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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(27)

『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』

A DIFFERENT KIND OF TENSION[1]

 

スタジオ・アルバム

録音:1979年、エデン・スタジオ、チズウィック、ロンドン

ミックス:ジェネティック・サウンド、ストレッドリイ

発売日:1979年9月

プロデューサー:マーティン・ラシェント

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

レコード内溝のメッセージ:「チョコレート・ボックスにあしらわれたバラ」(サイド1)そして「バラに生えた棘」(サイド2)

 

レコーディングの経緯について、いろいろと伺いたいんですが?

 

79年の夏だった。レコーディングには数週間かかった。マーティン・ラシェントの家でミックスをした。彼は自宅の離れにミキシング・デスクを備えてたんだ。まだその頃はジェネティックと呼ばれるようになるスタジオは建設してなかった。機材が置いてあるスタジオ用の部屋、その隣にはギターやヴォーカルをオーバーダブするための小部屋があった。エデンでオーバー・ダブは殆んどやらなかった。

 レコーディング方法を全く変えることにした。すごく過激だったな。ある日の午後僕らはスタジオに入り、その日は納得が得られるまでぶっ通しでくりかえし演奏を続けた。マーティンはそれをマルチ・トラックのテープに僕らが納得できる形に編集して落とし込む。二台の24トラック・レコーダーが使われて、コピーしたテープが出来上がる。そこに4,5種類のヴァースが選ばれて収録されている。翌日にその4,5種類のヴァースと、これでいいと加えたたくさんのコーラスの入ったテープ・コピーを聴きながら、細かく、断片断片を、マーティンが編集していくんだ。今では皆がコンピュータでやっているのと殆んど同じことを手作業でやったんだ。コラージュ作品をつくってるようなものだったね。これが終わってから、スティーヴと僕とで納得いくまでギターに細かい断片、ヴォーカルを加えていく。だからレコーディングの最期のときまでバンド全員が常に顔を揃えることはなかったね。

 伝統的なレコーディングじゃなかった。継ぎはぎするやり方で、以前より統制が取れていた。部分部分が上手く演奏できていればいいわけさ。マーティンがこの中から一番良い内容の演奏を選んでつなぎ合わせてベストのテイクを作ってくれたからね。マルチ・トラックを使うことで、そういった細かい作業が可能になった。聴いてる方は判らないよ。そんな細かい細工がされ、テープが切り刻まれてるなんてね。でもマスターのテープは滞りなく聴こえ、細工の跡はみられないよね。まさしくこれが上手い編集というわけだね。[2]つまり前の二枚のアルバムとは制作方法が変わったのさ。マーティンのここでの手法はヒューマン・リーグや僕のソロ・アルバム『XL-1』に行かされることになるんだ。

 今のレコード・プロデューサーはテクノロジーを駆使してるよ。例えばドラムを録音するとしようか。ある音が納得できないとなったら、プログラムを使ってドラムのビートを上手くはめ込むことができるんだ。ちょっとくらい音が外れていてもそうは聴こえないようにできる。実に微妙なサジ加減なんだけど、これって重大なことだよ。ほんの少しの音が他の音にものすごい影響を与えるもんなんだから・・・・。ここは上手いなあなんて聴いてた箇所が実は間違えてたのを細工してたりとかね。つまりさ、音楽は単にマイクをセットし、「レコード」をプレスするだけじゃない。たくさんの行程を経ているんだ。本来の音ではないんだ。加工され、整えられた音なんだ。―でもそれが普段皆が聴いてる音楽なんだよね。(訳注:ここのドラムの録り方への言及は「リップスティック」にもみられる。興味深いのは「リップスティック」ではこうした音の加工を批判的に話していたピートが、本章では肯定的に語っていることである)

 

アルバム・タイトルはどうやって付けたんです?(訳注:『ラヴ・バイツ』のタイトルを付けた理由は、聞かれなかったようである)

 

『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション(訳注:別の緊張)』、このフレーズはジョン・サヴェージが書いた『ラヴ・バイツ』の書評から取ったんだ。アルバム両面には別称が付けられた。サイド1は「The Rose on the Chocolate Box チョコレート・ボックスにあしらわれたバラ」で、サイド2は「The Thorn Beneath the Rose バラに生えた棘」これはジョン・サヴェージの言葉だった。いや、ポール・モーレイだったかな?まあどっちかさ。

 

レコーディング中はどこで寝泊まりしてたんです?

 

ベイカー・ストリート近くの、公営アパートだったね。

 

当時のライヴ活動はどんな感じでした?

 

ジョイ・ディヴィジョンをサポートにしてツアーをした。連中がアルバムを出してすぐ後に「僕らのツアーに同行しないか」って声をかけたんだ。ツアーには気心の知れたのを連れて行きたかったんだ。

 

イアン・カーティスの死はショックでしたね。

 

僕らは彼らに目をかけてきた。順調にいってたのに,吹っ飛んじまったよ。全くね。

 

当時の住まいは?

 

まだフランシス、キャロル、フランとゴードンと共同生活をしてたと思う。

 

アルバムで使ったギターは?

 

またゴードン・スミスに戻したんじゃなかったかな。『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』で使ったのとはちがうヤツさ。前のはリバプール大学で盗まれちゃったんだ。№58ってナンバリングされてた。その後マンチェスターにあるA1っていう店で買ったセコハンの、№53っていうヤツを使った。今でもどっかにあるよ。このギターも特注あつらえだったね。

 

ギターは何本あるんですか?

