見出し画像

バズコックス『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』スペシャル・エディション解説全訳


ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション

本作はEMIから再版される70年代バズコックスのクラシックス、その最後を飾るものである。

サード・アルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』に、マーティン・ハネットの元でレコーディングされ、後にアメリカではミニ・アルバム化された『パート1-3』も含む5枚のシングル全曲、―さらに彼ら初の人間宣言と言える最後の作品“アイ・ルック・アローン”も収録される。

ボーナス・ディスクにはこの時期のデモが集められるが、その中にはこれまで入手困難であった“ザ・ドライヴ・システム”“ジーザス・メイド・ミー・フィール・ギルティー”“そしてパッディ・ガーヴェイ作の悲痛な”ラン・アウェイ・フロム・ホーム“といった楽曲も含まれる。

本作はこの時期のBBCレコーディング4曲で締めくくられる。その中には手探り状態の“エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ”も含まれる。バズコックスが大変な誤解に苛まれる端緒となったのが、この歌であった。

そう見えるものが本物のように見える
それに感じるものが本物のように感じる
それと味わうものが本物のように味わえる
そう聞こえるものが本物のように聞こえる
なのに、何故触れられない?
なのに、何故触れられない?
     ピート・シェリー、“ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?”1979年

1978年、バズコックスは2か月おきにシングルを立て続けに出しまくっていたが、1979年最初の45回転盤“エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ”は前作“リップスティック”から4か月のギャップがあった。これはシェリー/ディグルによるクリーンで風変わりなトーンとグランジ―なそれとが入れ代わり立ち代わり現れるギター・サウンドと理解に苦しむ歌詞を携えた、異様で無愛想な作品であった。シェリーは嫌味な人間になったのか、それとも真っ正直になったのか?この見解の相違は当時の国内情勢が危機的状況にあったことに原因の一端があったと思える。

しかし当時のバズコックスは現実社会、あるいは政治的駆け引きを含んだ諸々の契約事項に押しつぶされていた。LSDを体験したことで、シェリーは自分自身が「もっとはるかに普遍的で一個の独立した存在であることを」発見した。「哲学的なこと、人がおかしな方向に進むのはなぜかを、いろいろと考えた。“エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ”と“ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?”は哲学な内容だ。人の心に潜む、まやかしの存在を扱っているんだ」

確かに、「人生はまやかしさ」という歌詞はトップ30にはふさわしくなかったが、バズコックスは『トップ・オブ・ザ・ポップス』であけすけな、奇怪なパフォーマンスをすることでこの問題をさらにこじらさせることになってしまった。シェリー:「アメリカ製の品のないデザインのジャケットを着て、手には5ポンドと3ポンドの紙幣を持ち、ハンカチに見立ててそれを胸ポケットに突っ込んで“エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ”を歌ったんだ。傲慢だと周囲からは思われたよ。心では思っていても表には出せない、それを代弁してやったのさ」

パンクは終焉を迎え、バズコックスは孤立無援の状態にあったが、彼らの創作意欲は盛んであったことは、このシングル作品が証明している。“ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?”がシングルの常識を破る6分半の長さ―“ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート”と同じくらいの長さだ―になることにも、彼らは気にしてはいなかった。“ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?”はクラフトワークの領域にまで踏み込んだ彼らがいかに卓越した演奏力を手に入れたかを証明してみせた。同時に、フレーズを反復し移ろっていくその演奏は、恍惚とした状態をロック化させた一つの範例となったのである。

次のシングルもまた、申し分のないものだった。1979年7月に発売されたスティーヴ・ディグル作の“ハーモニー・イン・マイ・ヘッド”は再び物質主義を冷徹に批判した至極の一曲であった。「ネオンがまたたぎ、その目を街に引き付ける/世界を広告であふれさすっていう意見が通っちまった/浪費の原因はポンド礼賛にあるのさ」有名な“ボーダム”のソロをそっくり真似た、サイレンを思わせるギターがあふれ出し、バックの演奏と一体化する様は火が吹くようである。

