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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(28)

パート1:アー・エヴリシング

Part 1:Are Everything

 

シングル発売のみ

「ホワイ・シーズ・ア・ガール・フロム・ザ・チェーンストア」と両A面

録音:1980年、アドヴィジョン・スタジオ、フィッツロヴィア、ロンドン

ミックス:タウンハウス・スタジオTownhouse Studios[1]、シェパーズ・ブッシュ、ロンドン

発売日:1980年8月

ソングライター:ピート・シェリー

プロデューサー:マーティン・ハネット

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

 

『パート1-3』のアイデアはどこから?

 

『パート1-3』は『ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション』のリリース後にやったアメリカ・ツアーを終えた後にリリースした。僕は〔探偵ものでシリーズ化された〕『コジャックKojak』に出てくる情景を、ニューヨークに足を踏み入れるまで、まるっきり創造の産物だと思っていた。マンホールからは煙が立ち昇り、黄色いタクシーがクラクションを鳴らしまくるという情景さ。ところがあのテレビと寸分変わらなかった。嫌になったよ。それにあの当時はバンド活動にウンザリしていたしね。

 アルバムを出すんなら、まずシングルを連作で出して、それをアルバムにして出し直そうと考えたんだ。シングルを六枚出して、それが終わってから一枚のアルバムに組み直すアイデアだった。(訳注:シングルとアルバム曲の重複収録は避けようという、当初のポリシーは自ら完全に放棄していたと思われる)あいにくUAでずっとプロデュースしてもらっていたマーティン・ラシェントが別の仕事にかかりっきりでアメリカにいた。それでマーティン・ハネットとスタジオに入ることになった。彼は『スパイラル・スクラッチ』のプロデューサーで、この当時はジョイ・ディヴィジョンをプロデュースしていた。マーティン・ハネットの伝説は、全部ホントのことさ!レコーディングは冗談抜きで修羅場だったね。

 

では『パート1-6』を当時、四枚目のアルバムにまとめるつもりだったのは、契約上やむなくだったんですか?

 

いや、僕らはアメリカでリリースした『シングルズ・ゴーイング・ステディ』を四枚目だとみなしてたんだ。皆それを買い、レーベルはそれで儲けたたわけだから、あれはれっきとしたアルバムだった。

 

契約事項には、四枚のアルバムは新曲とみなされる楽曲で構成されるものとする、と記載はされていなかったと?

 

契約書にそんなことは書かれてなかったな。けど相手側には「権力」があったのさ・・・・。後々、その権力を握ってた奴がワビを入れに来ることになるんだけど。

 

『パート1-3』のスリーヴ・デザインも一つのセットだったんですか?

 

元々連作としてリリースの予定にしていたから、デザインも、という扱いだった。『パート1』には線が一本、『パート2』には二本、『パート3』には三本。スリーヴにはA面B面の記載はなしにした。

 

マーティン・ハネットとの出会いは?

 

彼は駆け出し時代の僕らの代理人だった。ミュージック・フォースっていう会社にいて商売をしていた。会社はオックスフォード・ロードのジョージアンっていう荒んだスラム街にあった。同じビルの屋上にはニュー・マンチェスター・レヴューthe New Manchester Review〔マンチェスター文化の担い手であり、イベント情報誌『シティ・ライフCity Life』の前身〕の事務所もあった。よく抜き打ちであそこに出かけて行っては長居して雑談ばかりしていたよ。彼は自分のことをレコード・プロデューサーだと言うもんだから、僕ら大笑いして、じゃあ一緒にレコードつくろうぜってなったのさ。

 

マーティン・ハネットは『スパイラル・スクラッチ』の後、変わっていってしまった?

 

まあ、成功したしね!『スパイラル・スクラッチ』は彼のプロデューサーとしての最初期の作品だった。『パート1-3』当時、彼は息のかかった連中、例えばジョイ・ディヴィジョンとかジョン・クーパー・クラークとか、あとはファクトリー所属のアーティスト達を仕切るようになっていた。父が『スパイラル・スクラッチ』の制作中に訪ねてきて、そこで気付いたことがあるって言ってたね。マーティンが部屋中を常に動き回り、同じようにしょっちゅうドア・ノブをつかんでは回してたんだって。エンジニア[2]が振り向く度に、マーティンはビビッて駆け戻ってきたらしいよ。けど『パート1-3』の頃の彼は、自分のやりたい放題だった。

 

曲作りはどこでいつに?

 

休暇でソレントにいたときだったね。ホテルのバーでアイデアが浮かんだ。マウリッツ・エッシャーの版画のようなイメージだった。ある物体がある物体と絡み合い、結合していく。世の中とおんなじさ。この世は我々の希望や怖れ、夢が折り重なっていくんだよ。我々の認識如何によって、この世はいかようにも変わる。「ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション」で示したテーマをある部分継承しているともいえるし、仏教の教えにも通じるものがある。当時はそこら辺に吸い取り紙を置いていた。スタジオの中にもね。毎日アシッドの錠剤を床に落としていたから。「アー・エヴリシング」の時は「ゾーンに入った」状態で、しゃべるときも、歌のパートのときも、レコーディングやミキシングのときも・・・・。

 

仕事をする上でアシッドは助けになりましたか?

