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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(20)

リップスティック

Lipstick

 

「プロミセス」のB面

ソングライター:ピート・シェリー

プロデューサー:マーティン・ラシェント

 

創作はどこで、いつに?

 

1977年中には書き始めたと思うね。レーへ帰省する夜に書いた。音がだんだん昇っていくリフをつくったけど、歌詞は全くできなかった。

 ある日ハワードの家でギターをいじっているうちに例のリフを弾き出した。ハワードがそのリフで曲が書けそうかと聞いてきた。僕がいや、まだだと言ったら彼は自作のアイデアを書き溜めたノートを持ってきて、「俺のバンドの曲で使っていいか?そいつに上手くハマる詩があるんだ」と言ったのさ。ここから「リップスティック」とマガジンの「Shot by Both Sides」に枝分かれしていったわけだ。「Shot~」には僕の名もクレジットされてるね。

 で、『ラヴ・バイツ』のリハのとき、僕が例のリフをやり出したら、スティーヴ・ガーヴェイが合わせてきたのさ。最初はインストにするつもりだったけど、歌を乗っけた方がイケるなと思うようになったから、歌詞をつくり始めた。僕にとっては歌付きのインストという趣だったんだ。

 出だしは軽いノリなんだよ。「僕の顔に君のリップスティックが付くのかな?」ホント戯れさ。次は「朝になった。喪に服すのが僕にも判った・・・・」軽いノリが、すごく悲劇的なイメージに彩られるんだ。誰かと関係を持って、その相手が死ぬ。自分の旧知の友人からお悔やみの手紙をもらって初めて相手の死を知る・・・・言葉にもならない。当時はケータイとかネットはない。開発されてたよ!けど僕には縁のないものだったね。

 自分を捨てた相手とよりを戻す術があったんじゃないのか?返信には「これでもう今生の別れだ」とするのか「我々の縁はもう切れている」とするか、というところだね。

 

レンチthe Ranchとは?

 

レンチ・バーThe Ranch Barのことだね。今はノーザン・クオーターになってるけど、当時はデイル・ストリートにあったフー・フーズ・パレスFoo Foo’s Palace[1]の隣にあったんだ。未成年者向けの店だった。ボウイやロキシー・ミュージックが何度もそこのステージに立った。まさに先鋭的な場所だった。何の変哲もない小さい店だったけど、マンチェスター・パンク・シーンの中心となっていった。レンチで二つ目のライヴをやったのが僕らで、最初がピストルズだったんだ。パンク・バンドはこぞってエレクトリック・サーカスとレンチに出演した。何の気兼ねもなく行ける数少ない場所だったのさ。パイプスPips[2]とは似ても似つかないよ。あそこは旧態依然としたクラブだった。77年、イギー・ポップのコンサートの後に行ったことがあった(平日開いているのはあそこだけだったからね)。店の奴等、僕の入店を拒否しやがった。僕がテニス・シューズを履いてたからだとさ!レンチはたまり場・・・・、ああそうさ、数年あとだったらニュー・ロマンティクスってみなされてたろう。あの店でバリー・アダムソンに出会ったんだよ。楽しい所だった。



[1] フー・フー・レンマーFoo Foo Lammer、即ちかの女装芸能人フランク・パーソンFrank Personが経営したクラブ。サッカー・ファンやマンチェスターの要人ばかりでなく、十代の若者やパンクスも常連であった。フランクは精力的に地方を対象としたチャリティ活動を行ない、数多くのマンチェスターにあるバーにクラブ、レストランの経営に貢献した。後年には公営のゲイ・ブリッジGay Village(訳注:運河沿いのカナル・ストリートを中心とした繁華街。世界で最も成功したゲイコミュニティとされる)にも関わることになる。2003年にはタイムズ誌にその死亡記事が載ったほど、フランクは大立者であった。

[2] パイプス マンチェスター大聖堂近く、フェンネル・ストリートにあったいかがわしい地下施設。四つのダンス・ホールが自慢とされ、現在ではニュー・ロマンティクスのホームグラウンドであるコヴェントガーデン所在のブリッツ・クラブCovent Garden’s Blitz Club、その北部版の扱いをされている。1989年にパイプスはコンスピレイシイKonspiracyと改名し、表向きはマンチェスター最初のクラブとオープンしたが、実際はアシッド・ハウス専門のライヴ・ハウスとなった。狭い、ヴィクトリア朝の廊下に連なった照明の暗い店内は人目のはばかる行ないをする与太者共には格好の場所であった。地元のギャング達はマンチェスターの夜を牛耳っていてクラブに足繫く出入りし、クラブの収支をチェックした上で「税金」を巻き上げていた。オーナーはギャングとの関りを断とうと画策したが果たせず、「追徴税」も払えなくなったクラブは閉鎖され、やがてはハシエンダも同様の仕打ちに耐え切れず閉店に追い込まれることになった。ハシエンダについてはピーター・フックの著書『The Hacienda:How Not to Run a Club ハシエンダ:クラブを倒産させる方法』に詳しい。