バズコックスにとっては文句なしの“ハーモニー・イン・マイ・ヘッド”であったが、チャートでは32位にとどまった。まるであの時代をもう一度とばかりに8月には『スパイラル・スクラッチ』の再発盤が31位を記録するも、バンドのシングル作品の数々が注目されるようになったのは、アメリカでのファースト・アルバム『シングルズ・ゴーイング・ステディ』が登場したからである。この一級の内容を持つコンピレーションは“オーガズム・アディクト”から“ハーモニー・イン・マイ・ヘッド”までの全シングルAB面曲を収録したものであった。

1979年9月、アルバム発売に合わせてバズコックスは初のアメリカ・ツアーを行なったが、ピート・シェリーは心ここにあらずであった。「ラㇼってばかりで楽しくなかった。不安定な精神状態でね。セント・マークス・プレイスでプレイした時だった。ギグは大混乱で、僕はこう言った。『皆が落ち着くまでやらないぞ』そしたら奴等は『ラジオ局のためにやれ』って言うんだ。だから僕は言ってやったんだ。『ここに来た奴等のためにやってるんだ。ラジオ局のためにやってられるか』ってね」

「あの時ジョンのいたすぐ後ろにニューヨーク大学と書いた垂れ幕がかかってた。ジョンはそれが気に入らなくて、ステージにいる最中それを引きずり下ろした。ラジオ局の奴らがそれを見て激怒した。僕らがステージを降りると誰かがジョンの襟首をつかんだもんだから、ジョンは返り討ちだってんでそいつの鼻っ面をヘッド・バットしてさ。そしたら後ろからラジオ局の奴等がすっ飛んできて、僕らはトンズラして出国しなくちゃならなかったよ」

事はそうそううまく続くわけではない。次のシングル“ユー・セイ・ユー・ドント・ラヴ・ミー”はまるでチャートに入らなかった―B面に極上のサイケデリックなギター・ソロが入る“レゾン・デートル”が収録されたのにもかかわらず―。この影響は10月に発売されたバズコックスのサード・アルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』(タイトルは私が『サウンズ』誌に書いた『ラヴ・バイツ』評の一節から取られた。ああ余談だが、このアルバム評には4つ星をつけたのだった)にも尾を引くことになってしまった。

『テンション』は各サイドが独立した内容となっている。サイド1は典型的なバズコックス節が続く。普遍的な問いかけがなされる“パラダイス”―「僕らはどこにいるのだろう?すべてが偽り、真実はどこにもない」―堂々巡りをし揺れ動く心情を詰め込んだ“ユー・セイ・ユー・ドント・ラヴ・ミー”や“レゾン・デートル”。メディア批判の“シッティング・ラウンド・アット・ザ・ホーム”、エンディングに短いラップ調の語りが入る“マッド・マッド・ジュディ”など、スティーヴ・ディグルは3曲を提供している。

サイド2は当時評価されることはなかったが歴史に残るべきものである。ピート・シェリーの真実を求める問いかけ―同時にバンドの苛烈な活動による深刻な疲労ぶりをも訴えている―は陰鬱な様相を呈し始めていた。5つの楽曲は転落から絶望へ至る、一つの組曲を成している。“ユー・セイ・ユー・ドント・ラヴ・ミー”(訳注:ここは“アイ・ドント・ノウ・ホワット・トゥ・ドゥ・イン・マイ・ライフ”が正しいと思われる)にて「どこで間違ったのか判らない」と歌われるところから始まり、次の“マネー”での「人生は動物園」という直截な表現は揺らぐような、不安定なテンポと上手く釣り合っている。3曲目の“ホロウ・インサイド”では言葉が細かく並びたてられる:「心の中は空っぽ/僕の中身は空っぽ/でも判ってはいなかった/その理由が/どうしてなのか・・・・」その詩作はシェリーが現実から目を背けていなかったことを証明している。華やかに始まる“ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション”はシェリーの頭の中にある、相反し矛盾する言葉を叫ぶアレンジが不安感を煽り立てる:2番目の歌詞では空虚な応答がシンセの単音に乗ってくり出される。

