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モニモニとは関係なしに―ジェネレーションX

「あー。モニモニねえ。あたし好きだよ」
 そう言って白い歯を見せた同期のコと顔を合わせたのは、たぶん大学の構内ではなかっただろうか。モニモニとは、ビリー・アイドルが1987年に大ヒットさせた「モニ―・モニー」のことを指す。学部学科が同じであったからよく講義が被った彼女は学内で人気があって、常に一定の取り巻きの男たちがいた。そういう連中と、よくロックの話で盛り上がっていて、同じ教室の、離れた所でそれを聞かされていたのである。私はその会話の中に普段は入らなかった。理由は簡単である。会話の中身が私にはつまらなかったからである。私は「モニ―・モニー」にはてんで興味が持てなかったし、当時のビリー・アイドルも、全く好きにはなれなかった。冒頭の言葉の前後、どんなやりとりをしたのかは、まるで憶えていない。1987年だから、今年で37年になる。時の流れは些細な記憶を容赦なく削り落とす。加えて私自身の記憶力が致命的なほど悪いものだから、こうして雑文を記すのにも大変な苦労を要するのである。おそらく、ビリー・アイドルの名前を聞いた私が、何の気なしに彼がかつてジェネレーションXというバンドにいたことがあることを話したのだと思う。彼女は一言こう言った。
「知らない」
   そう。この言葉は憶えているのである。周囲の男たちがどういう反応を示したのかは記憶にない。ここに挙げた2つの言葉だけが、私の脳裏にぼんやりと貼りついている。今、ジェネレーションXを取り上げようとしたとき、私は大学での、彼女の言葉を思い出したのである。かたや売れっ子のシンガーを好み、しかしそのシンガーがかつて所属していたバンドをまるで知らない女。もう一方にそのバンドは知っていて、しかしその後のシンガーには興味を抱かない男。話が合うわけねえよなあ。私はここまで記しつつ、つい苦笑する。
   ビリー・アイドルという男が、いま世間でどういう扱われ方をしているのか全くわからない。ただ、ジェネレーションXにいたときに聴いていたファンが、ビリー・アイドルがソロになってからも引き続き聴いていたとはイメージしにくい。そんなことを思いつつ、ジェネレーションXのファースト・アルバムを眺めた。池袋で買ったアメリカ盤である。イギリス本国盤はなかなか店には入らなかった。入っても高かった。アメリカ盤の方がずっと安かったのである。いつ買ったかは憶えていない。冒頭のコと会話したときにはすでに聴いていたから、86年夏から終わりにかけての間に買ったのだろう。なぜそこまで限定できるのかというと、「モニー・モニー」が売れたのが87年であること、先の会話は曲がちょうど売れていたときだったという記憶はあること、ジェネレーションXを聴いてみようと思わせた映画『Ⅾ.О.A』を観たのが86年夏であったからである。
  『Ⅾ.О.A』はピストルズのアメリカ・ツアーを中心とした70年代のブリット・パンクのドキュメント映画で、吉祥寺の、今ななきバウス・シアターのレイト・ショー、つまり夜の11時上映で観た。演奏は全部口パクだったのがあからさまに分かり、画質も音質も粗い映画だった。ただ、そこに登場するのが当時知らないバンドばかりで、それだけは興奮ものだった。X・レイ・スペックス、リッチ・キッズ、シャム69、そして何故かこれだけはアメリカ出身のデッド・ボーイズ。当時ネットは当然なく、ヴィデオも持っていなかった我が身としては、曲がりなりにも動くその姿を拝めることができたのは貴重な体験だった。この映画にジェネレーションXも登場し、「キス・ミー・デッドリー」も(口パクで)演奏するのである。曲はなかなかにかっこよく、ならばとレコードを買ったのである。

 

映画も、今は簡単にYouTubeで観れる。冒頭に登場するのはベースのトニー・ジェイムス。ジグ・ジグ・スパトニックに参加していたのを知ったときには、強烈な違和感を感じたものだ。


