・コレクションの事などを話した。通りの向こう側にあった店でフィッシュ&チップスを買い込んでパク付いていた。するとトニーもやって来てバンドの話に加わった。―彼は俺以上にバズコックスのファンだった!電話番号と住所を交換した。それからずっと交流が続いた。
―フランシス・デイル

マンチェスター・アカデミーでのギグの後、ブリックハウスでバンド・メンバーに会ったことは憶えている。―俺たち仲間は全員、間違った日付の入った偽物のバズコックス・Tシャツを着ていて、バンド・メンバーからは何だそれって、怪訝な顔をされた!
―クリス・ポリット

オックスフォードО2でディグルとツレションをした・・・・。彼は悪い子だ。手を洗わなかったのだ!
―パース・スローワー

チケットなしで、ボストンにあるパラダイス・シアターの外に立っていた。ダフ屋に出くわすこともなく、ツアー・バスの周りをたむろしていようと決めた。ところが自分には判らなかったがバスの中にはメンバーはいたのだ。バスから出て、飲み屋に向かっていく彼らを見送る羽目になった。5フィートも離れていなかった。ピートが俺に笑いかけたと思うが、気のせいかもしれない。
―クリストファー・フランツ・レヒィ

EMIから出したバズコックス版『アンソロジー』の編集をし、スティーヴのソロ活動にも深くかかわり、バズコックスのライヴには幾度となく足を運んだから、皆とは昵懇の間柄となった。妙な話といえば、ポーグスと共演したグリーンウィッチ公演のバックステージでのことだった。私はバズコックスの大ファンという友人を一人、バックステージに連れて行った。ピートにその友人を紹介した時に、友人がピートにお二人はどれくらいの付き合いですかと聞いた。「ああ!」とピートが答えた。「アランが『スパイラル・スクラッチ』にサインをせがんだ時、まだ半ズボンだったよ!」と。その場面を想像してみたのだが、「『スパイラル・スクラッチ』にサインなんて、一度もせがんだりはしませんよ!」と私は答えた(記憶の整理ができていたから!)。「そうだね。でもなかなか面白かったろう!」と、ピートが返してきたのだった。
―アラン・パーカー

ショウの後、『オール・セット』にサインしてもらうつもりで、サンタ・クルーズにあるパルッカヴィルの外に立っていた。皆がバスに乗り込む中、ピートが最後にやってきた。バスのドア脇にいた男がピートに向かって私のことを指さし、ずっと待っていたと言ってくれた。ピートは私の所にやって来て、私の持参したCDにサインしてくれた。私はどぎまぎしながらそれがいかに大切なものかを説明した。彼は紳士だった。私と話すために時間を割いてくれたのだ!
―スキップ・ロング

2017年10月、マンチェスター・リッツ。―その年の初め病を得た私は1か月入院しており、当日は彼らとの再会を心待ちにしていた。当然のことながら酒で顔は呆けていた。酔っ払った状態で私はステージによじ登ろうとしてあえなく転落し、足を23針縫う羽目になった。妻にはポゴをしていて柵を押し倒してしまったからと言い訳をしたが、不幸にも息子がユーチューブにアップされた当日の映像を見てしまい、私のウソがばれてしまったのであった・・・・。ゴキゲンなギグではあったが!
―ポール・ハッチンソン

1979年以来初めてのバズコックス・ライヴは2008年、クルーウェのこじんまりしたMクラブでのものであった。演奏が始まった時、私は隅の方にいたのだけれど、ある曲の終わり頃になって大きな力に押されるようにしてステージ最前方にまで来てしまった。めったにないことに柵はなく、私はそこにくぎ付けになった。とりわけよく憶えているのはライヴ終了間際、スティーヴがステージ後方の壁にあったシャンパンを開けたことであった。私はそのシャンパンのビンを粉々にするだろうと思っていたが、スティーヴはそんなことをせずにステージを降りたのである。私たち観客はバズコックスのライヴが放つエナジーと濃密な味わいに熱狂した。友人と私は可能な限り多くのライヴに足を運んだ。ステージから客の姿を認め、笑いかけ、客と一体になって歌うピートの立ち振る舞い、そこにみなぎるエナジーと混じりっけなしの楽しさ、観客たちの歓喜はその後も変わることなく続いたのである。
―ジュディス・ロバーツ