最終部分で相矛盾する語句が一斉に歌われるが、まるでヴェルヴェット・アンダーグラウンドの”マーダー・ミステリー“のように、不穏な空気がこびりついて離れなくなる。聴く者の心をかき乱し、ぞっとさせる。しかしこの後の7分に渡る信条告白”アイ・ビリーヴ“において、シェリーは全ての糸を紡ぎ合わせ、己の鬱状態を克服しようとする―曲そのものは快活なテンポでまとめられ、ゴキゲンなギターが鳴りひびく―:しかしそのムードは希望と絶望の狭間に漂っている。

「こんな争いごとに」と彼は始める、「決着をつけるのは本意じゃない」混乱したヴァース部分―「体がおかしくなったら、心配になってどうにかしようとするもんさ/ぼくはもう、どん底さ、どうしていいのか判らない」―あまりに楽天的なコーラス部分と鋭い対照を成している:「僕は若返りの薬を信じる/僕は完全なる真実を信じる」ここまで着て、次のリフレインが聴く者を困惑させる:「この世にはもう、愛は存在しない」

最後の3分間、このフレーズは冷徹に、身を切るような呪文のように執拗に繰り返される。レコードの最後に出てくるのはラジオの端折り聞きといえる音であり、チャンネルを変える毎に“エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ”や“ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?”が流れてくる。まさしく、この傑出した2曲は単に一時的に聞き、そして捨てられる程度の価値しかない作品ではないことを示しているのだ。シェリーの置かれた状況とバンドの窮地を生々しく描き出したことで、本作は今なお色あせることはない。

この、心動かすレコードはイエロー、オレンジ、パープル色の、やはり草創期のポップ・アートを思わせるスリーヴに包まれて1979年9月末に発売され、最高位26位を記録した後3週間後にチャートから姿を消した。アルバムのプロモートのため、バズコックスはジョイ・ディヴィジョンを従え、30日間にわたるツアーに出発、いくつかのレヴューでは不評を買ったが、バンドは意欲的にツアーをこなした。

いくつかのライヴ評は芳しくなかったとはいえ、両バンドの演奏は充実していた。しかし主役の意見によれば、ツアー中は乱暴狼藉が横行し、ローディまでがそれに加担し、風紀が乱れるようになっていったという。「あの頃から堕落が始まったんだ」とシェリーは認めている:「ギグの前にホテルに戻り、お決まりの定食とシャンペン、あとはアルコールのボトルにブランディ。毎日その繰り返しだったね。僕らは社会主義者とか個人秘書を雇うとか、そういうご身分じゃなかったということさ」

『テンション』であまりに生々しく苦悩の感情をぶちまけたことで、もうシェリーは終わりだと人々は見て取った。しかしバズコックスは活動を続けた。「全然ライヴ活動はしなかったね」とシェリーは回想している。「マーティン・ハネットと『パート1-3』の制作を始めた。ロックンロールなご乱行そのものだったよ。コカイン、ヘロイン、ドープをどしどしね。タウンハウス・スタジオで作業をしていた途中でパッデイが抜けたんだ。逃げ出したのさ」

「アドヴィジョンで最初にレコーディングしたのが“アー・エヴリシング”だった。僕はトビっ放しで、作業中小さい窓のある所にじっと固まってたよ。マーティン・ハネットも一緒になってトビっ放しで、僕らは作業中ずっとそんな状態だった。ハネットは機材をずっとひねくり回していて、ドラッグが運び込まれる夜中の2時になるまで、僕らは作業を始めなかった。部屋を水浸しにしたこととか、さんざやらかしたよ」

活動末期にあって、彼らはある意味結成当初に回帰する姿勢をとっていた。しかしそこには『スパイラル・スクラッチ』の頃の、純真さと情熱はなくなり、荒んだものだった。ハネットはセッションの事をこう回想していた。「混乱の極みだった。バズコックスの連中はギスギスしてイラついていた。ディグルがその場を仕切っていたのが原因だと判った。放埓な雰囲気に満ちていた。節操なんてないない。まあ、俺も人のことは言えなかったけど」

