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バズコックス『SEE YOU EVERYTHING』解説和訳

マインド・コントロールされるな。
 
イギリス国家に


2018年12月6日にピート・シェリーが死去したことにより、70年代末のヒット曲―‘エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ’‘エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ’‘ハーモニー・イン・マイ・ヘッド’と共にバズコックスは改めて、マンチェスター最初にして最高のパンク・バンドとして不滅の評価を得ることになった。しかし本作品集はそれらとは趣を異にする。すなわち、より顧みられることの少ない、1980年代の長い解散期間を経てツアーにレコーディングに復活してからの彼らに光をあてたものである。1993年の『トレイド・テスト・トランスミッション』に始まり21年間の、それぞれが独自の味わいを持つ作品群の、ほぼ全てが収められている。これらは70年代後半のベストとされる作品と引けを取るものではないのだ。

自分たちが目指していたものだったんだ、とギタリストのスティーヴ・ディグルが語る。「解散後くすぶっていた時にやりたかった音楽、それをバズコックスで実現させたんだ。あの頃、俺たちもシアトルとか、そういう世間から人気を集めつつあった最新のロックに注目していた。同時に、俺たちのルーツとしてさほど重視されていないクラウト・ロックなんかにも再び目を向けつつあった。この作品集にはたくさんの優れた音楽性が反映されているんだ」

加えて、オリジナル・メンバーであったベーシストのスティーヴ・ガーヴェイ(訳注:オリジナル・ベーシストはスティーヴ・ディグルである)とジョン・マーに代わって新しいリズム・セクションを加えたことで、バズコックスはステージ内外で新鮮かつ活気あるエナジーを供給し、前進していけることを悟った。90年代初頭から、ニルヴァーナとのツアー、カルフォルニアでのグリーン・デイを担当したプロデューサー、ニール・キングとのレコーディング、ラス・ベガスでのエルトン・ジョンとの邂逅、ブリット・ポップの大御所としての地位、といった多くのキャリアをバズコックスは20年余りにわたってシーンに深く刻み付けていった・・・・。

ほぼ10年に渡る各人のソロ活動を経て1989年に再結成されたバズコックスは、もうその時点でパンクの伝説的な扱いを受けていた。1976年初頭に結成されてほどなく、マンチェスターのフリー・トレード・ホールでの、セックス・ピストルズ2回目のショウの前座を務め―ピート・シェリーと初代ヴォーカリストであったハワード・デヴォートはショウの広報活動を手伝った―、すぐさまパンクのファースト・ウェーヴの一員としてピストルズ、クラッシュ、ダムドと肩を並べる存在となった。結成当初よりピエール・モンドリアン調の色彩豊かな、幾何学模様を用いた絵画をあしらった手製のシャツをまとい、十代の欲望や愛、人生の苦悩を冷ややかに客観的に写し取った歌で、北部出身の個性派として独自のポジションを気付き上げていった。

ブリティッシュ・パンク初の自主製作7インチ発表後、カレッジ復学のためハワード・デヴォートが脱退し(その後デヴォートはポスト・パンク・バンドのマガジンを結成する)、シェリー/ディグルをフロントにしたバズコックスは濃密な3年間を過ごし、その間各地をツアーし、レコードをヒットさせ、記憶に残る『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演を果たした。1981年の解散を迎えるころにはコカインやLSⅮに浸りきり、人間関係のもつれや音楽的対立に苛まれた。しかし1989年を迎えるまでには、国内外のプロモーターから再結成の要請がされるようになった。アメリカではシングルのAB面曲を集めた『シングルズ・ゴーイング・ステディ』がカレッジ・ラジオの定番となっていたし、イギリスやヨーロッパではその元気いっぱいでポップ・パンクなヒット曲と並んで、‘ナッシング・レフト’‘サムシング・ゴーン・ロング・アゲイン’‘オートノミー’といった優れたアルバム収録曲やシングルB面曲のような、より重く実存主義に根差した内省的な曲の人気も依然として高かった。
 