マンチェスター・アポロで我々はバズコックスを観、裏口で彼らを待ち伏せしていた。スティーヴ・ガーヴェイが母親と思しき人と自家用車に乗り込むのを見た。彼は女性に腕時計をなくしたと言っていた。ややあってスティーヴ・ディグルが裏口から出てきて、シトロエン・ディエーヌに乗り込もうとした。我々は取り囲んだ。彼はご勘弁とペニー銀貨をくれた。ありがたく頂戴した!このペニー銀貨は我がベッドルームで長い間大切に保管されてきた。悲しきかな、我々はピートとは一度も対面することはなかった。彼とその友人をアーンデイルで尾行したことがあったけれども気付かれ、まかれてしまった。サインをもらうこともなった。ピートが死去するまで、我々はずっとバンドのライヴ通いを続けた。良き思い出だ!
―ジル、アリ、そしてジェネット(ザ・スリー・アミーゴズ)

2016年10月、ラウンドハウスーアメリカからイギリスへは数えるほどしか出かけたことはないが、直近の訪英はロンドンでのバズコックス・ライヴのためであった。それは素晴らしく、数十年来の夢がかなったのである。バンドがいまだ現役なのは何故なのか、ディグルにどんなビタミン類を摂っているのか聞いてみたい!
―ジョン・レンダー

2010年のバレンタイン・デイ、プレストンの53ディグリーズでのギグ。私が数多く観てきた中でも最高のギグであった。ヘンリー・ロリンズと私は、バズコックスが最高のライヴ・バンドであると認める。異論の余地はない。とりわけこの夜、スティーヴは気合が入っており、「ハーモニー・イン・マイ・ヘッド」を始める前に情熱的な演説をぶった。まるで観客一人一人に語りかえているかのようであった。
―ダリル・キング

ブラッドフォードのセント・ジョージズ・ホールが私の最初のバズコックス・ギグであった(当時はマンチェスターへ旅するだけの余裕はなかった)。何曲演奏したかは思い出せないが、数人の馬鹿どもが喧嘩を始め、刀傷沙汰になったため、ギグは中断された。ライトが付き、演奏が止み、10分くらいして、もう帰らねばならなくなったかとなったとき、ピートがステージに戻り「ボーダム」を始めた。
以来、私は彼らを崇めているのだ。感謝である!
―ハワード・キング

2007年、シカゴのダブル・ドア。サウンドチェックを観ようと早い時間に会場に到着した。―実際その時は私一人しかいなかったので、ステージの真ん前に椅子を設置し、彼らの演奏のご褒美に与ることにした。もちろん本番の演奏は素晴らしいものであったけれども、サウンドチェックの時間はとても個人的な、特別なひと時であった。ショウの後、幸運にも控室でバンドとくつろぐ時間まで与えられた。―スティーヴは私の知る限り最高に優しく包容力のある男の一人であった。彼からバックステージ・パスの一種である英国鉄道パスを賜り、私は友人数人を連れて再びライヴに行こうと思った。行くのをためらう理由はないであろう。私は座り込んでピートとビールを飲み交わすことまでした。彼の不慮の死があり、あれは良き思い出のライヴの一つとなった。メンバー4人とも、なんにでもサインを書いてくれ、私もサインをねだり写真を撮ってもらおうとした。我が最も愛するバンドと過ごした、人生最良の夜の一つである。皆ありがとう!
―ジェフ・ジンツアー

みっともないことだが、話してしまおう。2005年のブリストル、カーリング・アカデミーにおけるバズコックス・ライヴでのことである。―私はスティーヴの前方右に立っていた。彼は絶好調であった。ひっきりなしに動き回り、そこらへんに汗が飛び散った。彼はステージを飛び跳ね、終わり頃にはシャワーを浴びたようになっていた。私にも汗が降りかかり、手で遮っているうちに、袖がドロドロになってしまった!殆んどフィンズベリー・パークでのピストルズ公演と同じ状況であった。バズコックスのライヴ中、私の隣りにいた男が数人いて、一人が叫んだ。「クソ詰まんねえなあ、老いぼれの演奏なんて!」私は言ってやった。「クソはてめえだ!」まだその時は演奏中で、私の声はその演奏にかき消されてしまった。ギグが終わるまで、私は奴をずっとにらみつけてやった。
―アンディ・ブルックス

