ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(9)
ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?
What Do I Get?[1][2][3]
シングル発売のみ
B面:「オー・シット」
録音:1978年1月、オリンピック・スタジオOlympic Studios、バーンズ、ロンドン
ミックス:オリンピック・スタジオ、バーンズ、ロンドン
発売日:1978年2月3日
ソングライター:ピート・シェリー
プロデューサー:マーティン・ラシェント
スリーヴ・デザイン:マルコム・ギャレット
レコード内溝のメッセージ:「一編のラヴ・ストーリー」[4]
創作はいつ?
1976年12月頃だと思う。
誰か特定の人物を歌ったんでしょうか?
リンダーのことを少しとり入れたね。彼女はハワードと出かけるときにこんなことを言ってたからなんだ。「あなたには大ごとだろうけど、私には大したことじゃない」最初はラヴ・ソングでもなんでもない内容だけど、最後に「君をモノにできない」[5]という一節が加わることで普遍的なラヴ・ソングだってことが明らかになる。ちょうど誰かに対して一方的にしゃべっている最中に突然爆弾が落ちてきたようなね。悲しいラヴ・ソングなんだよね。けど現実のことを歌ってるわけじゃない。大体リンダーには何の関係もなかったし。
僕らはしょっちゅうブラブラしていたね。ハワードはボールトンのカレッジに在学中、彼女はマンチェスター・ポリの学生、僕の方といえばサルフォードに住んでたときで失業中。とまあそんなわけで、よくサルフォードにあったハワードの家で暇潰しをしていた。リンダーとはよく会っていたわけだけど、ロマンチックなことは起きなかったね。
元々は一人のパンクスが主人公のラヴ・ソングのつもりで書いたんだ。「友達が欲しいだけなのに、クソったれた関係になって終わりさ」っていう感じのね。これを少し発展させて、どこにでも起こりうる内容に仕立てた。「オーガズム・アディクト」をもっと口当たりの良いもの、つまりそう、「俺には何もないんだ、何もかもクソ・・」なんていう内容にするつもりはなかった。公には歌ってないけど、三つのヴァースにするつもりだった。一つ目は「友達が欲しい。終生変わらぬ友達が」二つ目は「終生変わらぬ愛」三つ目は「最後にはクソになる」というね。ハワードはもう少しジャズっぽい気取った感じにしたいと言っていた。実際ハワードは二つ目のヴァースはこんな風に仕立てていたな。「苦しい。抱きしめてほしい/肌を重ねなくていいから安らぎが欲しい」最初ハワードはこんな内容にしていて、練習のときもこんな感じで歌っていたと思う。曲を書き始めたのは12月で、1月か2月、『スパイラル・スクラッチ』を出したすぐ後ハワードが脱けた頃に完成させた。
だからこの曲は恋愛を成就できず苦しむ人のことを歌っているわけで、相手のことはウンザリだとは歌っていない。相手を妬んでいるんだ。その人間に「とっては大ごと」なんだよね。
レコーディングはオリンピックOlympicでしたか?
そうだね。デモはTWだったと思うけど。オリンピックはずいぶん利用したよ。最初の二枚のアルバムにその時期のシングル全てをレコーディングしたからね。
オリンピックは最大級にデカいスタジオだった。ローリング・ストーンズにヤードバーズ、ジミ・ヘンドリックスにダスティ・スプリングスフィールドも使った所さ。ストーンズが「Sympathy for the Devil」をレコーディングしたのと同じデカい部屋で、僕らも「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」から全てをレコーディングしたんだ。ホント巨大な部屋だった。元は学校の校舎で赤レンガ造りだったから大音量にも耐えられた。部屋の真ん中に機材をセット・アップし、皆で顔をつき合わせて作業をした。『スパイラル・スクラッチ』で使ったインディゴは部屋に仕切りがしてあって、オリンピックとは全然似てなかったね。
オリンピックは最近閉鎖になったよ。今はフラットになってると思うけど。[6]
オリンピックはTWよりだいぶコストがかかりますよね?