 

何本だろう。数えたこともない。ギター・テクのリック〔・ヘンリー〕が管理してくれてるんでね。ライヴのときに彼が、ギターどれにするって聞いてくるんで、「黒いヤツ」って答えるんだ。―何だかじゃじゃ馬をあやすようだけど。

 ここ何年かはエピフォンを使ってる。ギブソンが製造してる一番安いギターだよ。100ポンドだったんじゃないかい。でもいざという時大急ぎで手に取ったりとか乱暴に弾いた時でもチューニングは狂わない。アンコールでも大抵バッチリだよ。けどスティーヴは高いギターを使うんだよ。リッケンバッカーは見てくれは良いがチューニングが安定しないんだ。だから二、三曲でギターを代える破目になるのさ。

 僕はいわゆるギター野郎じゃない。けど人っていうのは扱い易いモノを使うものさ。僕が求めるのは丈夫で使い勝手の良いギターなんだ。持ち運びにしっくりくるヤツだね。「これは個人的意見だ。宣伝ではない!」

 

スリーヴのアイデアはどこから?

 

おもての写真はジル・ファマノヴスキィが撮った。ウォータールー橋じゃなかったかな。インナーの写真は僕ら自身が撮った中から選んだ。スティーヴのヤツは恋人のジュディスが撮ったものだね。

 

スリーヴの、その明るい色具合に幾何学模様は、内容とはずいぶんかけ離れてますね。

 

その対照的なところがよかったんだよ。楽天的な要素と「もう地獄だぜおい?」っていう。音楽でもそういう、両者が共存してるのが好きなのさ。ハッピーな歌でもその裏には最高に鬱(うつ)な、手首を切り裂いてやる、というような。

 

本作を『DON’T WORRY,IT’S ONLY THE THIRD ALBUM 気にするな、たかがサード・アルバムだ』とするつもりだったとか?

 

そのつもりはなかった。あれは背表紙に印刷された単なるセリフなんだ。世の中にはそそのかしたりとか、挑発したりとか、そんなことにあふれてる。もちろん背表紙なんて単に店に並べば眺めるだけなんだけど。

 スリーヴには片方のチャンネルでは僕がギターを弾き、もう片方ではスティーヴが、という記述がある。これが誰のアイデアか、そのメリットが誰にあったのかは憶えてないけど、誰がどう弾いてるのかは判るね。一方のスピーカーからは僕のギターが、片方のからはスティーヴが、ってね。

 

『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』の30周年には、『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』や『ラヴ・バイツ』のようなツアーは組まれなかったんですか?

 

『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』と『ラヴ・バイツ』のツアーは予定を延長して続いた。アルバムも再発された。けど『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』はフィジカルの形では再発の予定がなくて、ツアーは実現されなかったんだ。アルバムは配信という形でのみの予定だったんだ(訳注:結局、こちらもフィジカル形式で発売された)。

 

サイド1

 

パラダイス

Paradise

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲では何か憶えてますか?

 

初期だね。1973年の9月だよ。土曜の朝だった。その日は二曲つくった。もう一曲は「Maxine」で、ソロ・アルバムに入れた。実家にいて両親は買い物に出ていて、二人が午後に帰ってきたときには二曲とも出来上がっていた。

 演奏は簡潔だけど、一風変わったコード進行なんだ。―演奏するときは目を凝らして見ていなくちゃいけないよ。ソロのときにEのコードを、そのまま抑えているポジションを上に移動させる。―ごく普通の開放弦を使ったEのスリーフィンガーだよ。指は同じ形のまま、上にずらしていき、元に戻す・・・・。端的に読者に伝えるんなら、演奏が単純な割には難しく聴こえると書けばいい。(訳注:おそらくこのときのインタヴューでは、ピートはギターを持って実演して見せたのであろう)

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとロキシー・ミュージックに傾倒していた時期だ。当時曲作りに影響を受けた二大バンドだね。ブライアン・フェリーのような魅惑的な低音ヴォイスは聴いたことがないし、彼の書く小粋なメロディ・センスも好きだね。ロキシー・ミュージックのセカンド・アルバム『FOR YOUR PLEASURE』に入ってる「Editions of You」のようなね。

 どんな風に仕上がったかはよく憶えてないけどいい出来映えだし、オープニングにピッタリさ。

 

ナイフを使った犯罪防止が目的のチャリティ・シングルに参加していることを誰も知らないなんて、私には驚きなんですが。

 

「knife-fight on Saturday night土曜の夜に刃物沙汰」のフレーズはエルトン・ジョンの「Saturday night’s alright for fighting 土曜の夜は殺り合うにはうってつけ」という一節に影響されたんだろうね。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを思い起こすよ。

 

それから2012年の「バック・トゥ・フロント」ショウでこの曲をスティーヴ・ガーヴェイやジョン・マーと一緒に演ったときはどうでしたか?

