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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(14)

ラヴ・ユー・モア
Love You More
 
シングル発売のみ
B面:「ノイズ・アノイズ」
録音:EМI・アビイ・ロード・スタジオ、セント・ジョンズ・ウッド、ロンドン
ミックス:アドヴィジョン・スタジオ、フィッツロヴィア、ロンドン
発売日:1978年6月30日
ソングライター:ピート・シェリー
プロデューサー:マーティン・ラシェント
スリーヴ・デザイン:マルコム・ギャレット
レコード内溝のメッセージ:「公然の秘密The Secret Public」
 
この曲はアビイ・ロードで?
 
そう。ビートルズが使ったスタジオでレコーディングして、ミックスはアドヴィジョンでした。ビートルズもアドヴィジョンは宣伝用のコマーシャルを収録するのに使っていたね。―もうなくなってしまった別のスタジオでだけど。
 
アビイ・ロードでレコーディングなんてたまらなかったでしょう。
 
そうあるべきだったんだけど。―普通のスタジオだった!聖地って感じではなかったな!たぶんスティーヴはゴキゲンだったろうけどね。
 
ウールワースで働いていた女の娘を歌ったものですか?
 
そうだね。レーとボールトンとの境に暮らしていた娘だった。つき合い始めたのは74年の初め頃。当時の僕はボールトンの学生寮とレーの実家を行き来していた。彼女とはレー発のバス―82番線だったかな、それとも582番線だったかな?―そのバスに乗る約束をして、約束通りのバスでマンチェスターに向った。その年の大晦日につき合い始めたばかりで土曜日、1974年最初の土曜日だったね。僕の方は正月を実家で過ごして年明けに、彼女が働くウールワースへ彼女と一緒に行ったというわけさ。昼時に彼女から電話がかかってきて、また会うというね。そんな状況を描いたのが「ラヴ・ユー・モア」なんだ。
 つき合ってたのは、たぶん一週間ちょっと位でしかなかった。「九日間だけのときめきなんて嫌さ」というくだりはホントのことなんだよ。九日限定なんて!って不安に苛まれていたね。それまでの経験で、九日限定になるなってわかってたんだよね。
 
すごく熱烈ですよ。まるで何年も想い続けていたみたいで。
 
情熱ってそんなもんじゃないのかな?短い長いは関係ないよ。恋に落ちれば数週間も一生分に感じるものさ。
 
その娘はどこの売り場で働いてました?
 
いやあ憶えてないよ。土曜日だけ働いてたね。あの娘も学生さんだったから。
 
わがままな娘だったとか。
 
いやいや・・・・。奥ゆかしいって感じではなかったけど。
 
ラジオではそんなに頻繁には?ちょっと短くて終わり方がやや唐突だなって感じが。
 
チャートを昇ればラジオにはたくさんかけてもらえると思ってたね。
 DJをびっくりさせるような、突然終わるような感じが好きでね。「アー・エヴリシング」みたいにフェイドしていって、最後に一気にヴォリュームが上がるっていうようなね。ビーチ・ボーイズの「Help Me,Rhonda」もそうだよね(あれはウェールズ・バレーWelsh Velleysを歌ったんじゃないんだよ!)(訳注:サウス・ウエールズ・バレー。イギリスの都市)。
 
チャートで34位になりましたね。
 
高い順位じゃないと思われるかもしれないけど、1978年1979年は一番シングルが売れた時期だったし、この曲はたぶん10万枚は売れたと思うね。
 
リリース前にはもうすでに『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演を要請されてましたよね・・・・。
 
もっと早い時期に出演できてたはずだったんだけど、延期になってね。レコーディングが始まったのは3月13日で、「アイ・ドント・マインド」発売の一ヶ月位前だった。
 
関係者の弱みを握っていたってことですか?
 
いや、熱狂的なファンがいて、マイクっていう名だった。いつも中華をおごってくれて、それで箸の使い方を覚えたんだよ。ずいぶんお行儀良くなったんだぜ。サヤエンドウも知ったし〔フランスではmangetoutと綴る〕。
 
レコードではピッチを上げているんじゃないですか?本来EのキーがレコードではFじゃないか、意識してそうしたんだろうって。
 
マーティン・ラシェントはレコーディングを終えた後、カッティング・ルームに入ってスピードの調整をよくしていたね。自分のイメージ通りのノリの良さをつくり出すようにしたかったんだ。僕はレコーディングのときはカゼをひいていた。―「ノイズ・アノイズ」ではもっとハッキリカゼだなってわかるよ。
 
何故レコーディングではスティーヴよりも多くバッキング・ヴォーカルを担当してるんですか?
 