このセッションから最初に登場したのが―“ESP”や“アナザー・ミュージック”のラストで聴けるような―間断なく繰り返されるバズコックスならではのリフが展開され、―やはり謎めいた歌詞を持つ―“アー・エヴリシング”であった。1980年8月に発売されたこの作品は、子供向けTⅤ番組『ファン・ファクトリー』に出演し宣伝活動したのも関わらず、61位に終わった。B面はスティーヴ・ディグルの激情ロッカーぶりが炸裂する“ホワイ・シーズ・ア・ガール・フロム・ザ・チェーンストア”で、リンダーが企画したプロも・ヴィデオも制作された。

2枚目として1980年10月に発売されたのがピート・シェリー作の“ストレンジ・シング”で、カップリングされたのは―3枚すべてに共通しているが―スティーヴ・ディグルのオリジナル曲“エアウェイブ・ドリーム”であった。“ストレンジ・シング”には奇妙でサイケデリックなノイズが導入され、腹の底からほとばしり出るような激しいヴォーカルが聴ける。シェリー:「“ストレンジ・シング”は鬱状態を歌った。僕自身が酷い鬱状態で、何とかこれを振り払いたいと思って、あんな歌い方をしたのさ」

チャート入りすることのなかった、ささくれたホーンが覆う“ホワット・ドゥ・ユー・ノウ?”はセッションで残った最後の作品ではなかった:「もう後戻りはできない/攻撃する用意はできてるさ」とシェリーは声高に叫んだ。彼自身認めているように、「歌っていうのは、世に出るまでは自分の自画像だったんだ」一方、スティーヴ・ディグル作の“ランニング・フリー”はどこまでも困難を突破していこうとする気概にあふれ、美しいメロディを持った彼の最高傑作の一つである。「もうだめだ、時間がないんだ」とシェリーは歌った。そして突然、終わりを迎えたのだった。

シェリー:「バズコックスが解散した一番の要因は、資金繰りが出来なくなったからさ。僕らと契約したアンドリュー・ラウダ―がレーダー設立のために退職し、ティム・チャックスフィールドが後を継いだ。彼は僕らの味方だった。その後EMIに合併され、1980年の初頭ティムがサックス奏者になるために退職した後、EMIと初めての契約に臨んだ。直近の2枚のシングルを聴かせた時の、A&Rの男にこう言われたことは忘れられないね。『こりゃこりゃ売れないね。見込みなしだ』とね。

「ヴァージンから収入をあてにしたことが、事態をさらに悪化させた。『シングルズ・ゴーイング・ステディ』はイギリス本国では発売されていなかった。ヴァージンから出そうかと言われていたけどね。EMIから、地域限定ならと言われて、ヴァージンは興味をなくし、発売はお流れになってしまった。僕らはバズコックス4枚目のアルバムのレコーディングを始めようとしていた。“ホモサピエン”はその一曲になるはずだった。スタジオに入ったはいいけど、何もできない状態に陥ってしまっていた」

「マーティン・ラシェントが、いったいどうしたんだと尋ねてきて、レコーディングは中断された。僕らはEMIから契約金を手に入れようとオフィスを訪れた。面接に現れた男はクリフ・リチャードでたんまり儲けている奴で、あっさりこう言いやがった。もう僕らとはやるつもりはないって。コトが完全にかたがつくまで、僕は一人でマーテインの家に行き、デモを録った。“ホモサピエン”がその2曲目だった。僕は思ったよ。ここらが潮時だなって」

『パート4』用に残されたシェリー作の“アイ・ルック・アローン”が最後の楽曲になり、バズコックスは解散。シェリーとディグルはソロ活動を開始、パッディ・ガーヴェイとジョン・マーは音楽業界を離れた。しかし、これで万事休すにはならなかった。編集盤『プロダクト』が歓迎された。彼らの作品は未だに色あせることのない輝きを放っていたのだ。ディグルとシェリーは1989年、ガーヴェイやマーと共にバズコックスをついに再結成させた。話はここで尽きない。