イギリス盤も後に買ったが、今はもうそれは手元にない。



裏面。アメリカ盤は若干曲が異なっていて、ジョン・レノンの「ギミ・サム・トュルース」や「ユア・ジェネレーション」が入っている。「ギミ・サム・トュルース」はイギリスで出たシングルとは別ヴァージョンだったはずだ。だから結構このレコードは貴重なのではないか。


2006年に出たCD版。イギリス版に準じた内容で、ボーナスにシングル曲が入っているが、抜けているシングル曲があるはずである。詳しいことはわからないが。

 だが大学在学中から、ジェネレーションXは次第に聴かなくなった。CDはレコードを無くしてしまった埋め合わせのつもりで買ったのである。だがこれも2~3回くらいしか聴いていない。今は全く聴く気になれない。ジェネレーションXを語った次の言葉がその理由の一端を表現し得ている。

「・・・・パーフェクトなものって、飽きるんだよね。このバンドの欠点はバランスを欠いてないところ。俺はあるべきバランスを欠いているものに凄く惹かれるんだよ」[1]

   上の言葉の、後半部分は私の心境を上手く代弁している。だが前半は違う。飽きたのではない。飽きたのなら、まだ平和(?)なのかもしれない。
 ジェネレーションXは確かにルックスも音も抜群のバンドだった。曲もキャッチ―だし、歌詞も若さ溌溂、突っ張っている部分も含めて、見事なまでにかっこいい不良のロックンロールそのものだった。だからこそ、聴いていてしんどくなった。自分がそこに入り込める余地がないことに気付いた。年がら年中100点満点の答案を見せつけられて、ああこっちは太刀打ちできねえなあとでも言おうか。自分との距離があまりに遠すぎた。共感を感じられなくなっていったのだ。パンクは眉目秀麗な若人しかやっちゃいけないと言われているように思えてならなかった。無様な姿を歌い、晒すことはパンクじゃないと決めつけられているようにも感じた。彼らのレコードを聴いていると、その写真を観ていると、「おまえ、パンクを聴いてるようには見えねえなあ」とせせら笑った革ジャンにツンツンヘアーの連中が思い出された。あの連中と、冒頭のあのコ。住む世界はまるで違っていた両者ではあったけれど、根っこにあるものは同じだったのではないかと今では思える。無様な自分、理想とはかけ離れた現実、それらは一向に解決しない、それどころかトラブルは後か後からやって来て憑りついて離れない、ふざけるなバカ野郎!こんな感情をむき出しのままぶちまける表現。これが私にとってのパンクなのである。もっと具体的な例を挙げれば、私にとってのパンクとは、クラッシュよりもダムドであり、ジャムよりもバズコックスであり、ストラングラーズよりもマガジンであり、ジェネレーションXよりも999なのである。こう表現すれば、わかるだろうか。
    完璧なバランス状態は長続きしないものである。物事は、人は、常に変化する。ジェネレーションXは実質4年くらいしか続かなかったのではなかったか。詳しいことはわからない。一度再結成されてライヴをやっていたのをヴィデオで観た記憶があるが、面白くもなんともなかった。去年、ジェネレーション・セックスとかいう名義で、ビリー・アイドルにトニー・ジェイムス、スティーヴ・ジョーンズにポール・クックが集ってライヴをやったのをYouTubeで観た。ジェネレーションXとピストルズの曲ばかりやっていて、これまたつまらなく、途中で観るのをやめた。同じ同窓会ノリでも、ダムドの再結成とはまるで性格が違う。かつての眉目秀麗もいまや形無しか。私にとってこれらは、永遠の過去性なのである。
   くだんのあのコは、いまどうしているのだろうか。モニモニのことは憶えているだろうか。ジェネレーションXのことは知らないままなのだろうな。そう思いつつ、私はジェネレーションXのレコードを棚にしまった。



[1]大槻洋、 行方和彦監修『1975-2003 パンク・ロック/ハードコア・ディスク・ガイド』、リットー・ミュージック、2004年、20ページ。