 

とても楽しかったよ。一緒に演りたい連中と演れたんだからね。二人が辞めたのは個人的なことであって、それはバンド活動より大事なことだったんだ。音楽が楽しくなくなったわけじゃないんだ。ジョンは相変わらず見事だった。スティーヴ・ガーヴェイとは過去何度か一緒に演ったことがある。[3]ソロ・アルバム『HOMOSAPIEN』発表に合わせた「Man and Machines」ツアーに参加してもらった。[4]バズコックス解散の三か月後だった。ガーヴェイはアメリカに移住して、1989年の再結成のときにも参加してもらって、1992年にトニー・ベイカーが加入するまでいてもらった。ジョン・マーは再結成後のオリジナル・メンバーでのツアーの後(訳注:厳密にはオリジナル・メンバーではない)、マイク・ジョイスが脱けた後に再加入して、オーストラリアと日本ツアーに同行してもらった。

 

シッティング・ラウンド・アット・ホーム

Sitting Round at Home

 

ソングライター:スティーヴ・ディグル

 

このアルバムに収録されたスティーヴの曲には、どんな思いがありますか?

 

そうだね、楽しめたし、僕自身貢献できたと思うね。サイド2は5つでひとまとまりになるドラマにしてみたかった。だからサイド1にスティーヴの曲をまとめたんだ。それが公正だと思ったしね。

 

この曲はツアーに出ていないときの日常、ズボンを履いて、昼のニュースを見ながら朝食をパクつく、そんな日常を、といったところでしょうか?

 

スティーヴの日常だよ。君が言ってるのはITVの『一時のニュース』で、BBCのじゃないね![5]

 

ユー・セイ・ユー・ドント・ラヴ・ミー

 

190ページ、参照。

 

ユー・ノウ・ユー・キャント・ヘルプ・イット

You know You Can’t Help It

 

ソングライター:スティーヴ・ディグル

 

十代のときこの曲が大好きで。気取らず真っ正直でまっすぐ。ある意味ユーモラスで真っ当な、愛についての定義付けですね。

 

そう、これがスティーヴだよ。気取らず真っ正直でまっすぐで。彼の曲は大体が自叙伝的なんだよね。このアルバムに入ってる彼の曲を聴けば、彼の人となりがよく理解できるよ。

 

ネットの歌詞サイトを見ると、「彼女の全てを考えずにいられない」とすべきところを、「彼女の全てを喰わずにいられない」となってます。

 

歌詞を載せた連中の耳掃除をすべきだね。まるでジミ・ヘンみたいだ。「この男にキスする間失礼するよ」っていう感じだよ。歌詞の聴き取り間違いって、オリジナルより後の方が大体は良くなるんだけどね。

 

マッド・マッド・ジュディ

Mad Mad Judy

 

ソングライター:スティーヴ・ディグル

 

この曲については?

 

恋人ジュディスのことなんだろうなって僕も思ったね。『日陰者ジュードJude the Obscure』(訳注:トーマス・ハーディの小説)は彼のお気に入りなんだ。歌詞にこうあるだろう。「残ったものは何もない/この世では」これって疎んじられるってことだろ?

 トーマス・ハーディにも『マッド・ジュディ』という詩があるね。スティーヴがОレベルを取るために『日陰者ジュード』かトーマス・ハーディの詩を読み込んだ可能性はあるね。

 

エンディングの語り、あれは?

 

レコーディングした時には、エンディング部分がどれ位の長さにするべきか判断ができなかったんだけど、スティーヴはどんどん歌い続けてその内にアドリブになり、とうとうテープの終わりまでアドリブを続けてた。

 

あれから彼は北部訛りを使わなくなりましたよね?

 

ああそうだね。まるっきりね。YouTubeに1979年ボストンでのインタヴューがアップされてるんだけど、スティーヴはまんま北部訛りで「ああ、絶対にEe hauth gum」って言ってるよ。今の彼はアメリカンなロックンロール、そうちょうどキース・リチャーズ的なアクセントを身に着けてるね。

 最近、「マッド・マッド・ジュディ」を演ったけど、他のメンツは演りたがらなかった。スティーヴが自分の曲よりも「定番曲」を演りたがるしね。

 

レゾン・デートル

 

193ページ、参照。

 

サイド2

 

サイド2はサイド1とは大いに様相が異なります。とても暗く、大半の曲は不機嫌です。バズコックスの新しい方向性を打ち出したと思うんです。

 

サイド2は「エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ」のようなアッパーでメリハリの効いた、ポップなバズコックスからの脱却を試みているんだ。サイド1はポップな感じだけど、サイド2はちょっと異質だね。

 セミ・コンセプト・アルバムだったんだ。コンセプチュアル的なのはサイド2だね。ひとつの旅なんだ。引き裂かれ、争い、矛盾している。とても混乱し、そう、ワーグナー的だ。おそろしく重く、そして峻厳だ。こういう試みは好きだね。

 

サイド2はまだ若い十代のときに聴くのはすごく辛いものがありました。もう苦しくて、殆んどトラウマ的になる内容でしたし。

 

「保護者同伴」のステッカーを貼った方がいいかもしれないな!パンドラの箱のようなものだね。でもそれが当時の僕の精神状態だったんだ。

 

当時の評論の中には、先の二枚に比べて『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』はよりまとまりがあるとみなしたものがありました。[6]

 

順番に聴いていくと、つながりが見えてくるってこと?そういう解釈なら正しいよ。サイド2では互いに曲がつながり合っているんだ。スティーヴ・ガーヴェイはサイド2を、サイド1以上に統一感があると言っていたけど、まさにその通りさ。サイド2はビートルズの『アビイ・ロード』のB面と同じ意図が込められているんだ。ポール・マッカートニーはあのアルバムのサイド2、その最終部分を丸々一曲にしようとした。曲が途切れることなく引き継がれていく。一つの組曲なんだ。同じことを『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』で目指したわけさ。

 

アイ・ドント・ノウ・ホワット・トゥ・ドゥ・ウィズ・マイ・ライフ

I Don’t Know What to Do with My Life

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲はいつ、どこで?

 

『スーパーマンSuperman』の映画を観た帰りだったと思う。1978年。昼の時間帯だった。

 

曲のアイデアはよく夜外にいるときとか、映画館の中とかで浮かぶんじゃないですか?

 

どうなのかね、断定できないけどね。―けどゴートン時代に帰省のバスから降りて歩いているときによく曲が出来たりしたっけ。一定のリズムで歩いているときちょっとひらめいたりする。そうなると曲が固まっていくんだ。当時はiPodとかウォークマンとかない時代だったけど。

 頭の中でしっかりと音楽は鳴らせるもんさ。曲だって頭の中で書ける。問題なんかないよ。難しい所はバンドの皆と解決するさ!

 ウォークマンは少し後になって手にいれた。1980年だったと思う。僕のはストワウェイstowaway製でウォークマンという名は付いてなかった。レンガ並にデカくてさ。100ポンドもしたんだぜ!当時としては大金さ。けどそれまでは外で音楽を聴くにはゴツくてもっとデカいラジカセをしょっていかなきゃならなかったんだから、これだけでも革命的だった。

 

当時すごく混乱し葛藤してたんだって曲から伺えます。

 

曲の内容そのままさ。「僕の人生どうしていいか判らない」でもかならずしも自伝的というわけではないんだ。そう、報われない状態を歌ってはいるけどね。自殺したいとは思わない。あきらめだね。曲の通りなんだ。「僕は、存分に得ているんだろうねー愛を」

 

愛されてましたよ。たくさんのファンから。

 

こびへつらいというものは、自分の人生に何もプラスにならない。へつらいにはウンザリだ。「皆」つまりファンの情熱なんて本物の感情ではないんだ。一時的な薄っぺらなもんさ。「戸口でグラスに顔を付けている」[7]んだ。実に孤独だよ。

 

マネー

Money

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲についてはどうでしょう?

 

カネには誰もが関心を寄せるだろう。だから曲の中に登場させなくても語れると踏んだわけさ。「カネMoney」というタイトルの曲、カネにまつわる曲はたくさんあるけどね。ビートルズが演ったヤツとか、アバの「Money,Money,Money」とか。僕の書いた「マネー」はカネを直接のテーマにしてはいない。けど何で皆聞いてこないんだろう。歌詞に登場しないモノをタイトルにするのは好きさ。『ガラスの中のアリスAlice’s Adventures Through the Looking Glass』でホワイト・ナイト(訳注:ピートはホワイト・ナイトを女性(her)として語っている)が歌う「Ways and Means」(訳注:「方法と手段」)だけど、歌詞には方法waysとか手段meansとかいった言葉は出てこない。この曲は専ら「A-Sitting a Gate」(訳注:門のところに座って)というタイトルで知られてるね。こういうヒネくれたタイトルのつけ方は好きだな。もう一つ、モンキーズの「alternative title」(訳注:「別名」)、これも専ら「Randy Scouse Git」(訳注:「間抜けのランディ・スコウズ」)ってタイトルで知られてるけど、タイトルの言葉が歌詞には全く出てこないんだ。

 

突然大金を手に入れて、気分良かったことは?

 

全くないね。まさしく「Life is a Zoo人生は動物(オリ)園(の中)」だよ。まあ喰うには困らなくはなるよ。「マネー」は人の心をもてあそぶものをテーマにしてるんだ。

 

ワナにハメられたという感情を歌っているように聴けます。

 

孤立、疎外、隔離されることを歌っているんだ。「人生は動物(オリ)園(の中)」の如しさ。僕らは柵で仕切られ、隔離されているんだ。

 

「動物園」のフレーズは、ゴートン時代の日常と、近所のベル・ヴュー動物園を結び付けてというのは?

 

いや、ベル・ヴューに行ったことはないよ。信じられないかもしれないけど。行く気にもならなかった。気味の悪い所だと思い込んでたし。

 

カネとか物質的なものとかにはさほど関心がなかったわけですね。

 

バンドをやる一番の理由がそれだったことは一度もない。バンドを続けた結果、その問題が付いてきたということなんだ。僕は基本的にはずっと慎ましやかな暮らしを五十年代六十年代を通じて続けてきた。子供の頃身の回りの物は殆んど分割払いだった。「手持ちの物は修繕して」使ってたんだ。

 若い時分に勧められて銀行口座を開いた。トラスティ・セイヴィング・バンクthe Trustee Saving Bank。郵便局にも口座を作って証券を持っておくことにした。余計な出費はしないようにしているよ。図書館や画廊、美術館を利用するようにしてね。あと、本屋で立ち読みとかさ。

 十代のときに新聞配達のバイトをして得たカネで両親にステレオを分割払いで買ってあげたんだ。レコードプレイヤーとカセットデッキが一緒になったヤツだったんだけど、なんかゴツい家具みたいな、付属のマニュアル通りの代物じゃなかったな。曇りガラスのカバーが付いていて、台座の上に本体が乗っていた。僕がつき合ってた連中は音楽の好みも一緒で、よくレコードを一晩借りてはカセットにダビングした。そうやってコレクションを増やしていったんだ。レーには中古のレコード屋があって、店の人と仲良くなってね。その店オススメのアルバムを家に持ち帰ってダビングし、その日のうちに店に返しに行った。そうすれば50ペンス割り引いてもらえた(当時はたぶんアルバム一枚で1ポンドだった)。てんでカネなんてなかったのにたくさんのレコードが聴けたわけだけど、そういう環境にいなかったら、ここまで音楽に入れ込むことはなかっただろうね。

 譜面もよく買ってたけど、だんだんと自分でも曲を書くようになっていったんだ。

 

じゃあ初見ができたと?

