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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(30)

パート2:ストレンジ・シング

Part 2 :Strange Thing

 

シングル発売のみ

「エアウェヴズ・ドリーム」と両A面

録音:1980年:アドヴィジョン・スタジオ、フィッツロヴィア、ロンドン

ミックス:ストロベリー・スタジオ、ストックポート

発売日:1980年10月13日

ソングライター:ピート・シェリー

プロデューサー:マーティン・ハネット

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

 

この曲はどこで、いつ?

 

全然憶えていないんだよ。アシッド漬けだったからだろう!創作しているときに「うーん、今この時のこと、忘れてなるものか」って思っても、そりゃなかなかね。曲をつくり始めのときは意識して忘れないようにって思うこともあるよ。でも曲のアイデアは大体不意に思いつくんだよね。

 

歌詞には「この憂鬱をなんとかしなきゃ」とあります。当時そんなに落ち込んでたんですか?

 

そう、鬱の真っ只中だったね、確かに。まああの頃だけじゃなかったけど。これは鬱を克服しようって曲なのさ。鬱っていうのは、世の中と自分のありようがずれていくと起こるものなんだ。『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』に戻って考えてみると、この作品は仏教思想がテーマで、自分が抱え込む希望や怖れ、といった感情を安らかにしようとすることを扱ったんだ。多分その答えというのは、その人の生き方を変えることにある。そうすることでその人は安らかになれるんだ。すごく傲慢ではあるね。これってレナード・コーエン風の鬱とは異なるものだね。

 

音楽面でのことでは?

 

音楽的なことでいえば、四つのギター・コードがいっぺんに鳴っているように聴こえる。四本分のギターを一本一本別々に録ったのか、あるいは別の方法か、その辺は思い出せないな。ライヴで演ったときには僕とスティーヴは折り重なるようにコードを弾いた。一つ目のコードを僕が弾いている状態で二つ目のコードをスティーヴが弾き、二つ目が鳴っているところで僕が三つ目を弾く、三つ目が鳴っている状態でスティーヴが四つ目のコードって具合だ。それぞれのコードが「くっついて」、一つのコードがもう一つのコードに直ぐにつながっていくというより、だんだん自然になくなっていく。実にうっとおしくて陰々滅々としてくるね。

 そしてこの曲の歌詞も特定の言葉、代名詞だけど、その特定の言葉が変化することで内容が展開していくんだ。

 

チェロは誰が弾いてるんですか?

 

アバンギャルド・チェリストのジョージィ・ボーンだよ。彼女にはクラシックの素養があった。王立音楽学校に在学していたんだ。スタジオにやって来て彼女はチェロをセット・アップし、どう弾けばと尋ねてきたから「不快な音になるように」と頼んでおいた。彼女はヘンリー・カウHenry Cow[1]と共演していると思う。ペンギン・カフェ・オーケストラthe Penguin Café Orchestra[2]やフライング・リザーズThe Flying Lizards[3]とは間違いなく共演してるね。アカデミックで、人類学者でもあった。

 

ソロ作品『SKY YEN』もこの時期のリリースでしたね。

 

そう。殆んど売れなかった。フランシス・クックソンとグルーヴィ・レコーズを始めた頃だった。ティラー・ボーイズの余勢をかったんだ。『SKY YEN』は僕がボールトン科学技術インスティテュート在学中の1974年に録音した作品だった。小さい発信機を組み立てたっていうか、ハンダゴテで拵えたんだ。オープンリールのテープ・レコーダーも持っていたから音を『左右に揺らす』ことができた。例えば左チャンネルに録音したとして、それを再生しながら右チャンネルに録音し、両方をミックスさせる。左チャンネルとそのあとに録音した右チャンネルの音を飛び跳ね移動させ合うことができるわけだよ。

 発電機を拵えたのは土曜日だった・・・・よい子の皆さんはマネしないように!あちこちいじると回線がつながって思いもかけない奇妙なノイズが出たんだ。まるで僕の意志でノイズを発生させているみたいだった。サイボーグが作った音楽のようでもあったよ(発信機は他の機材とはつながってなくて、それ自体単体で9ワットの電池で動いた)。ピッチを調整する回転式のツマミが付いていて、それをいじってヘンテコなエコーのような音を出すことができた。このエコーと、録音した音をミックスさせ、別のスピーカーからエコーなしの本来の音を流して二種類の音も出すこともできた。それで二本目のテープ・トラックに、この両方のギャップある音を混ぜ合わせてみたら、キテレツな音が飛び出してきた。20分かそこらしかない、ちっぽけなオープンリールのテープだったけどね。