こうして1989年夏、解散後一度も顔を合わせることのなかったシェリーとディグルは、スティーヴ・ガーヴェイやジョン・マーともども、アメリカ・ツァーに備えてノース・ロンドンにあるイージー・ハイヤーという練習スタジオに集結した。ディグルはすぐさまモノになると感じたことを憶えている;「うまいぐあいに、近くにイイ感じのバーがあったんだ」とギタリストは回想している。「2曲か3曲練習した後だった。何の曲かは憶えてないな。俺とピートは一杯やりに外に出た。音楽の事を云々するためじゃない。仲良く飲むのが目的だったんだ。他の2人はトンズラしたと思う。あいつらはそんなに飲むタチじゃなかったからね。初期の頃からそうだったんだけど。ピートとは全然気まずくならなかった。フランスの実存主義者がレフト・バンクの居酒屋にたむろして、哲学や人生の意義について語り合うみたいな感じさ;若い頃、俺とピートはよくマンチェスターの、俺たちの事務所近くにあったザ・クラウド・アンド・アンカーって店によく行ってたんだ。そういったパブでの会話から、よく曲のアイデアが生まれたもんだった。その頃とちっとも変ってなかったよ」
 
シェリーのソロ・マネージャーが務めていたラフ・エドモンズがグループのマネージメントを引き受けることになり、熱狂の渦を巻き起こしたアメリカに続いてヨーロッパや日本へもツアーを行なった。ライヴの要請は引く手あまたであったが、18か月後、マーがロードの生活に疲れ、市井の人としてレーシング・カー部門のビジネスに帰っていった。スミスの元ドラマー、マイク・ジョイスが穴埋めをしたが、今度はスティーヴ・ガーヴェイがニュー・ヨークにいる家族との生活を優先させることを選び、グループを去った。ディグルとシェリーは新たなリズム・セクションを探すことになり、1992年に元ボーイズ・ワンダーのメンバーであったベーシストのトニー・バーバー、ドラマーのフィル・ベイカーに落ち着いた。その一方で、ピートとスティーヴは習慣としていたデモ作りを継続していた。今回のセットでもそのいくつかを聴くことができる―これまでバズコックスの作品として公にされてこなかった(ディスク1を構成しているデモは1991年、バズコックス名義で行なわれているけれども)。
 
「〔再結成後の〕レコードでは、これまでとは違ったリズム・セクションのノリが味わえるよ」とディグルが言う。「トニーとフィルからは確かな手ごたえを、俺とピートは感じ取ることができた。トニーはポップ・ミュージックの大ファンで、皆かつてはあんなだったなって思わせるものがあった。音楽の歴史にやたら詳しくて、ウマが合ったよ。日本にいる時は揃ってひげを生やして、どこでだったか、おそろいの服にアンプをあつらえてエリック・クラプトンのバンドみたいだな、なんて話しをしたっけ。あいつは聡明な男だった。ある意味ピート以上にね。俺たちは上手くやれた。楽しかったよ」
 
グループはキャロラインと配給契約を結び、ノッティング・ヒルのイーストコットという名のスタジオを押さえ、プロデューサーにドイツ人でダンス音楽を手掛けていたラルフ・ルッパートを迎えた。この時点でシェリーとディグルはアルバム1枚を十分にカバーできるだけの曲を書き溜めていた。2人は特有の、ある種対照的な、陰と陽ともいえる持ち味を有していた。「ピートは分析的で俺は直感的、とでもいうのかな」とディグルは述懐しているが、彼は自己のバンド、フラッグ・オブ・コンヴ二エンス時代にシェリーに劣らぬ量の曲を作っていた。「そんなに意識して曲を書いていたわけじゃないよ。ピートは論理的だったっていうか―ドストエフスキーが『罪と罰』で『理屈をつけたがる連中』って言っているようなさ―。俺は正反対だった。ピートは順序だてて物事を進めて行きたがった;初めて会った時、あいつは「トイレはどこだい?」って聞いてきた。俺が「あそこだ」って言ったら、「いやいや、トイレはどこだい?」って。トイレへどうやったらたどり着けるのかを聞いてきたんんだな。そう、ここを右に曲がって、そしたら次はここを左にっていう具合にね・・・・。不確実なものを確実に、キッチリ進めるタイプの人間だったんだよ。俺たちは互いに補完し合う仲だった。だから上手く行ったのさ」
 