 

まともには読めないよ。象形文字を解読するように読んでるっていうか。ピラミッドを建てられる域には達してないぜ!コード進行のこととかざっとした部分は判るけど、ちゃんとした訓練は受けてないんだ。譜面に起こすなんてできない。曲作りに譜面なんて使ったことはないよ。作曲で学んだことだって書き留めるなんてしたこともない。コード進行をメモることはあるけどね。コードの専門的なことは考えたことはないし判ってもいないさ。―ギターを手にすればコトは済むしね。

 耳はいいと思うけどね。BBCのウェブサイトには自分の音楽的資質をテストできるメニューがある。音感とかリズム感とかがわかるんだ。僕は予想を超えて最高点を叩き出したよ。けど音楽を楽しんでる項目では50%を下回る点数だった。

 たまに、音楽を心底好きなわけじゃないんだなって思う!職業柄どうしたってシビアにならざるを得ないけど。まあ嗜好のピッタリ合う人なんて、なかなか見つからないけどさ。例えばかつて周りでヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いてる若造は僕だけだったしラモーンズを聴いてたのは僕とハワードだけだったけど、今じゃどっちもすごく有名になっちゃって、それ好きなんですって言ったところでススンでるなんて誰も言わないよね。パンクは皆のお尋ね者だったのさ。「おお、これイケてんじゃん」て誰もが思うようになるまではね。今や皆に愛される存在になった!市民権を得たね。けど音楽だっていろいろある。好きになれない音楽だってあまたある。それでいいのさ。だから僕の創る音楽はフィル・コリンズやコールドプレイに似てなくたっていいんだよ!僕が好きな曲はすでにこの世にあるわけだから。わざわざ僕がそれを再現しなくてもいいわけさ。

 たくさんの音楽に接して耳が鍛えられたよ。ギターのイロハはバスの中で身に着けていった。ニール・ヤングの「Heat of Gold」を聴いてコード進行の何たるかを学んだし(自分の頭の中で曲を鳴らしてたのさ。だって当時はウォークマンなんてなかったんだから)。完璧な音感は必要じゃないけどフレーズどうしの繋がりとかコードの「響き」とかを知るためにはある程度の音の高低は判っておいた方がいい。コードはいわば指紋のようなものだね。例えば単音である音を聴いたとしても、それがどの高さの音なのか僕には判らない。でもコードの音なら識別はできる。ギターのいいところは自分の求めるコードが判るってことだね。一つのコードが判れば次のコードも判別できるからね。

 

譜面はとってあるんですか?

 

今でも持ってるのはビートルズの『WHITE ALBUM』のヤツだけだね。

 

ホロウ・インサイド

Hollow Inside

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲も、ちょっと暗いですね・・・・。

 

どの曲も書かれた時期は違うけどアルバムの中で組み合わせて一つのストーリーにしようと思ったんだ。「アイ・ドント・ノウ・ホワット・トゥ・ドゥ・イン・マイ・ライフ」に始まって「マネー」の疎外感に連なり、次に「ホロウ・インサイド」の虚無感へ。そして「アイ・ビリーヴ」に収斂されるんだ。

 「ホロウ・インサイド」はエゴで破滅するさまを歌っている。相当にブットんでるよね。横ノリが続く演奏に歌詞はシンプル。テーマとなる言葉が交互に現れ続けながら変調していく。そうだね暗いね。今の僕はずっと楽天的だけど。

 当時はこのまま続けて行っていいのか悩んでいたんだ。パンクは最も非商業主義的音楽だと思っていたのが「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」のヒットでそうは言っていられなくなった。僕らは新聞のゴシップ欄に登場する身の上となった。全然憶えのないことなのに。

 ガラリと変わったね。いったん有名になると周りの連中は有象無象ばかりになる。奴らは相手の成功のオコボレにあずかりたいだけさ。相手のやってることなんかどうでもいい、ただその時オイシイ思いができればいいんだ。ベートーヴェンが去り際に言った「私は芸術家であって、おまえの下僕ではない」という言葉。まさにそんな心境だったよ。『アマデウスAmadeus』の映画でも、貴族達がミュージシャン〔モーツァルト〕をまるでチンパンジーかなにかだと蔑む場面があるだろう。

 アーティストはエンターテイナーというより、もっと高貴な存在だと思う。僕のやっていることはエンターテインメントではあるけれども、いわゆる下衆な人間には墜したくはないし、そうみられることを正していきたいね。

 『ラヴ・バイツ』から『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』に到る間、バンドを辞めるなと言われ続けるようになっていた。もうまったく楽しめなくなっていたんだよ。ときめきなんてどっかに消え去ってしまっていた。ピンク・フロイドが『THE WALL』で描いた狂ったポップ・スターのようだったし、デヴィッド・エセックスの映画『スターダストStardust』に出てくる疲れ果てたポップ・スターのようでもあった。全てが絵空事になっていった。お客様はカミサマ、もうけがなんぼ。一触即発だったよ。