そうだね。けど支払いは会社さ!ちがう?
当時、いろんなことが始まった時期・・・・
そうだね。たくさんのことがあった。NMEの表紙を飾ったのもあの頃だった。スティーヴ・ガーヴェイが加入した直後だよ。それがあって12月28日からファースト・アルバム『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』のレコーディングを始めたんだ。
1月16日に「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」のヴィデオを収録した。ITN〔International Television News〕(訳注:英国商業テレビ網ニュース)スタジオが収録場所だった。ITN昼のランチタイムに流されていて、午後に空きが出ると希望者にはスタジオが貸し出されていたんだ。ヴィデオはテレビで流すというより宣伝のためだった。
年末にアンドリュー・ラウダ―がUAを辞めて自らレーダー・レコーズをたち上げるんだけど、つまり僕らは彼のUA最期の四ヶ月を共に過ごしたということになるのさ!
エンジニアがダグ・ベネット[7]でしたが、スタジオで眠りこけてたって本当ですか?
ダグは以前からマーティン・ラシェントと仕事をしていてね。そうだよ。たまにはスタジオで居眠りでもしてなかったら、もたなかったろうね。いくつもセッションを同時進行で掛け持ちしていたからね。
バズコックスはチャートでハワードの上を行きましたよね?「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」は37位、マガジンの「Shot by Both Sides」は41位止まりでした!
まあ‥‥そんな自慢というほどではね。まあねえ!この二曲は、だけどね。
トニー・ウィルソンの「ソー・イット・ゴーズ」で「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」を演奏しましたね。
あれは8月16日のエレクトリック・サーカスでのライヴ・フィルムだよ。UAと契約した日のライヴ。ガースがまだいたときのね。
「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」のレコーディングのときは、もうスティーヴ・ガーヴェイはいましたよね?
いたよ。彼とは上手くいった。ガースと遜色なく弾けた。[8]ガースのベースはとてもメロディックで、スティーヴもそうだった。[9]
彼はどこで演奏のテクを身につけたんでしょうね?
さあね。フォールとはよくつるんでたけど、連中からは教わってはなかったよ![10]
「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」シャツをデザインしたのは誰です?
ジェニー・コリンズさ。彼女はリチャードの友人だった。シャツにはレタリングが施されずに緑色の対角線が描かれていた。シングルがリリースされる前にはシャツはもう世に出ていたっけ。[11]
ガースは「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」のデモ・レコディングには参加したんですか?
UAと契約をして、マンチェスターで一回デモ・セッションをして、TWで本番のレコーディングをして、というところまで彼はいたけど、もうこの頃にはスティーヴ・ガーヴェイだった。レコーディングもね。
「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」は映画『ゴースト・ワールドGhost World』にも使われましたよね?すごく期待してたんですけど、ちょっとがっかりしました。
マンガを原作にしていたね。ドフトエフスキイでもなんでもない!
「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」のスリーヴはタイムレスな、デザインの古典です。
マルコムは僕らが音楽で伝えたいことを視覚化させようとした。それを成し遂げたっていうのは大変なものだよね。[12]
「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」のスリーヴ・デザインには代わりに、白黒の幾何学模様があったということですが?