 

どうなのかねえ!とにかく混乱しまくっていたのは憶えてるよ。スタジオに行ってまずやることはドラッグが届くのを待つかドラッグをやってそれが効いてくるのを待ってるか、どっちかだった。マーティン・ハネットはひっきりなしにテープ・マシンを操作していた。よくテープが足りなくならずに済んだと思うよ。僕はトビっ放しで、ミキシング・デスクの下にうずくまっていたね。マーティンはモニターのヴォリュームを大音量にして音を流し、僕はああここだという音を見つけてはスタジオに飛び込み作業をしていた。ミドルでインストになるところがある。本来はラガーのビールを入れる箱にマラカスとか打楽器とかシェイカーとかいったパーカッションが入っていて、そのミドル部分で使った。

 ベーシック・トラックをアドヴィジョンのデカい部屋で録ってから、ランドブローク・グローヴ沿いにあったタウンハウスでミキシングをした。午後に始めて夜通しで作業をした。ある日の夜中だった。ホテルに帰るのが遅くなり過ぎて、ホテルの従業員は僕が何も言わずにチェック・アウトしたと思い込んだらしい。一緒に泊まっていた連中を外に放り出したのさ(僕は少しラリッていて何が起こってるんだか殆んど判ってなかった)。タウンハウスはとてつもなく広く細長い部屋で、マーティンは部屋の隅っこに楽器用のマイクをセット・アップし、僕らは部屋の中で列をなし、ビール・ケースの中に入っていた楽器をめいめいが選んで演奏した。スティーヴ・ガーヴェイはいなかった。家に帰ってしまったんだ。[3]「やってらんねえよ」って思ったんだろうね。マンチェスターに帰るまで、彼とは誰も顔を合せなかった。ある時なんか、ジョン・マーが消火器をブチまけたこともあったっけ。レコードにはこの時の警報音とかパニくってる音とかがかすかに入っているよ。こういうハチャメチャ行為は日常茶飯事になってたね。

 

じゃあレコーディングは難航したと?

 

うん、そうだね。

 

効率的とはいえない仕事ぶりだったわけですね。同じマーティン・ハネットとの仕事でも『スパイラル・スクラッチ』のときはすごく短時間で・・・・。

 

プロデューサーとしてのマーティン・ハネットは時間を浪費するようになっていった。ますます「あっちの方」に行くようになってしまった。フランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートのレコーディングも同じような感じだったんだろうね。当然レコード会社には余計に出費を強いることになってしまったけど、僕らは気にも留めなかった。どんなに時間がかかろうが、僕らは浮かれ回ってカネを使いまくってた。

 それでも彼はいつも楽しんで働いていたよ。今の耳で『パート1-3』を聴いてみれば、「それが何だって言うんだ?」って思うだろう。その業績は大きいよ。天才の証というわけさ。

 

土曜朝の子供向けバラエティ番組『ファン・ファクトリーFun Factory』に出演して「アー・エヴリシング」を演奏しましたけど、何故この曲だったのかと思います。さほどティーン・ポップ的な内容じゃないのに。

 

そう。僕ら自身ティーン・ポップ的な存在だとは思ってなかった。番組はグラナダの制作で、僕らの活動拠点はマンチェスターだったから出演依頼が来たんだろう。金曜日にリハをやってスティーヴと僕は・・・・グレイプスGrapesに行ったんじゃなかったかな。オペラ座の近くにあるパブさ。青年劇団がウィゼンショア公民館で『素晴らしき戦争Oh! What a Lovely War』[4]を上演してた。そこの出演者達とパブでその日の午後はずっとしゃべってた。劇団の連中は僕らを公民館に招待してくれた。スティーヴは途中いなくなっちゃったけど、僕は一晩中ワイゼンショアで劇団の連中と騒ぎまくってた。で、ワイゼンショアからホテルに戻ろうとしたとき、妙なことになってね。劇団員達はチャールトンにあるサザン・セメテリィを根城にしていた。そこはワイゼンショアから三マイル半離れた所にあった。団員は30人かそこらいて、僕ら全員てくてく歩き、もうヒッチ・ハイクさ。そこへバスがやって来て乗客を降ろし、去ろうとしたところを僕らが乗ろうとしたら運転手が言うのさ。「すんません、もう終バスなんで」団員達は運転手に頼み込んで、とうとう乗せてもらえたよ。おまけに僕らの望むところにまで乗せて行ってくれたんだ。運転手にとっちゃ自分の運行区間から外れた所にもね。お礼にって団員達は『素晴らしき戦争』からの挿入歌を歌ったんだ。普通ありえないよこんなの。ちょっぴりクリフ(訳注:クリフ・リチャード)の映画『サマー・ホリデイSummer Holiday』みたいだったね。

 次の日は早朝から子供向け番組の収録でグラナダ・スタジオに行かなくちゃならなかった。着替えた方がいいかなと思ったんだけど、なにしろ前の日から飲んだくれていたしね!土曜朝の子供向けテレビ番組への出演。二日酔い対策としてはベストとはいえなかったよ。



[1] タウンハウス・スタジオ 1978年、ウェスト・ロンドンのシェパーズ・ブッシュに、ヴァージン・スタジオ・グループthe Virgin Studios Groupの一棟という扱いで建設された。2008年閉鎖。ジャム、デュラン・デュラン、ブライアン・フェリーにオアシスもレコーディングに利用している。

[2] エンジニアは、フィル・ハンプトンのことである。そのプロ・キャリアのスタートはギタリスト兼ソングライターとしてであった。彼曰く、エンジニアとしてのスキルは小さいスタジオでのデモ・レコーディングという「現場で」身に付けたということである。

[3] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「レコーディングの終盤、マーティン・ハネットはドラッグ漬けだった。俺はウンザリしたね。トンズラしたよ。スティーヴ・ディグルがベースを弾いた曲もあるんじゃないかな」

[4] この風刺ミュージカルは「近代劇場の母」ジョアン・リトルウッドにより1963年に上演が開始され、彼女の経営する劇団養成所が協賛した。