 バンドにいればドラッグは常に手に入り放題だ。まるでアレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズが出てくるドキュメンタリーのようだね。[8] バロウズはあそこで見事な発言をしているよ。「若かった頃は一晩中起きていて、ドラッグをやっていた。ゴキゲンだった。得たものは殆んど皆無だったがね」

 

それで解散後は一度もバンドをつくらなかったんですか?後々再結成して、今に到るまでツアーをしてますが。

 

ああ、そうさ。皆年齢を重ね、二十代になり、生活にもまれ、たくさんの問題を抱え込むようになる。そして問題はますますこじれて。周りの奴らはささやき続けるのさ。おまえは全能だ。もっとやれるって。

 

当時、死にたいとは?

 

あったね。僕の十代は「自殺願望病」に取りつかれていたのさ。悩み、内省を経て克服していく。これが創作意欲につながったと思うね。アリストテレスじゃなかったかい?「仕合せな豚であるより、悩める人であれ」って。

 

バンドを辞めてスッキリしましたか?それともバンドへの思いを引きづっていたとか?

 

肩の荷が下りた気分だった。自分自身を崖っぷちに追い込んで苦しんでいた。ソロ活動は順調だったよ。曲の多くはバズコックス結成前からあったものだった。「ピート・シェリーのバズコックス」を続けていかなきゃって苦痛に苛まれることはなかった。そう、自分らしくいられるようになったんだ。『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンションⅡ』とかそういう類の作品をつくる必要がなくなったんだから良かったよ。

 

ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション

A Different Kind of Tension

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

これは、たくさんの思いが複雑に絡まった曲ですね。

 

ウィリアム・バロウズに感謝だね。彼がアメリカ六十年代後半の文芸雑誌『ジョイJoy』のインタヴューに答えたものがある。連載ものでサイエントロジーScientology[9] とか自分のドラッグ問題とか毎回異なったテーマで行なわれたものだった。ここで重要なのは、彼が反作用的心性the neactive mind[10] に言及している部分だった。基本的にはサイエントロジーの一種なんだ。「監視」されている状態になるのなら、E-メータE-meter[11]という名称になる。それはウソ発見器の類いのもので、手に細い筒みたいな缶を握るんだ。缶は洗浄されて何も貼られていないし、何も入っていない状態だ。信用できるのかね!ヘッドホンを装着してとある単語を聞き取るか、片方の耳で相反する単語を聞かされる。それからもう片方の耳で、という作業だよ。この目的は心の中にしまい込んでいる過去の記憶を呼び覚まして、心を開放することにある。人は誰もが不死の魂immoral Thitansを持っていて、古(いにしえ)の時から現在に到るまで魂は受け継がれていくんだとさ。大体僕は人を支配して気持ちを皆で分かち合おうなんてしているつもりはなかった。そんなのバカげていると思っていたし。バロウズの発言から自分の曲のために引用しただけさ。ヘッドホンで聴いてみれば片方の耳に、サイエントロジーの創始者だったL・ロン・ハバードがやったような、一つの単語での呼びかけが聞こえてくる仕掛けになっているということとかね。

 

アルバムに合わせたツアーでこの曲は演奏されたんですか?ステージにかけるにはちょっと演り辛かったんじゃ。

 

ああ、そうだよ、演ったんだよ!僕とスティーヴはキチンと歩調を合わせて号令をかけた。ボードにたくさんの言葉を列挙してね。ツアーのスタッフに頼んで、モニターにボードを映し出してもらった。僕ら二人はモニターに映った言語なり号令なりを読み上げた。けっこうレコード通りに演れたよ。

 

アイ・ビリーヴ

I Believe

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

この曲にはたくさんのテーマが込められていますね。

 

相対立する思考や自分が信じられるものを挙げている。でもそれは自分が現時点で信じているものであって、他人から信じなさいと指図されてのことではない。僕らがこの世に生きて、能動的にかかわっていくもの、僕ら自身の意志で構築していくべきものを扱っているんだ。

 「ホワット・ドゥ・ユー・ノウ?」でも歌っていることなんだけど、「必要なのは信じることのできるもの、これから信じることのできるもの」なんだ。信じるという、人間性が持っている不可思議さ、そして人間が何かを信じるとき、たぶん理屈で図れないことに突き動かされていることの不可思議さを扱っているんだ。歌詞にあるように、「僕は労働者の革命を信じる/そして最後には解決することを信じる」ことなんだ。信じるのはそれをしている物事そのものその成果ではないんだ。それを成そうとする人間を信じるんだ。でも大概の人は人間を信じようとしないんだ。

 歌詞ではこうなっている。「僕は無原罪懐胎the immaculate conceptionを信じる/そして復活the resurrectionを信じる」-僕は「復活」を「勃起erection」と聴こえるように努めたんだけどね!