いや、あれは広告。音楽誌向けの広告だったんだ。僕ら、つまり僕らとマルコム・ギャレットは広告を出す権限も持っていた。マルコムは広告も他の媒体と共通のデザインで打ちたいって思ってたんだ。
美しい歌詞です。心震えます。
日本で流通している歌詞のことでちょっとしたことがあるんだ。日本盤には、英語の歌詞とその日本語訳が添付されるんだ。そうすることで歌詞のあらましがファンには理解できるようにしてあるんだね。日本側は歌詞を送ってくれと言ってくる。こっちは「いや、そちらが初めから作って、それをこっちに送ってほしい」と言うようにしてるんだ。つまり日本側はレコードから歌詞を聴きとって、それを基に訳詞をするわけで、ときおり間違いが発生するわけだ。「君には明かりが消えたように思えるだろう」という箇所は「うるわしき結納への入り口」とされているんだ。まるで『Fifty Shades of Grey』(訳注:イギリスの官能小説。直訳すると、「五十通りのあいまいな、いかがわしいもの」)のようだよ。大いに議論の余地ありだ。
〔日本の〕聴きとりにはこんなのもある。「独りワクワクするベッド」シュールだね。こういう間違いって楽しいもんだよ。
[1] 「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」は2016年、マクドナルドのビッグ・フレイバー・ラップス用のⅭFに使用された。モリッシーはUA時代のバズコックスの熱烈なファンであったが、ヴィーガンとしてこのⅭFに使用されたことに抗議を表明した(しばしばニュー・ホルモンズの事務所にある電話を私用で使っていたという)。彼は自己のサイト、true-to-youに「悪い夢を見ていると思いたい」と書き込んでいる。
[2] 2019年、ピート・シェリー記念財団の投票により、「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」は本国バズコックス・ファンで最も人気ある一曲に選ばれた(「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」ではなかった)。
[3] 1995年のボックス・セット『PRODUCT』に収録された「Live at the Lyceum」のヴァージョンには、ピートの次の言葉が収録されている:「えーと、待ちぼうけを喰ってることを・・・・いや景品を受け取るってことじゃないんだ・・・・」
[4] バズコックスのシングル・レコード盤の内側にある溝には時として、プレス工場のカッティング責任者のイニシャルや名前が、あるいはレコード・カッティング兼マスタリング・エンジニアとして大量のレコード生産に携わったジョージ・ペクハムGeorge Pechamによる「Porky自慢の一品」といったサインが刻まれているモノが存在する。
[5] 曲のエンディングでジョン・マーの掛け合いが聴ける。スティーヴ・ガーヴェイの発言:「あいつら、俺をブースの中にひっぱり込んでワン・テイク録ってはみたけど、こう言いやがった。『おまえダメ、使えね!』」
[6] その赤レンガでできた建物は1906年、バーンズ公営のレパートリー劇場(訳注:専属の劇団が数種類の劇を上映する劇場)としてオープンし、のちに映画館やテレビ・スタジオとして利用された。宅地化される計画もあったが幸い破棄され、現在は二つの映画館にカフェ,一軒の小さいレコーディング・スタジオが併設されている。
[7] ベネットBennettという綴りにはいろいろあり、Bennetの表記もある。
[8] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「俺が加入する前にはもうガースは『オーガズム・アディクト』とB面の『ホワットエヴァー・ハプンド・トゥ?』に参加していた。彼のプレイはコピーしきれなかった」
[9] 再びステイ―ヴ・ガーヴェイの回想:「俺は弾き方なんて教わらなかった。ただ、ピートが『ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?』のリフだけは教えてくれたね。マスターしてなかったからだよ。教わったのはそのときだけさ」
[10] スティーヴ・ガーヴェイ:「奴(マーク・E・スミス)は嫌味な、でも面白い男ともいえた。自分が気に入らないと露骨に顔に出るタイプでね!本音を言えば、バズコックスに入らなかったらフォールに入ってたんじゃないかな。奴と付き合ってこれたのは、俺自身淡白で、あんまりカッとしない性分だからなんだね」
[11] スタジオでピートと他のメンバーが「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」シャツを着ている写真がある。それを見ると対角線が右から左ではなく、左から右に流れている。『ラヴ・バイツ』のカバー写真同様、鏡に映った姿を撮影したのである(「序章」の41ページ、参照)。
[12] リチャード・ブーンはすりーヴのおもて面用に「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」の、裏面用に「オー・シット」の内容を説明する写真をマルコム・ギャレットに見せるつもりだったが、マルコムはそれらの写真を見せてもらえなかった(たぶん、写真は撮られなかったものと思われる)。マルコムは写真の代わりに緑色の紙とレトラセット印のレタリングシートを切り貼りし、実物大の試作品を作った。それを見たバンド・メンバーは言った。「このままでイケるよ。これでいこう」と。