その成果として登場した『トレイド・テスト・トランスミッション』は激しく早い、いかにもかつてのバズコックスな要素にニルヴァーナなど当時シーンを席巻していたグランジの薫り濃厚なヘビー・ロックな味も付け加えていた。シェリー作の‘TTT’、ディグル作の‘エナジー’は活力と生気がみなぎり、一方で‘アイソレーション’や‘パルム・オブ・ユア・ハンド’はかつての70年代末のバズコックスを想起させるテーマ-疎外や自己憐憫―へ思わぬ回帰を示していたりもする。ディグルによれば、曲は自然発生的に生まれ、討議し合いながら音を決めていくことはほとんどなかったという;「悩むことはまずなかった」と彼は言う。「たくさんのツアーをこなし、ショウをやって紛れもなくよりパンクに、強靭になっていた。『シングルズ・ゴーイング・ステディ』の頃のバズコックスではなかった。変化していったんだ。いつまでも20歳のままではいられないし、それを望んだって無理さ。ギターはよりハードになった。当時のシーンを反映させているよ。すごくヘビーで強烈だ。同時に独特な、心惹かれる味わいもあるね」
 
バズコックスはアルバムをプロモートするツアーを始めたが、そんな時、グランジのスーパースターであったニルヴァーナ-カートはバズコックスの大ファンとして有名であった—のサポートを要請されたのであった。バズコックスはすでに北アメリカのツアー日程が固まってしまっていたので、それが終わった後の、1994年2月、ニルヴァーナのヨーロッパ・ツアーに参加することで折り合いがついた。この両バンドの共演は最高の組み合わせの1つとなるのは間違いなかった。しかし同時にカート・コバーン最後のツアーとしても認知されることになる。
 
9日間のツアーは2月4日パリから始まり、2週間後グラノーブルで終了した。ディグルによると、「観客は俺たちの曲を知っていたし、ニルヴァーナは素晴らしかった」という。バズコックスは4月初旬のブリクストン・アカデミーでの数日のショウで再びニルヴァーナと共演する予定であった。しかし4月8日、コバーンがシアトルの自宅で猟銃自殺し、ライヴはキャンセルされてしまった。「カートはブロンド・ヘアーでキリストみたいだと思った」とディグル。「彼の極端なところが好きだった。飛行機に乗るときはいつも別で、まあいろんな問題を抱え込んでいたんだな。UKパンクにはぞっこんで、‘シッティング・ラウンド・アット・ホーム〔バズコックスのサード・アルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』収録曲〕とか‘ハーモニー・イン・マイ・ヘッド’とか、俺の曲も気に入ってくれていた。ステージにテレビを並べて、俺がそのうちの1台を叩き壊す演出をしたんだけど、カートは喜んでいたよ。テレビの壊し方にはコツがあるってことをカートに教えたんだ。-叩き続けながら音がピシって鳴るのを待って、やがて煙が立ち昇るまでの流れをね・・・・。カートは頑なに、苛烈な人生を背負い込んだんだ。ボブ・ディランみたいにね。死んだという報せを聞いた時は辛かったよ」
 
ニルヴァーナと同様、海外のステージをも沸かせたとあるアメリカのパンク・バンドもまた同じ尊敬の念をバズコックスに抱いていた。グリーン・デイの音楽はそのマシンガンの如きギターや快活なノリに、耳にこびりついて離れないメロディー、ドラッグやセックスを題材にした歌詞に到るまで、バズコックスの名曲群を構成する要素を全て併せ持っていた。バズコックスの次作『オール・セット』のエンジニアに選ばれたイギリス人、ニール・キングはグリーン・デイの出世作『ドーキー』のエンジニアでもあり(訳注:先の文章ではプロデューサーになっている。『ドーキー』公式のプロデューサーはロブ・キャヴァロ)、まさにうってつけの人物であった。
 