 たくさんの人があの曲から多くを読みとろうとしてきた。一人の女性がある日のライヴに娘さんを連れてきた。ライヴが終わって娘さんとちょっと話をしたんだけど、何日かして娘さんから手紙をもらった。「私はかなわぬことを信じます。私はママとパパを信じます」それは両親が離婚するという内容だった。

 さらに手紙にはこうあった。「私は人の絆を信じます/もう手遅れなんだともわかっています/ですから家を出るつもりです/それでも私は信じているんです」ソングライターとして、言葉の意味するところを、言葉の連なりがもたらすことの意義を、深く噛みしめるべきところだね。

 歌詞は、こう続く。「この世界には、もう、愛は存在しない」さて、これについての解釈は、人によってさまざまだ。悲痛な叫びさ。もっともらしく説明するとね、これは愛というものが、いかにして人の心に芽生えるかを歌ったものだということさ。そもそも愛は存在しないものなんだ。見える形では存在しないんだ。人の心の中にだけ存在するものなんだ。それは完全に心のありようなんだ。

 

十代の私は愛なんて言う言葉は、女性向けの雑誌を売る連中の常套句だと思ってました。

 

うん、ある意味現状そうなんだよね。

 

でもオキシトシンの働きを知ってからは、それは違うなと。

 

そうだね。けどそれこそドラッグじゃないのかい?人体そのものがドラッグを生成していて、心とも連動しているんだから。

 

愛には力はないと、なら、人々が結集するときの力とは何でしょう?

 

「恋愛の微粒子the love particle」を発見したって言ってた物理学者がいたけど、そんなもんウソだ!この世の中は人間同士の関わりから成り立ってるんだ。人間は他の人間がいなけりゃ生きていけない。人間同士が折り合っていかなければ世の中はオシマイさ。完全無欠なモノなんて存在しないさ。互いにみんなで支え合っているんだ。

 

ずいぶん熱心に量子物理学を勉強してるとか・・・・。

 

そう、『ホライズンHorizon』[12] はマメにチェックしてるよ。あとは『トゥモローズ・ワールドTomorrow’s World』[13] も。

 

信仰心はあったんですか?BBCの『核心Brass Tacks』が1977年にパンク特集を組んだとき、自分はクリスチャンだと発言してましたね。

 

ハッキリとは憶えてないね。確かにイギリス国教会が管轄する小学校に通ったし、教会にも通った。国教会の司祭とは口論もしたし・・・・エホバの商人のことではみんな議論をふっかけたことはあるだろ。哲学的な問題さ。でもその類いの学校に通ってなかった子たちの知らない、聖書にまつわることはたくさん知ることができた(ロトの妻が塩の柱になった、とかソドムの家にいた奴らがロトに「男たちと外へ。さすれば我ら汝ら彼の者どもとよしみを通じようぞ!」とけしかける話とかさ)。あれは一種の哲学なのさ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

アルバム制作のこの頃は、相当量のアシッドをキメてましたよね。この時期は宗教的なものへの傾倒を始めたのではと。

 

宗教にはそんなには。むしろ現実問題の方に興味があったね。仏教はちょっといいなとは思ったよ。

 

ホントに暗い曲ですもんね。

 

こんなにすさんで救いなしの曲を皆がライヴじゃ一緒に歌ってくれるんだからね。殆んど信じられない光景さ。『叫びThe Scream』(訳注:ムンクの絵画)のようだよ。

 

歌詞に出てくる「三角形が表紙の本」というのは?

 

アルバム・カバーのスリーヴ・デザインに取り入れた三角形のことだね。

 

ではマルコムは、アルバム・スリーヴをデザインする前に曲を聴いたと?

 

聴いてないと思うけど、スリーヴに三角形の図形を用いた理由はわかるよ。つまり三つの「原初的な」図形の一つを三角形が意味している、ということなんだ。この概念は元々、モダニズムmodernismを提唱したバウハウスthe bauhausが考案したものなんだけど、残りの二つは『アナザー・ミュージック』での四角形、『ラヴ・バイツ』での丸形なんだ。歌詞はスリーヴの図形のことを指しているんだ。後に出た『シングルズ・ゴーイング・ステディ』の長方形と『メニ-・パーツ』〔『パート1-3』の全曲を含む編集盤〕の卵形は原初的な三つの図形の、次の段階を意味するものだったわけなんだ。

 これはロキシー・ミュージックの「mother of pearl」の歌詞にも対応している。あの曲ではこんなくだりがある。「少女の経歴は隠されていた/素顔をさらし/次に進む」これは「三角形の表紙が、外の景色を隠す」の一節と親和的なリズムを持っているね。

 

ライヴでは、メンバーが一人ずつステージを去っていきますが誰のアイデアだったんですか?

 

あれはね、歌い終えたとき、もうステージにいる必然性はないって思ったんだよ。そしたらスティーヴがジミ・ヘンみたいにギターを床に叩きつけて粉々にしてね。それが発展してああなったというのが真相なんだ。

 

なんだかハイドンの交響曲『告別Farewell』[14]を思わせませんか?どこからあんな着想を得たんですか?それとも偶然ですか?

 

冗談抜きで自然にああなったのさ。ライヴでフェイド・アウトしていくって難しいよ!其れで観客に、一緒に歌ってもらうようになったんだね。

 

1989年、セントラルTⅤの収録は『Live Legends』用でしたか?

 

そうだね。再結成ツアー中のときだった。

 

アメリカではシングル発売されたんですか?[15]

 

『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』は、『シングルズ・ゴーイング・ステディ』は別にしてアメリカで最初にリリースしたアルバムだった。この二枚はたまたま時期が重なったんだ。

 

あれがアメリカで唯一リリースしたシングルでしたか?