1993年、バズコックスは現在もバンドの後援者といえるトニー・ベイカーをベーシストに迎え、4枚目のアルバム『トレイド・テスト・トランスミッション』を発売。1994年初頭にはニルヴァーナのラスト・ツアーの前座を務めた。以来、『オール・セット』(1996年)『モダン』(1999年)『バズコックス』(2003年)『フラット・パック・フィロソフィー』(2006年)と4枚のスタジオ・アルバムを発売している。目下の最新作はライヴ・アルバムの『30』で、これには32年のキャリアからの28曲が選ばれている。
                         ジョン・サヴェージ

訳者後記


 本稿は2008年にイギリスで発売されたが日本では未発売に終わった『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』の30周年記念のスペシャル・エディションに付されたジョン・サヴェージ執筆の解説、その全訳である。『ラヴ・バイツ』スペシャル・エディションの「後記」でも触れたが、解説を含めた本CDはヴィンテージ・バズコックス・アーカイヴ3部作として当時EMIから発売された各2枚組CDの最後を飾るものであり、ジョン・サヴェージの解説は先の2作と地続きの内容となっている。単独の解説としても十分に読ませるけれども、他の2作ともども繙読すれば、ヴィンテージ・バズコックスの活動ぶりが生々しく浮かび上がると共に、当時のブリティッシュ・パンクの盛衰も知ることができる意味で、パンク史に関する一級の資料としての価値を失っていない。しかしこれらCD3部作は現在廃盤であり、本解説も正規な形では入手できない。このまま忘れさられる危惧から今回、訳出することにした。訳文に関しては至らぬ面は多々あるし、間違いも散見されると思う。ご指摘をいただければ幸いである。

 解説本文についてはここであれこれコメントすることは野暮であろう。だからこの後記では解説原文とは別の視点で数語を費やさせていただきたい。

 まずはアルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』について。本アルバムのレコーディングには数週間を要し、プロデューサーのマーテイン・ラシェントにより当時建設中であったラシェントの自宅スタジオで、無数の編集とオーバー・ダビングが行われたという。前2作が極めて短期間(ファーストは、ピート・シェリー曰く実質2週間、セカンドはオリジナルのスリーヴを見ると12日間しかかけていないことになっている)で行なわれ、普段のステージとほぼ同じよう方法で録られたのとは明らかに異なっている。ラシェントとしては自分のスタジオを試し運転するつもりでミックスに使用したのかもしれない。バンド側としても、いわゆるパンク的な、直情径行的な音作りから脱したいという思いがあった。結果、音は明らかにキッチリ構築された緻密なものとなったが、前2作での、熱気と躍動感は殺がれてしまうことになった。もちろんそれは各アルバムを比較しての事であって、単独で本アルバムに接すれば見事な、いかにもバズコックスな出来映えではあるが。

 アルバムに収録された楽曲レベルは、これまでで最高と言っていいものである。ファーストでは何曲かでハワード・デヴォート時代のものが含まれ、プレ・ピート時代の残り香を色濃く残しているし、ポスト・デヴォート期のナンバーばかりがそろい、ピートの本領発揮となったセカンドは、ファーストからまだ半年しか経っていないこともあって新曲を書く時間が満足に与えられず、ピートはアマチュア時代に書き溜めていた曲をいくつか引っぱり出してきたという(「ノスタルジア」は74年、「シックスティーン・アゲイン」は75年に書き上げており、「ESP」もメロディーは74には書き始めていたとピートは語っている[1])。『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』では過去に書き上げていたのは「パラダイス」くらいで(73年のようである)、前作から1年のインターバルがあったことで創作に(多少なりとも)時間ができたのかもしれないとしたいところだが、当時のピートは本解説原文でも触れられているようにパンク・ムーヴメントの退潮、スターダムからのストレス~ドラッグ禍から鬱病になっており、順風満帆からほど遠い状態であった。それなのにこれだけの質・量の楽曲を揃え、かつアルバム未収録のシングルもこの年2枚発表しているわけで、ピートの創作力のすさまじさが窺える。加えてアルバムにはスティーヴ・ディグル作品が3曲収録されている。前2作にはそれぞれ1曲ずつであったのが一気に3倍に増えているのは、多分にピートの創作に刺激を受けたのではなかろうか。この時期には彼の楽曲中、おそらくもっとも有名なシングル曲「ハーモニー・イン・マイ・ヘッド」もあり、これら楽曲群はいずれもピートとは明らかに風合いの異なる、いかにもイギリス人らしい苦みの効いた皮肉と反骨心に満ちた作風を打ち出していて、バズコックスが決してピートのワンマン・バンドではないことへの鮮やかな証明となっている。