「そのスタジオはファンタジー・レーベルが〔60年代末に〕クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルで儲けたカネで建てたと思うよ」とディグルは説明している。「アメリカをツアーした直後、2週間のセッションで作った。充実した時間だった。サン・フランシスコの夜は綺麗だった」アルバムは雷鳴がとどろくような‘トータリー・フロム・ザ・ハート’、かぐわしい申し分のないバンド・サウンドに乗せて優しく歌われる‘ホールド・ミー・クローズ’などバズコックス印満載な出来栄えであったが、同時に最新のウェスト・コーストのパンク風味も加味されていた。シェリー作の2曲、‘ユア・ラヴ’と‘ギヴ・イット・トゥ・ミー’は1988年のソロ作『ジップ』の収録曲で、ここではハモンド・オルガン、シンセサイザーにスタジオ・エフェクトなど、耳を惹く実験的な音も聴くことができる。ディグルは後になってアルバムから自作の3曲が外されたことに不満を表しているが(‘テレヴィジョン・ワールド’‘ホールディング・ミー・ダウン’‘エヴリデイ・スカイ’の事。日本盤のボーナス・トラックとなった)、‘バック・ウィズ・ユー’は彼のアコースティックな叙事詩的ロックというべき、アルバムを締めくくるにふさわしい曲となった。
 
「‘バック・ウィズ・ユー’のミドルにあるサイケデリックなキーボードは元々ロバート・クレイのバンドにいた男〔ジム・ピュー〕に弾いてもらったんだけど、上手くいかなかった。で、俺がやるって言うはめになった・・・・。レコードにはいつも、いわゆるパンクっぽくない音を入れていた。ブッカーTのオフィスがファンタジー・スタジオの真上にあって、ブッカーTに、参加していただければありがたいのですがって言ったら『ああ、いいよ!』となった。でも自分のオフィスがあるのに居場所が判らないことで有名な人で、とうとう再会できずじまいさ!それでロバート・クレイのメンバーに頼むことになったのさ」
 
『オール・セット』はマイルス・コープランドが経営するIRS(かつてREMも所属していた)から発表され、イギリスで一定の支持を得たが、それは1996年6月フィンズベリー・パークで行なわれ話題騒然となったセックス・ピストルズの再結成公演の前座を務めた時期でもあった。しかしその1か月後IRSが突然倒産、バンドは所属レーベルを失くし、かつアルバムを販売しプロモートする手段をも失くした。いくばくかの慰めとなったのは、彼らが勇躍ブリット・ポップ界の大立者という地位を得たことであった。この頃ノース・ロンドンに居を定めていたシェリーとディグル、特にディグルはブリット・ポップ界でも有数の飲み助として知られるようになっており、カムデン・タウンのザ・グッド・ミキサーやスプレッド・イーグルの常連であった。ブラーのグラハム・コクソンは飲み仲間であると同時に大のバズコックス・ファンとしても知られていた。「あいつの姉貴は俺たちのレコードをよく買っていた」とスティーヴは語る。「あいつのソロ作品にもバズコックスっぽいのがあるよ。‘ソング2’なんて‘ナッシング・レフト’をちょっとパクってるんじゃないかって思うね・・・・」この時期ディグルはスモール・フェイセズの‘ヒア・カムズ・ザ・ナイス’と‘オータム・ストーン’のレコーディングも行っているが(トニー・バーバーのプロデュースでクレジットには「スティーヴがひと節披露(Steve’s Buzz)」とある)、これはイースト・エンド出身のモッズのサイケデリック時代に対するトリビュート・レコード制作が目的であった。
 