 

そうだね。『パート1-3』は12インチでリリースされたからね。

 

シングルにするには妙な選曲じゃないでしょうか。まだバズコックスはアメリカでは馴染みがなかったわけですし。他のシングル曲のような人気は現に取れなかったわけでしょう。

 

まあライヴでは受けたけどね。客は気に入ってくれたし。新しく市場に打って出ようというときは、かならずしもレコードをたくさん売らなきゃならないということにはならないよ。

 

レディオ・ナイン

Radio Nine

 

ソングライター:ピート・シェリー

 

「レディオ・ナイン」は、あなたやスティーヴが初めてテープ・レコーダーを手に入れたときに録音していたものを思わせる、いってみれば実体験に基づいた音像というべきものなんでしょうか?

 

「レディオ・ナイン」では、あたかも夜にラジオ・ルクセンブルクをトランジスタ・ラジオで聞くような感じで「エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ」が流れてくる。それは静かにフェイド・インして、フェイド・アウトしていくんだ。

 アルバムを出した頃にこう言われたんだ。「エヴリバデイズ・ハッピー・ナワデイズ」と「「ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?」、「プロミセス」と「リップスティック」、この両者の間には隔たりがある、ポップなバズコックスとより屈折したバズコックス、その鋭い対照がある、とね。ラジオのチューニングを合わせていく所は、その対照を示しているんだ。ドラッグでトリップした感覚と似てるし、そういう意味じゃとてもサイケデリックだね。

 

ラジオをいじってるような音、あれはどうやって作ったんですか?

 

フェイザーをかましたんだ。そこにラジオを繋いでスイッチをいじってね。「レディオ・ナイン」のタイトルはビートルズの『WHITE ALBUM』に入ってる「Revolution 9」から取ったんだ。



[1] 訳注:原著にはここで「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」と同内容の注が付されている。明らかに誤植である。

[2] こうした編集を施す必要が生じた場合、マーティン・ラシェントは分単位の尺度を割り出す特製の「計測機」を考案していた。

[3] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「『バック・トゥ・フロント』はとても楽しかったけど、少し神経質になってたね。ステージに上がった途端にそんなものはすっ飛んだけどね。今の自分〔土木業、大手不動産業社に勤務〕と比較して、バンドをずっとやってたら、って思うけど、せんないことさ!

[4] スティーヴ・ガーヴェイ:「曲を全部マスターした上に、テープに合わせて弾かなくちゃならなかった。今なら何てことはないんだが、当時の俺にとっては衝撃的なことだったよ」

[5] 当時は、いや今でもだろうが、BBCの方がITⅤより格が上だという観念がある。エンターテインメントより教育や社会経済問題に重きを置く人にはBBCの番組の方がより教養があり、ITⅤの方は受入れ難いとされるのである。

[6] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「『テンション』は自然なノリでつくられた作品ではなかった。アレンジに少々時間をかけ過ぎた。俺自身ベースラインに少々凝り過ぎた。いわゆるパンク・ロック的なものはすでに過去のものだった。俺たちは変化を余儀なくされていたんだ」

[7] ビートルズの「Eleanor Rigby」からの引用。

[8] いかにもバロウズ的な『バロウズThe Movie』を指す。監督はハワード・ブルックナーで1983年の作品。バロウズの許可を受け、自ら出演も果たしたドキュメンタリーである。

[9] サイエントロジーとは「カルト」「商業活動」「新興宗教活動」を目的とした信仰の在り方と定義されてきたが、これら三つ全てが正鵠を得ていると思われる。

[10] 「反作用的心性」ディアネティクスDianeticsというL・ロン・ハバード式精神療法の基礎をなす概念であり、精神医学ならびに心理療法の一つとみなされたが、当時の慣習に縛られた退嬰的な医療従事者により排斥された。

[11] 湿気を帯びることで生じる皮膚コンダクタレス反応(それ自身精神的もしくは心理的ストレスから生じる)の形態を示す皮膚電位活動の尺度を示すところから、この別称が付いている。ウソ発見器の信頼性が喧しく論議される一方で、E‐メータ自体専ら「宗教上の目的」から使用されるべきとするサイエントロジー教会the Church of Scientologyにより容認・保護されている。

[12] 『ホライズン』 BBC制作によるドキュメンタリー番組。基本的に科学的なテーマを取り上げるが、ときとして哲学的なものも扱っている。1969年の放送開始以来、番組構成はほぼ変更されることなく現在も番組は継続されている。

[13] 『トゥモローズ・ワールド』 BBC制作による、最新の科学技術の紹介を目的とした番組。放送は1965年~2003年。

[14] この交響曲はハイドンのパトロンであったニコラス1世に強制的に登壇させられたオーストリアの楽団員達用に作曲されたものである。最終楽章のアダージョ部分で演奏者は譜面台にあるロウソクを吹き消してステージを降り、二人のバイオリン奏者のみとなる。その意思がくみ取られ、団員達は全員翌日の帰郷を許されたのである。交響曲は現在もこのアレンジで演奏されている。

[15] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「聞いた話じゃ、1978-9年にコロンビアからいい条件でオファーの話が来てたらしいよ。コロンビアはクラッシュで当てたから、俺たちもと踏んだんだな。けど結局はマイルス・コープランドのIRSと契約した。IRSはゴー・ゴー・ズとかで大もうけすることになるんだけど、俺たちをどう扱っていいか判らなかった。業界での実績がまるでなかったのさ」