私は80年代初頭からバズコックスの大ファンで、我が夫スティーヴともども2015年7月19日、オレゴン州ポートランドでのショウをウキウキ気分で迎えた。一時間早く到着してステージすぐそばの申し分ない位置を確保。彼らはゴリゴリにぶっ飛ばした!私たち二人はショウの間中踊りっぱなしでニコニコだった。
―デビ―・ロッシ

長い年月でバズコックスのライヴはほんの数えるほどだが、その中でもブライトン・センターでのステージは素晴らしい思い出だ。どういうわけか、友人が無理やりバックステージに引っ張り込まされたのである。手すりにつかまりビールのふたを開けた時、ピートがやってきた。追い出されるだろうと思ったが、あにはからんや、ピートと我々はおおしゃべりに興じた。彼は素晴らしき紳士であった。バズコックスが解散して鬱々としていた時、憶えているのは『タイム・アウト』誌が、バンドが再結成してギグを一回行うというエイプリル・フールの記事を載せたことだ。まだネットがない時代、私は何年も、そのありえないそのライヴ会場を調べ続け、ずいぶん後になってそれがペテンだと悟ったのである。腹立たしい話だ。
―ニック・マーフィー

よく憶えているのは、ブリストルにある何かと話題になるコルストン・ホールでの、アルバム『ラヴ・バイツ』は発売記念のギグだ。収支ゴキゲンな内容だったが、彼らは今もなお一級の音楽を創り続けている。義理の息子が個人的にメンバーと昵懇の間柄で、ピートからちょくちょくバックステージ・パスをもらっていた。―不正行為であろうが。私は息子の赤ん坊の頃からバズコックスを知っているのだ!
―デヴィッド・スクリーヴス

ヴァージニア州リッチモンド、アレイキャッツ・クラブにて。ショウの後、大雨が降った。しかし、気にもならなかった。スティーヴと古い軒先で雨宿りをしたのだ。タバコを吸い、彼の話を聞いた。最高の夜だった!ミスター・ディグルよ、ありがとう。
―リン・チュッブス

1994年、グラスゴウのザ・ガレージにてバズコックスを観た。その年に下の弟ステュアートが亡くなり、スティーヴにもらったピックと共にコンサートのあった地に埋葬した。
―ダウン