1990年代後半は世界各地をツアーして回り、思いもよらなかった場所や想定外のファンとの接点を持つ機会を得た。顕著な例としてエルトン・ジョンがあげられるであろう。「トニー・ベイカーとラス・ベガスに行った。シーザーズ・パレスに行ってみたかったからね。エルヴィスがプレイした場所だから」とディグルは回想している。「エルトンの関係者から、コンサートに招待されたんだ。終わってからその男から『ご一緒にいかが?』と言われて。つまみ出されると思ったけど、行ってみたのさ。ロウソクと縞柄のカーペットが敷きつめられた場所だった。着いたらとある集まりに連れていかれた。1匹の子犬が現れて、そしたらこう言われた。『エルトンとのご用件、窺っております』いい人だったよ。ピンクのトレーニングウェア姿で1パイントのラガーを飲んでたな。ピートが死んだとき、ステージで声を張り上げて追悼してくれたよ」
 
1998年夏、バンドはスタジオに戻り、『モダン』の制作に着手した。アルバムは新たな冒険心に満ちたものであったが、そのエレクトロニクス・サウンドやドラム・マシーン類の使用はファンから賛否両論を呼んだ。バーネットにあるザ・サージェリーというスタジオでトニー・ベイカーの指揮の元、当時ストラトフォード・マーセナリティズのツアーに参加していたフィル・ベイカー抜きで行なわれた最初のレコーディングとなった。ベイカー不在のこの時期は過激なまでの実験が盛り込まれた。その一方で‘チョイセズ’に代表される‘エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ’を継承したような茶目っ気ある、古くからのバズコックス右派の連中も納得させる曲もあった。かつ重量感ある荒々しい‘ランアラウンド’や‘スピード・オブ・ライフ’は生き生きとした清新さがあった。
 
「俺たちはこう考えた。‘エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ’なんて糞喰らえ、新しいことにチャレンジするんだとね」とディグルは語っている。「ビートルズにザ・フー、ボウイ、皆冒険心を忘れなった。『モダン』と名付けたのは進取の気性という意味を持たせたかったからなんだ。素晴らしいアルバムだよ。本当にそう思う。見事な出来さ!俺たちは‘ボーダム’から長い道のりをたどってきた。スタジオは挑戦の場だった。俺は実験が好きだね。‘ストレンジャ―・イン・タウン’はめちゃくちゃファンキーだし、‘スピード・オブ・ライフ’もいい曲さ。いかにもバズコックスな、ポップな味わいのゴキゲンな曲だからね。たぶんこのアルバムは正当に評価されることはないだろうね!」
 
2000年代に入ってバズコックスのスタジオ作業のペースはさほど目立つことではなかったが減退していった。しかし40代の、見識豊かな、粋な存在でい続けたことは間違いなかった。『ザ・ブラック・アルバム』の呼び名もある、バンド名名義のアルバムは2003年に発表。トニー・バーバーが再びプロデューサーの役を務めた。本作を貫くその重苦しいトーンをまとったパワーある音は刮目に値するが、光輝あるメロディーも健在であった。‘スターズ’と‘レスター・サンズ’の2曲ではバズコックスの初代シンガーであったハワード・デヴォートが共作者としてその名を連ねているが、アルバムの白眉は躍動感にあふれる‘シック・シティ・サムタイムズ’であろう。
 
その後は―ツアーと次のレコード『フラット-パック・フィロソフィー』制作のためクッキング・ヴィニールと契約に―5年の歳月を要した。この時期、それまで遠ざかっていた70年代後期のサウンドに、バンドは直近の2作(訳注:おそらく2011年のセルフ・カバーアルバム『ア・ディファレント・コンピレーション』は含まれていなと思われる)において再び舵を切るようになった。タイトル曲や‘リコンシレイション’‘ゴッド、ホワット・ハヴ・アイ・ドン’のシェリーは絶好調であった。一方のディグルは再び次なる展開を追求することになった。「トニーへの追憶だよ(笑い)。ある種の原点回帰だった」とディグルは説明している。「そんなに意識しての事じゃなかったけどね。けどポップな要素を持たせようとはしたよ。かつてのバズコックスの味わいを再びってことだな。‘ビッグ・ブラザー・ウィールス’は俺なりのクラッシュ・スタイルを狙ったものだし、‘ステイ・フリー’は美しい曲だ。‘ソウル・サバイバー’の方はちょっとボウイとパンクの味付けをしてみた。70年代の黄金期の雰囲気を出そうとしたのさ。当時『トップ・オブ・ザ・ポップス』の常連だったバズコックスを再びってとこだね」
 