 アルバムで最も重要な曲は、ラストに収録された「アイ・ビリーヴ」であろう。7分強という、ヴィンテージ期で最も長い演奏時間を誇るこの曲は、当時のピートの、思想~音楽性の完成点をまざまざと見せつけると共に、まるでジョン・レノンの名曲「ゴッド」への回答ではないかと思わせる要素もある。「アイ・ビリーヴ」と「ゴッド」、共に似た構造を持った曲である。レノンの「ゴッド」は延々と自分が信じないものを列挙し、最後に「俺はビートルズを信じない/信じるのは俺とヨーコだけ/夢は終わったのさ」と歌われる。一方の「アイ・ビリーヴ」で、ピートは自分の信じるものを列挙していき、その後に「この世に、愛は存在しない」のフレーズを放り投げ、最後にこのフレーズをひたすら繰り返すのである。

 己と己の愛する女のみを信じると歌ったレノン。

 信じるものはあっても、愛は存在しないと歌ったピート。

 この2人の思想の相違。「ゴッド」が発表されたのは70年12月。「アイ・ビリーヴ」は79年9月。個の愛と信を深刻に考察したこれらの楽曲が、70年代の最初と最後の年に世に出たことに、何の意味もないのであろうか。この辺については、さらなる検証が必要だと、訳者は考える。

 アルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』は、バズコックスにとっての臨界点と当時多くの人に思われていたふしがあることを、サヴェージは語っている。ピートやスティーヴの創作意欲が継続していたことは、その後に登場したシングル3部作「パート1」「2」「3」は証明している。ピート自身は後にソロとして発表する楽曲をすでにこの時期に創り始めてもいた。また、シングルの「パート1-3」は、『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』以降の、より複雑な音像を獲得しつつも、それまでの「buzz-saw guitar」から脱皮した、新たな世界を構築しようとする意欲も見ることができる。

 だが、バンドとしてのバズコックスは、やはり限界に達しようとしていた。メンバーのドラッグ問題。音楽性や活動を巡っての感情のもつれ。個々のメンバーの意欲と、バンドのありようとは必ずしも一致しないものである。

 本解説でピートは、解散の最初の兆しは『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』発表後のツアー中での事であったと語っている。このツアーでのメンバー、スタッフはまるで節操がなくなってしまっていたらしい。だがすでにその前年、セカンド・アルバム発表した後の頃から、ピート自身がバンドを辞めたがっていたことを匂わす発言を自ら『ラヴ・バイツ』スペシャル・エディションの解説の中で述べているのである。すでにその頃に、バンド崩壊の種はまかれていたと訳者は見る。解散の直接の原因は財政問題であったとピートは語ってもいるが、遅かれ早かれバンドの解散は避けられなかったであろう。しかし『ラヴ・バイツ』発表後にピートがバンドを辞めていたら、少なくとも『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』という傑作はこの世に出ることがなかったことは間違いない。

 終わりに一言。本2枚組のCD3部作は、ヴィンテージ・バズコックスの豊かな音楽性を音源・ビジュアル・資料面から知らしめる骨太の企画であった。配信という形でバズコックスの個々の楽曲は現在手軽に聴くことはできるが、それで事足れりとすることはできない。本3部作のような作り手の意欲を感じ取れるproductsは流通を絶やさないでほしいと思う。


2023年1月14日 訳者記す



[1] 本後記でのピートの発言は2021年公刊の『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』による。読者の便宜を考え、引用ページは今回略した。