訳者後記

本稿は2021年にイギリスで発売され、日本でも襷のみが付された、いわゆる国内流通版として発売されたバズコックス『レイト・フォー・ザ・トレイン』付属のライナー、その全訳である。いや、実質的には本文の大半はスティーヴ・ディグルとファンたちの回想から成り立っているから、ライナーというより回想録、と銘打つ方が良いかもしれない。
1989年に再結成され、総帥ピート・シェリーを欠いた今もなお精力的に活動しているバズコックス。昨年2022年には新作『ソニックス・イン・ザ・ソウル』を発表し、現役のバンドとしてシーンの最前線に立っているのは喜ばしくあるが、彼らが再結成から今年で34年にもわたって活動してこられたのは、ひとえに継続的なライヴ活動があったればこそであることは誰もが認めるところであろう。本6枚組CDは、その恰好の証左となるべき作品であり、彼らが常に活きたバンドであり続けてきたことを存分に味わえる内容となっている。そして、彼らがいかにライヴに情熱を傾けていたか、いかにファンから愛されるバンドであったか、いかにバンドとファンとの距離を感じさせない存在であり続けてきたのか、ライナーは雄弁に語ってくれるのである。バズコックスと言えば、少なくともこの日本ではほとんどの人は70年代に異彩を放ったパンク・バンド、という認識のままであろうと思うが、本ボックスを紐解けば21世紀の今もなお、現役の、最早狭い意味でのパンクの枠など無用な存在として活き続けていることを了解するであろう。
是非とも述べておきたいことがある。バズコックスはとても上手いバンドであるということである。パンクと言うと、下手でもいい、パッションさえあればというスローガンがもてはやされてきたが、それはあくまでも建前である。聴き手に聴いてもらうには、それなりの技術がなければだめである。その点バズコックスは見事な演奏力をここでは披露してくれる。時にはリズムが走ったり、けつまずいたりもするが、それもまた一興と言わんばかりに余裕の対応で立て直してみせるのは流石である。バズコックスは何といっても楽曲が魅力だ、とはよく言われる賛辞であるけれども、その魅力ある楽曲も確たる演奏力があるからこそ光彩を放つのである。バズコックスを語るときに見過ごされがちなこの視点を、本ボックスはしっかりと再確認させてくれる。再結成後に発表されたスタジオ録音のアルバム群はいずれも魅力あふれるものであるが、これらの作品・楽曲を世間に広めるうえで、彼らの生の演奏力が大いにモノを言ったのは間違いないところである。
換言すれば、彼らが旺盛なライヴ活動を展開してくれなかったらこれら作品群は今、全く顧みられなくなっていた可能性は大いにある。70年代の諸作に比べてすでにお寒い評価ではないかというのももっともである。しかし彼らがライヴをやってくれていたからこそ、このレベルで済んでいる!ともいえる。そして、そう言い切れるほど、彼らのライヴ・バンドとしての力量は抜きんでているのだ。
それを踏まえたうえで本ボックスの各ライヴを振り返ると、当然ではあるが年代毎に異なった表情をみせてくれる。まず1989年。再結成直後の12月7日のステージである。アメリカでのツアーをこなしてきた後だからであろう、演奏はこなれているし余裕を感じさせるが、新曲がまだ用意されておらず、ピート・シェリーやスティーヴ・ディグルは今後も現役のバンドとしてやっていけるのかという確たる自信を持てない時期であったろうと思われる。当然のことながらセット・リストも70年代のクラシックスばかりであり、会場も懐メロショウ、な雰囲気に満ちているのも否めない。96年に来日した時、ピートは当時共演したダムドを、「過去の曲ばかり演奏する彼らが好きじゃないんだ」(『ドール』№112,1996年、31ページ)とけなしていたが、89年の彼らも他人のことは言えなかったのだ。
それがディスク2、93年の『トレイド・テスト・トランスミッション』(以下、TTTと略)のツアーになるとリズム・セクションが変わったこともあるが、明らかに気合の入れ方が違う。セット・リストの約半数が『TTT』期の曲で占められているところにも、あくまでも自分たちは進取の気性を持った現在進行形のバンドであるという気概をまざまざと感じ取ることができる。面白いのはショウの最後にステージでテレビを破壊するパフォーマンスを見せていたことで、後年あくまでも演奏のみを見せ、聴かせることに徹したステージングとはずいぶん趣の異なった、エキセントリックな演出を施したライヴを展開していたことだ。だが彼らにはそのような変化球は似合わない。あくまでもいい曲を、いい演奏で聴かせるバンドであることが身上であることを、彼ら自身が気付いたのではないか。