 1974年、ジェッツ・オブ・エア以外に二つのバンドをやるつもりだった。一つはエレクトロニクスのユニット。名前をスカイSKYにするつもりだったんだけど、ギタリストのジョン・ウィリアムスがその名前を使うようになっちゃってユニットはボツさ。その頃僕はダイモDymoというラベル貼りの機械を一台持っていた。車輪を回してプラの粘着テープに印字するタイプで、ある日そのテープに「SKY¥」と印字したんだけど、僕には「¥」のマークが何なのか判らなかった。後になってそれが円のことだって知って。それで『SKY YEN』の名が付いたというわけなんだ。

 その後のカレッジ時代にエレクトロニクス音楽のグループを始めることにした。ウオルター・カルロス(今はウェンディ・カルロスだけど)みたいなヤツを漠然とエレクトロニクス的だとみなして、そういう類いの曲を昼休みに音楽室でね。「Sky Yen」はよく演った。反応は、まあボチボチかな!パーティでも話のわかりそうな人を相手に「Sky Yen」は演ったりした。マーメイトMarmite(訳注:イギリスではごく一般的な、ペースト状の食品)と同じさ。―気に入る人もいれば、嫌がる人もいるもんさ。ああいうのは音楽じゃないと思ってる人もいるけど、僕は好きさ。口ずさめるし!グルーヴィからはフランシスのアルバム『3・33POUND』[4]を出した。販売価格をタイトルにしたのさ。何曲かではギターやドラム・マシーンも入っている。実験的で、ちょっぴりスロッピング・グリッスルっぽいよ。聴き易くはないね。ヒット曲はないし!

 その後僕らはポータスタジオPorta-studio(訳注:マルチ・トラック・レコーダーの名称)のおいてある部屋で「Strang Men in Sheds with Spanners スパナを持って車庫にいる見知らぬ男たち」を録音したけど、リリースする予定はなかった。フランシスがマーティンにテープを聴かせようと持ち出してマーティンに預けっ放しになり、そうこうしているうちにマーティンが亡くなってしまい、彼の持っていた他のテープともども処分されてしまったと思う。カセットにダビングしたヤツは持ってはいるけど、誰かが間違って「再生」ボタンを押そうとして、ずいぶん音を消去しちゃったんだよ。まともな状態の音を探したんだけどね。今の耳で聴いてもきらびやかで、いい出来だよ。まあそれも記憶の中にあるだけさ。

 グルーヴィ・レコーズの作品は全部今はシカゴにあるドレッグ・シティ・レコーズDreg City Recordsからリイシューされてるね。アルバム『HANGAHER』(訳注:発表は1980年)を一緒に制作したサニー・ティムズが同じシカゴ在住で、彼女を通じてドレッグの人間と懇意になったのさ。



[1] ヘンリー・カウ 1968年ケムブリッジで結成された「実験的」ロック・グループ。その音楽は「挑発的」かつ「非妥協的」と評価されてきた。

[2] ペンギン・カフェ・オーケストラ 1972年から1987年まで活動したアバンギャルド・ポップ・バンド。バンドの個性を決定付けていたのはリーダーのサイモン・ジェフェスであり、フランス南部で「何やら気色の悪い魚」を食べた後に毒を盛られ、床に臥せって半ば意識朦朧としていたときにバンド結成のアイデアを得たという。

[3] フライング・リザーズも「実験的な」バンドであったが七十年代末のニュー・ウェーヴ・ブームを追い風にのし上がった。最もよく知られているのはR&Bスタンダード「Money」とエディ・コクランの「Summertime Bluesのエキセントリックなカバー・ヴァージョンであり、年代物のタイプライター、ピートが演っていたような「ビスケットの缶に巻かれたゴム紐(ひも)」による演奏をバックに、あたかも初舞台であるかのようなぎこちない語りと歌を聴かせた。

[4] 3・33ポンドとは奇妙な価格設定に思える。12インチレコードの回転数である331/3回転とほぼ同じであると暗示しているというのが正しいのではあるまいか。