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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(8)

ホワットエヴァー・ハプンド・トゥ?

Whatever Happened to?

 

「オーガズム・アディクト」のB面

ソングライターズ:アラン・ディアルとピート・シェリー

プロデューサー:マーティン・ラシェント

 

この曲のアイデアはどんな風に浮かんだんですか?

 

あれは、リチャード・ブーンに「どうなったんだ(whatever happened)?」って問いかける曲をつくろうかと言ってみたんだ。例えばオキシドール(生産中止になった粉石鹸)はどうなったんだ、とかね。もう存在しないモノをあれこれね。スパングルスSpanglesとか(スパングルスってお菓子は憶えてるかい?オールド・イングリッシュthe Old English⦅訳注:イギリスの菓子のブランド名⦆は好きだったね)。[1]そうは言ったものの、そのときはそれっきりで進展はなかった。ある日リチャードが「あの曲、どうなった?少しヒネリ出してきたんだ」って言ってきてね。それで僕が曲をつけたんだ。

ハワードが作詞―すでにたくさんの作詞を手がけていたね。作曲は僕。これが僕らのやり方だった。「ボーダムBoredom」も同じやり方ででき上がった曲だ。彼はタイルtile工場―ネクタイtieじゃないよ。ジョン・サヴェージの『イングランズ・ドリーミング!』の取材のときもそうだったな。僕の発音に問題があるのかもね。サルフォード在住だから―で、当時ハワードはサルフォードに住んでいた。仕事はパレットに乗ったタイルの破片を防護服を着てかまどの中に入り、きれいに掃除することだった。ある夜、破片は全くなくて仕事がなかった。彼は家に帰り、あの歌詞を書いた。彼が寝る前にシャワーを浴びてヒゲを剃っている間、僕はそれを見ていて、「ボーダム」を書き上げたんだ。

 リチャードが本名ではなくアラン・ディアルAlan Dialっていう変名を使ったのは状況主義者からの影響だった。状況主義はファクトリー・レコーズをトニー・ウィルソンが設立するときに、大きな取っ掛かりになったのさ。

 

リチャードとの馴れ初めはどんな感じで?[2]

 

リチャードはハワードのリーズ時代からの友人だった。ボールトンでのパーティで出会ったんだけど、僕がギンギンにメイクしてたのを彼は今でも憶えてるんだ!

 セックス・ピストルズを観に行こうとしていた当時、ハワードと僕はレディングにあるハワードの家で共同生活をしていた(ハワードはまだ学生だった)。リチャードは大学で美術の学位を取って卒業し、一旗揚げようとマンチェスターにやって来た。そしてバズコックスのマネージャーになった。彼には芸術面で奇抜なものとか美しいものとか、たくさんのアイデアを持っていたのに挫折した経験があった。それをバズコックスで還元しようとしたんだ。いい奴だったよ。ジャクソン・ポロックのモンドリアンの絵柄をとり入れたシャツを作ったりとかね。初めてモンドリアン調のシャツを着たのは1977年3月11日、ハウンスロウ・コロシアムでのクラッシュとのショウ、というかリハのときだった。僕は黒いシャツを着ていて、他のメンツがモンドリアン調の図柄のシャツだった。シャツは直前に生地にペイントしたばっかりで、ライヴの後に脱いだらシャツの染料が皆の肌にくっついちゃってて。図柄もそのまま引き写しになってたよ。

 

何故、彼は「雌牛がどうなったんだ?」と書いたんでしょうね?

 

そうだよね、歌っているとき、実際のところ何が言いたいんだろうってよく思うんだけど。ちょっとしたフェスティバルがあちこち田舎とかであるだろう。あれのことじゃないかな。開催中は雌牛とか隅っこにどかせられるんだねきっと!たぶん道端で麻酔でもかけられるんだろうけど!

 

スティーヴ・ガーヴェイが加入して、バンドはヴォーカリスト+スリー・ピースから四ピースになり、アレンジも変化しましたよね。ギター・パートの棲み分けはどうしてきましたか?伝統的な、一人はリズム、一人はリードに専念するのか、あるいは作曲した人がリードをとるのかとか。

 

僕がリード・ギターを弾いてて、バックにリズム・ギターが鳴ってるのはってことだね!そう、『スパイラル・スクラッチ』のときはオーバーダブを施したんだ。最初期の曲にはソロがそんなになかったのはそういう問題があったからね。

 

一人がリードのときは、もう一人はリズムに?

 

うーん、スティーヴは自分をリード・ギタリストだと思ってるようだけど、ステージでは僕がリードをとる傾向があるね。

 

あなたの曲ではあなたがリードを、スティーヴの曲ではスティーヴがという風には?

 

いや・・もっと柔軟にやってるよ。そのときどきに応じてね。厳密なルールはないんだ。曲によるね。ときには二人ともリードをとる。例えばスティーヴの書いた「アライヴ・トゥナイト」では僕がリードを弾いて、「オートノミー」ではリフも全部僕が弾いてる。どちらにしても僕らにはリードをとるときのロック的な慣習なんてものには囚われてないんだ。僕はメロディを弾く傾向があるね。バズコックス・サウンドの特徴の一つは、二本のギターが同じようにリズムを弾くところにある。「バズ⁻ソー・ギターbuzz-saw guitars」さ。パワー倍増になるんだ。

 それにリードと歌の両方ってしんどいよ。頭をもむのと腹をマッサージするのを同時にやるようなもんさ!

 

当時のライヴはどんな感じでしたか?

 

リーズ・ポリ、エレクトリック・サーカス、マーキー、ドンキャスター、ウェストクリフ⁻オン⁻ミー・・。クラッシュとのツアーで、僕らの名が広く知られるようになった。9月はリバプールのエリックス、クレイドンのグレイハウンド、バーミンガムのバーバレアズで演奏した。ハワード抜きで最初に演奏したのがクラッシュとのツアーだった。

 

その頃にはパンクは全国的な知名度になっていたんでしょうか?こうした一連の地方の観客の中にパンクスはもうすでにいたのでしょうか?

 

そうだね。セックス・ピストルズとビル・グランディとの一件があったばかりのことで、若い連中は「へっ、こりゃいい。年寄りの連中をヘコます方法を見つけたぜ」ってあの一件を見て思ったんだね。音楽の大転換が行なわれたわけだから。ただビル・グランディ事件は確かにコトの発端ではあったけど、ロンドン以外の所にいた連中はあの番組を見ていなかったんだよ。知れ渡ったのは全国紙に出たからなんだ。「下品な言動、憤激を誘う」ってね。ここからパンクが地方に拡がっていったんだ。



[1] ピートはリコーラRicolaの固い薬用ドロップの愛用者で、インタヴューの収録中も大量のドロップを口に入れていた。声に良いのだということであった。

[2] バンド側近者の発言:「リチャードが一番いい奴さ。ホント最高な男だよ」こうした創作がバンドのマネージャーとして一番必要とされるのかどうか定かではない。