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祝?ラット・スケイビーズ復活―ザ・ダムド『ブラック・アルバム』

   もうたいがいの事には驚かない、いや笑わなくなっていたダムド関係のニュースであったが、今回ラット・スケイビーズが復帰し、のっけから日本でライヴするとの話には笑えた。ダムド側の総意としては、オリジナル・メンバーとして暫くはやっていきたいだろう。その方が間違いなく一番受けがいい、ライヴも客が集まる。新曲なんて作らなくても、もうあの時代の必殺ナンバーを、あのメンバーで、ライヴでやってくれればそれだけで十分ファンは満足するだろう。それこそ時代劇のお約束なストーリー展開である。進取の気性とかなんとか、本人たちも真面目な振りして言っているが、いざとなったらやっぱり快感原則最優先になるのが人情である。昔のナンバーばかり?いいではないか、それで楽しければいいのだ。これがダムド本来の姿勢である。
    だがブライアン・ジェイムスは体調が思わしくないようで、ツアーは無理という判断になったのだろう。確かに、ひところのデブっぷりから激やせしてしまい、足元もおぼつかない様子を見ていたら、こっちも心配になる。あれからほどなくしてローズの再編ライヴ―スティーヴ・ベイターズがいないから、厳密には再編とは言えないが―が行なわれたのは、ダムドとしてのツアーの代わりだったのではと思えてしまう。事情に疎い私の勝手な憶測である。
    一方のラットは、それでは納得がいかなかったというわけで、お、ちょうどいい、ポール・グレイが正式に復帰している、しかも専任のキーボード・プレイヤーもいる、これなら『ブラック・アルバム』に『ストロベリーズ』2枚分の曲ができる。ここにどパンク時代の「ラヴ・ソング」に(ブライアンはいないが)「ニュー・ローズ」も加えれば、どうにか客も納得のセットリストができるぜって話に落ち着いたのではないか。ブライアン時代には及ばないが、グレイ時代もそれなりにインパクトがあるから、大入りになるだろうってな算段なんだろう。これまた、勝手な憶測である。
   前にも記したが、現行のメンバーでの活動と並行して元メンバーでライヴなんて、このバンドでしかできない芸当だろう。他のバンド、たとえばストラングラーズとかクラッシュが―ストラングラーズはデイヴ・グリーンフィールドが、クラッシュもジョー・ストラマーがいないから、議論にならないが―こんなことをやろうものなら、大ごとになるだろう。いわゆるパンク的な理念、ストイックな精神からダムドは無縁なのだ。そしてとうに周囲からもそうしていいと認められている。まさに安心の屋号たるダムド印。どうせここまで来たのだから、存分にやればいい。そうすればファンだって楽しい。楽しいのが一番。これがダムドがダムド足りうる最大のアイデンティティなのである。
   というわけで、久方ぶりに『ブラック・アルバム』を聴きかえしてみた。このアルバムを一番と挙げる人も結構いるようで、例えばウィラードのJunなんかはそうであるようだ。私はというと、前作『マシン・ガン・エチケット』に比べると、どうしても劣るとみてしまう。曲によって出来のばらつきが激しく、これまでのどパンクなイメージから無理して逃れようとしたり、あるいは過去の曲のあからさまな焼き直しの曲もあったりといった部分が目についてしまう。出来の良い曲との差があまりにもあからさまだから、余計そう思えてしまうのだ。アルバムの(私個人の)評価をさらに下げるのが、Ⅾ面のライヴである。演奏は気合が入っているのに、ギターにいかにも80年代的なディレイがかけられ、オルガンまでダビングされていて―アルバム・クレジットに「オーバーダブはされていない!」と記されているのは、真っ赤な嘘である!―せっかくのライヴ感が大いに損なわれてしまっている。もうひとつ、アルバムが数種のヴァリエーションで発売されてリスナーを混乱させるのもマイナス要因だろう。オリジナルは2枚組で墓石の(レリーフ)をアップにした写真をあしらったスリーヴだったのに、日本ではまるっきり異なるアートワークになり、後には真っ黒のスリーヴの1枚ものになったり、いやオリジナルでもスリーヴがシングルだったり二つ折れだったりもする。コレクター趣味をそそるという好意的な意見も聞かれるが、アーティストの方で作品管理をコントロールする意思に欠けると誹られても仕方ないところだろう・・・・。
    と、いつものように勝手気ままなことをほざきつつも、嫌いになれないアルバムだ。この中途半端さ不徹底さもこいつららしいところだな、とひいきしてしまうのは、やはりトクなポジションにいるということなのだ。


アートワークに用いた墓石のレリーフは、ラットが所有している(あるいはいた?)らしい。



おどろおどろしく見せようとしつつも、なんか間抜けな感じが、いかにもダムド。キャプテンよお、せっかくの撮影なんだ、ひげ剃れよなあ。


これはイタリア盤らしい。二つ折れで歌詞が印刷されているのは嬉しかったりする。


これが当時の日本盤のアートワーク。二つ折れに歌詞印刷は、先のイタリア盤と同じ。

 イタリア盤のレコードは、記憶が正しければ87年の秋。今はなき吉祥寺のレコファンで買った。値段は4000円した。当時2枚組の輸入盤は吉祥寺で2500~2600円で買えたから、正直高いと思った。だがここはオリジナル通りの2枚組で聴きたいという欲求が優った。おかげでそれから1週間は昼飯抜きになった。当時聴いた感想は、現在と変わらなかった。つまりこの36年間、アルバムに対する私個人の評価は変わっていない。悪くもなっていないし、良くもなっていない。そのあたりは、例えば脱パンクな『ファンタスマゴリア』とはずいぶんと異なる。『ファンタスマゴリア』は最初、つまらんアルバムだと聴きかえす気になれなかったが、今は結構気に入っている。聴き手の耳の成熟度(?)が問われるのが、『ファンタスマゴリア』なのかもしれない。このアルバムがいわゆる甘ちゃんポップに墜しないで済んでいると思えるようになったのは、ラットのドラムがあったればこそなのである。


『ファンタスマゴリア』が出た翌年に、ダムドは最初の来日を果たしたのだが、当時の私はまだダムドを聴いてはいなかった。

 さて、今後のダムドはどうなっていくのか。ラットはこのままダムドに居続けるのか。だとしたら、現行のダムドはどうなるのか。さっぱりわからない。ただ、どういう具合に転がっても、ちっとも不思議ではない。ブライアンが体調を回復させ、いきなり再び合流~新曲!ということだってありうる。あるいはラットが「やっぱつまんね、やーめた」ってトンズラすることだって然りである。もはやダムドは屋号なのであって、いろんな奴等が離合集散を繰り返しながらやっていく。ギャラリーも気楽にそれを眺め楽しむ。これでいいのだ。私もせいぜい楽しませてもらうつもりである。
 もう一言。同じパンクでも、いろんなバンドがいるものである。活動開始が同じ時期でも、その音楽性も精神性も、ついでに見てくれも、それぞれが異なる。ダムドにバズコックスにイーターに999。オンリー・ワンズにマガジンもそうだ。ヴァイブレーターズもである。連中の音楽を聴き、眺めているとつくづく多彩だねえと、感心してしまうこの頃である。