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2018年12月6日

 この日。私は何をしていたのだろうか。まるで記憶にない。いつもの日常だったのだろうな、という思いしか浮かんでこない。カレンダーを確認してみたら、当日は木曜日。この頃は毎朝4時に起き、帰るのはいつも午前様だった。心身ともに疲れ果てていた。ロックやパンクをほとんど聴くことはなかった。厳密には聴く余裕すらなかった。寝る暇すらなかった。こんな生活が続くわけがない、という予覚を覚えつつ、どうにもならなかった日々。周囲に目を配ることがまるでできなかった日々。だから、一人の人物がこの世を去ったという事実を、リアルタイムで知ることはなかったのである。5年前の今日。その人物の作品を味わうことを、もうほぼ30年していなかった。彼のバンドが、いまどうしているのか、新作は出たのか、ほぼ全く知らなかった。知ろうともしなかった。無機質な鉄の時代にドップリとつかっていた私の精神と肉体はかつての、焦燥とがむしゃらさと、ひたむきさでもって外界と対峙する力を枯渇させていた。
 彼の死を、私はどこで、いつ知ったのか。今、私は記憶の糸をたぐりよせようとしている。ところがその糸がどこにあるのか、見つけることができないでいる。5年前、人間的な生活をほぼ、奪われていた私には、日々の濃やかな記憶を留める能力をも、ほぼ完全に奪われていたものとみえる。いつの間にか、その事実を知っていた。そう述べることしかできない。
 彼の死を思うとき、反射的に脳裏に浮かんでくる2枚の写真がある。1枚は、すっかり髪が薄くなりその少なくなった髪も真っ白になり、肥満した顔が映し出されている。その瞳にはある種の達観と共に、疲労の色が濃くにじみ出ている。それを初めて見た時に受けた静かな衝撃と、清冽な悲しみ。最晩年に撮られたと思しきその写真。もう1枚は痩身で、神経質そうに、どこか不安げに、こちらを見る青年を映した写真。私の記憶にある、その2枚の写真の間にあるとてつもない距離。
 私の人生とは比べくもない彼の63年の歩みは苛烈であったろうと、重いものが落ちてくるのを、受け止めざるを得ない。
    今日はピート・シェリーの命日である。バズコックスの象徴であった人。70年代バズコックスの作品と、80年代初頭のエレポップ作品ばかりが取り上げられる人のようだが、そればかりではない。90年代以降も良質な作品を出し続けているのだ・・・・と私もつい2年ほど前に認識したばかりなので偉そうなことは言えない。言えないのだが、改めて90年代以降の作品を聴き、その質の高さに驚くこと再三である。彼の不在を悲しみつつも今日は彼の残した作品をじっくり味わいたい。それが私なりの、彼への追悼である。

 最近よく聴いているバズコックス作品はこれである。2006年の『フラット・パック・フィロソフィー』。21世紀に入ってからのバズコックスは『モダン』で展開したようなアバンギャルドというか、思い切り攻めた作風を改め、簡潔な楽曲・アレンジを前面に押し出すようになった。勝手な見たてだが、進取の気性を前面に押し立てた『モダン』後のバズコックスは、バンド本来の目的である「いい曲」をひたむきに書き、演奏するバンドに立ち返ったのではないだろうか。もちろん新たな表現を獲得しようとする姿勢もパンクとして重要ではあるが、その根幹にいい曲・優れた楽曲がなければ成立しえない。それを、バズコックスは、ピート・シェリーは深く認識したのではなかったか。21歳でバズコックスを結成した表現者が、激しく振幅をくり返しながら走り続け、獲得したものをこうして味わえることは、聴き手として仕合せであろう。自分勝手な解釈であることを承知の上で。


「僕は僕自身と同じ経験をした人たちに向けて曲を書く。僕の曲を聴いたよって言ってくる人がどこからともなく現れるんだ!思っていても口には出せないことを言ってくれたと皆から言われる。アーティストの役目の一つってそこにあるんだよ。インストルメンタルだって人の心は表現できるしね」―ピート・シェリー