『フラット―パック・フィロソフィー』は直ちにファンから好評を持って迎えられたが、8年後の2014年に発表された『ザ・ウェイ』は悲しむべきことに、ピートが参加した最後のアルバムとなったのはご存じのとおりである。『フラット-パック・フィロソフィー』発表前にフィル・ベイカーが脱退しダニー・フェラントと交代、2008年にはクリス・レミントンがトニー・バーバーと交代した。新体制となったバズコックスは清冽にして熟練の技が光るアルバムを完成させたが、本作はプレッジ・ミュージックを仲介し融資を募って制作された。―収録曲の内、シェリー作の‘キープ・オン・ビリーヴィング’やディグル作の‘ピープル・アー・ストレンジ・マシーン’が特に聴きどころであろう。しかし次作の制作は困難になっていた。ディグルが証言している。「ピートは曲を書けなくなっていた。疲れ果てていた。引退してもやっていけるだけのカネを手に入れ、エストニアで余生を送るつもりだったんだ。次のアルバムをつくるのは難しい状況だった」
 
こうして2018年12月、卒然とシェリーは世を去った。心臓発作が原因とみられている。40年を超えるシェリー/ディグルのパートナーシップは終わりを告げた。しかし友の死を受け止め、ディグルはバズコックスの看板を掲げていくことを決意。名だたるゲストを招きロイヤル・アルバート・ホールにて今や不朽のものとなった名曲の数々を歌い、バズコックスの業績を祝った。続く2019年にはピート亡きあと初のツアーを敢行。2020年2月14日にはこの状況を象徴するかのような前向きなタイトル‘ガッタ・ゲット・アウェイ(だんだん良くなるさ)’を冠した新作シングルをバズコックス名義で発表した。
 
「ピートも俺も、カネのために曲を作ったことはないよ」ディグルが結論付ける。「ここに収められた曲は全て、本心から書きたいと思って書いたんだ。俺とピートはバズコックスのメンバーとして一緒にやってきたわけだけど、単純に、仲間でもあったのさ。そりゃ意見の相違はあったさ。バズコックスを『続ける』かどうかってことでも意見は割れた。―俺はいつだってやるべきだって思っていたよ!あいつがいなくて、皆淋しいのさ」
 