大抵の場合、曲ができた段階でどう歌えばいいかアイデアができ上がってるんだ。レコーディングとか演奏してる合間に教えるより自分でやっちゃった方が手っ取り早く済むんだよ。
 
「oh-oh’s」のアイデアは誰が?
 
僕だね。自分の曲ではだけど。
 
そのアイデアはどこから出てきたんですか?トレードマークの一つになってますね。
 
うん。「whoa-whoas」じゃなく「oh₋oh‘s」ということだよね。アメリカじゃ「whoa-whoa」だって思われてるんだよ。たまに何度かライヴ中に中断して説明してやったことがある。「whoa-whoaじゃないぜ」って。牛を呼び寄せたり馬を停めようとしてるわけじゃないんだからさ!「oh-oh’s」っていうのは「しんどい」ということなんだ。こういうことって、どこでもいつでも思いつくもんじゃないけどね。-それも思いついたとしても全部がイケてるわけでもないし。トレードマークの一つね。-人間困ったことはいつだって起こるってことさ。
 
当時はどんなライヴをしてましたか?
 
シングルが出る毎にツアーをしてたね。このときは「愉快な仲間たちEntertaining Friends」ツアーというわけさ。
 
『リボルバーRevolver』の番組で演奏しませんでしたか?変なショウでしたよね?
 
そうだね。あれはつくりモノのライヴ会場だったんだけど、実際はバーミンガムにあるATⅤスタジオにあるセットだったんだ。バックステージで待機してたら、突然自分のいる所が回転しながらスタジオの中に設置されてステージになった-だから『リボルバー』なんだなってね。
 コメディアンのピーター・フックが会場のマネージャのはずだ。彼、僕を見やってウィンクしてさ!どういうつもりだったんだかね。―聞く機会がないままだけど。
 ポップ・ミュージックのショウをどうやってつくっていけばいいのか判ってるのがいなかったんだな。日曜日の朝9時からリハーサルやらカメラテストやなんかで一日の大半を拘束されてウンザリだったよ。ジェネレーションXと一緒だったんだけど、あいつらテレビ局の人間を激怒させてた。演奏する毎に違う曲にしちゃったからなんだ。でも僕らは同じ曲をくりかえしたよ。プロだからね。僕らの演奏中に一組の男どもが客の中にいて,オカマのポルノ雑誌に載ってる写真を見せびらかしてたっけ。その写真がオカマなのかはよく判らなかったけどね!ずいぶんヤンチャな客だと思ったよ。
 ハワードもこのスタジオにいたよ。『リボルバー』では「ノイズ・アノイズ」も演った。
 
『Love You More』という映画については何かご存じですか?
 
元々はパトリック・マーバー演じる「ピーター・シェリーPeter Shelly」が主人公の短編小説で、サム・テイラーウッドが短編映画に仕立てたんだよ〔パトリック・マーバーはスティーヴ・クーガンが代表を務めるポール・カールフPaul Carlfというヴィデオ制作階差派に所属していて、よく学生役を演じていた〕。原作はニック・ホーンビィ。自閉症患者のチャリティで多額のカネを手に入れるっていう内容なんだ。ピーターという名の男がある日学校帰りの少女に童貞を奪われる。少女のベッドルームで二人は激しく情交してメデタシメデタシの関係となるんだ。映画化されたとき、登場人物の年齢設定は変わってたんじゃなかったかな。原作では14歳位だった。僕はレコード店にたむろす端役で出演したよ。日本では何か賞をとった。アカデミー賞の短編映画部門でノミネートされたけど、落選しちゃったね。
 
映画の結末はどうなるんですか?
 
二人は最後にまた会ってレコードのB面を聴き、愛を交わしてる最中「ラヴ・ユー・モア」を流し続けるんだ。15歳で1分58秒じゃ足りないもんね!
 
歌詞の最後は、思いもかけない展開になります。
 
「カッターで切るまで」っていう終わり方だね。元々は違う歌詞だった。最初の二つのヴァースと比べて暗い内容だけど、人の心ってものすごく猛々しく暴力的になりうるものだよ。世間は上辺をキレイに取り繕いがちだよね。ラヴ・ソングは軽率なもんだととられがちにもなる。特にパンクの時代は皆、政治に傾いていたし。でも人の心のありようほど政治的なものはないと思うね。階級闘争とか社会問題や経済問題より人間同士の日常での関わりの方がはるかに重要なんだよ。