ディスク3は95年、フランスでのライヴ。ライナーでスティーヴも語っているが、バズコックスとフランスは昔から相性が良いようである。フランスにはニュー・ローズ~ファン・クラブといった、パンクを専門にしたレコード・レーベルもあるくらいで、パンクを愛好する国民性があり、ピートも生前フランスを好んで何度も旅をしていると語っていた(Pete Shelley with Louie Shelley 『ever fallen in love -the lost Buzzcocks tapes』、Cassel、2021年、158-159ページ、参照)。
ディスク4の前半はパンク・ファンの間では未だ賛否の分かれる(?)セックス・ピストルズ96年6月23日の再結成ライヴ、その前座を務めた時のもの。いかにも営業でやっています的なノリであったピストルズの演奏にケチをつける人も多かったが、ここでのバズコックスの演奏も、営業ではないが、そつなくまとめた感じだ。スティーヴはノリに乗ったと語っているが、バズコックス、否ピートの精神性としてはこういった営業的なフェスにはあまり乗り気にはなれなかったのではないか。後半は2003年6月5日収録だからそこから7年飛ぶが、演奏の温度差は感じられない。やはり全体的に安定した音である。ファンとしては安心して聴けるけれども、どこか守勢に回っているかという思いにも、訳者はかられる。
それがディスク5の2006年12月2日のライヴになると、のっけから全開で飛ばす。最後までたるむことなく一気に突っ走る。セット・リストも当時の最新作『フラット-パック・フィロソフィー』も含めた全キャリアから満遍なく選曲されている。ちょうど結成(かつパンク)30周年記念の意味合いもあったからなのだろうが、ここにきて、バンドには再び心境の変化があったのではないか。これを裏付ける資料がないので推測の域を出ないが、『フラット-パック・フィロソフィー』に到って、いたずらに新しいマテリアルばかり求めることを、彼らはやめたのではないか。新旧にこだわらず、いい曲をひたむきに演奏する。ライヴではそういうスタンスをとるようになったのではないか。否、新作作りでも同じ姿勢を。そういえば『シー・ユー・エヴリシング』ボックス・セットのライナーで、スティーヴは『フラット-パック・フィロソフィー』では70年代の黄金時代の、ポップなバズコックス自身を目標にしたと語っており、実際『フラット-パック・フィロソフィー』にはコンパクトでポップな楽曲~演奏が並んでいる。99年のアルバム『モダン』で思い切り実験的な楽曲創作に針が触れた後、バズコックスはポップ・バンドとしての基本に立ち返ったとみるべきであろう。『モダン』で実験精神の横溢したバンドとしてのバズコックスは臨界点に達してしまったとも考えられるし、この頃からピートの健康状態が悪化し、新しい試みが出来なくなっていったとも解釈できるだろう。好意的にみても守勢に回ったという思いはぬぐい切れない。それでも『フラット-パック・フィロソフィー』は凛々しさと躍動感とポップさに満ちた快作であることに違いなく、バズコックス~ピート並びにスティーヴのソングライティングは見事であるのだが。2006年のライヴがあそこまでヴォルテージの高い内容になったのは、来るべきピートの引退を見越して、今のうちに心置きなくライヴを、と考えていたのかどうかはもちろん訳者には判らない。ただ、本ボックスに収められた1ステージ丸ごと収めたライヴはディスク5の2006年が最後であり、ディスク6のBBCセッションには2015年と16年の演奏が収められているとはいえ、それぞれ4曲と3曲のみである。2007年以降の正規ライヴが本ボックスには収められなかったのは、ピートの健康の衰えと、バズコックスのバンドとしての(ある意味)沈滞を意味しているのではなかろうか。と、ケチをつけてしまったが、そう思えるほどディスク5の、2006年のライヴは際立っている。
ピートを失ってもなお、バズコックスは健在である。スティーヴが舵を取ることになった現行のバズコックスは精力的にライヴ活動を行っている。文字通り活きるバンドとしての活動を実践し続けている。ピートは最晩年、スティーヴにもうバンドはできない、君に後を頼むと言ったというが、同時にこれは、自分の亡きあともバズコックスを生かして(=活かして)おいてくれという遺言のように思える。そしてその思いをくむように、今スティーヴは積極的にステージに立つ。バズコックスがライヴを続けること。これはピートの精神を絶やさずにしようというスティーヴの決意でもあるのは間違いないと思えるのだ。
しかし、そのスティーヴも今年の5月に68歳になる。彼にももう、さほどの時間は残ってはいないだろう。現行のバズコックスをみる機会は極めて限定的になりつつあるのだ。今のスティーヴの決意を確認する意味でも、この日本でその雄姿を拝みたいと思っているのは訳者だけであろうか。
終わりに一言。「シー・ユー・エヴリシング」は日本で正規に発売される見込みがなく、このまま市場から姿を消す懸念から、今回ライナーを訳出することにした。文体、訳出の精度など、訳者の意に満たぬ部分は多々ある。大方の叱正を望むものである。

2023年1月8日 訳者記す