ポール・ギルバート、『モジョ』、2020年2月



訳者後記

 本稿は2020年にイギリスで発売されたバズコックスの8枚組CDボックス『SEE YOU EVERYTHING』に付された解説文の全訳である。
 バズコックスというと、(少なくとも我が国日本では)70年代、非ロンドン圏出身のパンク・バンドの中で最大級の商業的成功を収めた存在としては認知されているであろうが、それ以外の、その歌詞も含めた音楽性や89年に再結成されて以降の活動や作品群に関しては、特に再結成以降の彼らの活動に関しては、ほぼ黙殺状態に置かれていると断言してよいであろう。セックス・ピストルズやストラングラーズのようなスキャンダラスな話題や歌詞もなく、クラッシュやジャムのような生真面目なメッセージ性もなく、ルックス面でもいわゆるアイドル性~スター性に乏しいとみなされて、それらでだいぶ損をし続けてきたことは否めない。解散後の各メンバーの活動も、初期のピート・シャリーを除けばパッとしたものではなかったし、ピートにしてからが本国での活動に積極的でなかったことも災いした。再結成以降も、本解説でも触れられているが所属のレコード会社が倒産したり、90年代前半当時人気絶頂にあったニルヴァーナとのツアーもカート・コバーンの自殺によりキャンセルになったりと、順風満帆とはいいがたい環境に置かれてきた。メンバー自身が商業的なことへの関心が薄いことも手伝って、バズコックスの業績は省みられないままになってしまったのである。
 バズコックス自身の音楽性も、いかにもわかりやすい紋切り型なパンクとはいいがたい部分を多分に内包していたことも、その評価や人気に水をさした、ということはいえるかもしれない。先にスキャンダラスかつ、生真面目なメッセージ性云々と述べたが、パンクが登場した時、特にブリティッシュ・パンクに関してはそういったメッセージ性や過去からの断絶を強調することばかりが喧伝され、そこからはみ出した要素を持った、否、むしろそういったはみ出した要素こそが持ち味であった彼らであったからこそ、大きな人気を得ることがなかったと解釈することは可能だろう。
 しかし、それでよしとすることはもちろんすべきではない。バズコックスの、紋切り型なパンクに収まり切れない豊かな音楽性を味わうのはパンクという音楽を理解するうえでも、そしてパンク以降の音楽を検証するうえでも極めて重要な視座を提供してくれるのである。その、紋切り型のパンクに収まらない音楽性が、より露わになっているのが、パンクの色眼鏡を外してみることが容易になったと思しき、パンクの嵐が潰えた(と、かつて小野島大氏が語っておられたと思うが、典拠を示せと言われると困る。確か89年頃の『宝島』での記事であったと記憶しているのだが)89年以降の彼らの活動であり、その作品群であるのだ。本ボックスはそういった意味で、バズコックスの音楽性の多面体かつ、その神髄を味わうには格好のproductsなのである。そして、この作品集の価値をさらに高めているのが、本解説なのである。
 解説では彼らの音楽性・活動ぶり、さらには本ボックスに収録された諸作品の概要が手際よくまとめられ、加えて当事者であるスティーヴ・ディグルの発言が全編にわたって収載されることで、より生々しいドキュメント足りうるものになっている。極めて限られた紙数の中でこの叙述は見事であるし、スティーヴの発言もここでしか読めない一級の資料性を具備している。例えば、アルバム『オール・セット』のレコーディングでブッカー・T・ジョーンズが参加する予定であったとか、ラスベガスでエルトン・ジョンと邂逅したとか、貴重なエピソードが随所に登場する。音楽的な話題についても、『モダン』はこれまでのバズコックスにはない実験的要素を前面に出すことを主眼に置いたことなどをスティーヴ自らが実直に語ってくれているのである。この解説を目当てに、本ボックスを入手する価値は十分にあるといえるであろう。
 ただ、本解説に全く問題がないわけではない。やはりバズコックスの総帥であったピート・シェリーが解説に一切関与していないのは、しかたないとはいえ、やはりつらい。当事者の視点はスティーヴのみである。せめて現在のバズコックスの、スティーヴ以外のメンバーのコメントも欲しかったところである。また、収録曲のデータも、かならずしも精確とはいいがたい。この辺もより細かいリサーチを求めたいところである。
 と、ケチをつけてしまったが、本ボックスの価値が、その音源・解説双方ともに、揺らぐことはない。音楽製品がフィジカル形式ではいまやほぼ絶滅状態にある現在、本ボックスは末永く流通してほしいと思う。
 現在、バズコックスはスティーヴ・ディグルを中心に活動を続け、2022年には新作アルバム『ソニックス・イン・ザ・ソウル』を発表した。そこには個の恋愛や人間関係の苦悩を描く代わりに、21世紀の現代における、個と社会との相克を描く、新しいフェーズに突入したバンドの姿があった。どちらが優れているとか劣っているとかいう議論は意味がない。どちらも優れた意味でのバズコックスである。そして今のバズコックスも十二分に聴かれ、吟味される価値を有すると訳者は信ずる。
 最後にもう一言。本ボックスは一時期日本でも流通したがそこには日本語訳は収録されないまま、現在は廃盤となってしまったようである。日本でのバズコックス人気を思うにつけ、本ボックスの存在がこのまま忘れ去られてしまうことに訳者は危惧し、今回訳出することにした。訳文に関してはできるだけ読みやすいものするよう努めたが、意に足らぬ部分は多々あるし、思わぬ誤訳もしていることと思う。大方の叱正を望むものである。

2023年1月3日 訳者記す