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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(23)

ハーモニー・イン・マイ・ヘッド

Harmony in My Head

 

シングル発売のみ

B面:「サムシングス・ゴーン・ロング・アゲイン」

録音:1979年、エデン・スタジオEden Studios[1]、チズウィック、ロンドン

ミックス:マーキー・スタジオMarquee Studios[2]、ソーホー、ロンドン

発売日:1979年7月13日

ソングライター:スティーヴ・ディグル

プロデューサー:マーティン・ラシェント

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

 

スティーヴが単独で作詞作曲しヴォーカルを取った、最初のシングルA面曲でした。

 

そうだね。リリース当初は、僕が歌ってないことに気付かない奴がいたよ。サウンズ誌のシングル・レヴューには「ピート・シェリーの声はおそろしく荒れてしまった」と書いてあった!

 

スリーヴには絶対複数の種類があると思うんですが?

 

二種類あるよ。赤と青。スティーヴは赤がいいっていつも言ってた。「郵便ポスト・レッドpost₋box red」だって。彼の造語だろうね。マルコム・ギャレットは試作品〔見本〕用のアートワークを印刷業者に送って、戻ってきた現物を見ると青色だった。赤になるはずが青になってたんだ。それでマルコムは但し書きを入れて送り返した。カラーをとり違えているとね。印刷業者は作業工程を変更したけど、それは赤のものと青のもの二つが混在する形になってしまった。試作品を作った男が気付いて「ダメだ、やり直しだ、青と赤を一緒に作っちまった」と言ったときにはスリーヴがまさに印刷完了とする時で、結局業者はまた間違いを犯してしまったというわけさ。こうして初回盤には青色のものが混在することになり、次のプレスからはスティーヴの希望通り赤い色に統一となった。結果的にミスった最初の印刷分の方が貴重とされているのは皮肉なもんだよ。間違った色に印刷し大失敗な代物がだよ。それこそ「何かが間違ったsomething going wrong」実例ってヤツなのにさ。

 

七十年代のマンチェスターの薫り濃厚です。マーケット・ストリートの土曜午後、UCP(訳注:United Cattle Products Co.U.K レストランの名)、ブレンドフォード・ナイロンズBrendford Nylons(訳注:洋品店の名)、そしてなつかしのピカデリー・レコーズ[3]。

 

そういったものをスティーヴは描きたかったんだ。ジェイムス・ジョイスの意識の流れ、そのスティーヴ版だね。

 

この頃からですか?いわゆる「名声」に苛まれるようになったのは。

 

そう、その頃からね。もうウンザリするようになっていったよ。たいていの人は有名になればさぞかし気分がいいだろう、周りからちやほやされるんだからと思うよね。けど僕は悟ったんだよ。人は有名になるほど否定されるようになるんだってことをね。大衆はもっと楽しませてくれと言ってくる。ところがこっちが有名になるほど、相手とのコミュニケーションが失われていく矛盾が起こるんだ。相手のことなんて判ろうともしない。相手の言っていることなんか聞こうともしない。大衆が求めるのはただ、楽しませてくれってことだけだ。けどタランティーノが言っているように「私はお前のサルじゃない。踊らされるのはゴメンだ」ということさ。バズコックスを終わらせたくなっていた。余りにもしんどくなりすぎたよ。僕らはたったの二年間でビッグになり、たくさんの事をやり遂げてきた。でも名声の正体はおぞましい、モンスターなんだ。最良の友なんかじゃない。名声は救いになんてならない。人を喰い物にするのがオチだ。

 自分のすることを周りが気に入ってくれたら有名になれるだろう、周りが望むことをやりさえすれば有名になれるだろう。皆そう思うだろう。でもちがうんだな。周りがホメたたえてくれりゃ、そりゃいい気分だし、何かあってけなされたらって。でもさ、取るに足らないことなんだよ。「それがどうした?」「何でこんなことしてんだ?」ってさ。

 くたびれてしまったんだ。ある意味ビートルズと似た状況だった。ビートルズはツアーに嫌気がさしてしまったわけだけど、僕はツアーが一番の原因じゃなかった。周りの期待と「ビジネスthe business」に加担してそのためなら自分の本心を偽っても「謀(はかりごと)をするplay the game」ことを厭わない連中の依存心、そういう類の連中。これが原因だったのさ。

 

でもそんなにマスコミから叩かれなかったんじゃ。

 

それなりにやられたよ。僕は自分で思っていたよりヤワだった。ずっと引きづるタチだったんだ。



[1] セックス・ピストルズもエデン・スタジオでレコーディングしている。

[2] マーキー ロンドンのワードアワー・ストリートにある有名なマーキー・クラブMarquee Clubに連結したレコーディング・スタジオ。マーキーの名は六十年代のビッグネーム達にハクを与えたが、七十年代から八十年代初頭のパンク~ニュー・ウェーヴ・バンドにもその門戸を開いた。バズコックス自身も1977年8月4日に出演している。

[3] ピカデリー・レコーズは現在マンチェスター・ノーザン・クオーターの主要幹線道路であるオールダム・ストリートの一角にあり、アナログ盤の販売に特化した品揃えを行なっている。1970年代にピカデリー商店街Piccadilly Plazaの中に店があったためにその名が付けられたが、同じ並びにブレンドフォード・ナイロンズもあった。1990年企業買収の後移転。ミュージック・ウィーク誌による「ベスト個人レコード店」投票で永年に渡りトップの栄誉を得ており、音楽巡礼者のメッカとなっている。