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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(34)

アイ・ルック・アローン

I Look Alone

 

NME編集のカセット『Ⅽ81』に収録

録音:1980年、アドヴィジョン・スタジオ、フィッツロヴィア、ロンドン

ミックス:ジェネティック・サウンド、ストレッドレイ

発売:1981年

ソングライター:ピート・シェリー

プロデューサー:マーティン・ラシェント

 

どこでいつ創作を?

 

「アー・エヴリシング」と同じソレントで休暇中だったとき。1980年4月1日だった。まだクレジット・カードを持ってなくて、滞在を延ばしたかったんだけどそのための現金を引き出す術がなくてね。とうとう文無しになったんでリチャード・ブーンに電話して、郵便為替でリラlire(訳注:イタリアの通貨)を送ってもらった。それが届くのを待っていたら、曲のネタがひらめいたんだ。

 この曲は『パート4』として世に出るはずだった。もう片方の曲はまだ書かれてもいなかった。僕はスティーヴに曲を書けとせっついてたんだけど。『パート1-3』を踏襲したかったしね。元々はマーティン・ラシェントと僕とでつなぎ合わせた一本のデモだった。ハンドクラップはまだ完成していなかったマーティンのスタジオでレコーディングした。ゴキゲンな出来だった。でも正式リリースの前にバンドは解散してしまった。

 

カセット・オンリーのリリースでしたか?

 

NMEの『Ⅽ81』というカセットに収録されたんだ。あれはラフ・トレードとの共同制作だった。手に入れるにはNME発行のクーポンを集める必要があって、郵便発想だった。[1]1989年に出した『PRODUCT』のアナログとCDにも収められたね。「フラットパック」ツアーや2006年終わりの「30」ツアーでも演奏した。ライヴ向きの曲だね。

 

当時レコード会社との間に何があったんですか?由々しき事態になったと聞き及んでますが。

 

EMIがUAの業務を引き継いでいたんだけど、UAはもう過去の遺物同然の扱いで、誰もそのことには気にも留めてなかった。

 レコード会社の名前なんて問題じゃない。中で働いてる人間に問題があったんだ。組織は人なりという精神が失われてしまったんだ。経営会議では社員の弁解、経費、商品の販売スケジュール、そんなことばかりが話題にのぼってた。救いようがなくなってたね。

 

じゃ、どうやってEMIとは袂を分ったんですか?

 

四枚目のアルバムでモメてるとき、スティーヴ・ガーヴェイが新しいベース・アンプを欲しがってたんだけど僕らは文無しで、スティーヴの新しいアンプどころか持ってるアンプを売らなきゃならなくなってたくらいだった。レコーディングなんてできる状況じゃなかった。マーティン・ラシェントはそんな僕らをよく理解してくれて、ならプルートでのレコーディングを中断させて自分のスタジオでやろうと言ってくれたんだ。それでマーティンの建設途中のスタジオで新作にとり組むことにしたわけさ。僕らバンド側は何度もEMIとミーティングをした。今後もやっていける条件を得ようとね。ソロ活動も視野に入れた話もした。でも奴らは僕らとやっていこうなんて気はさらさらなかったんだよ。

 二度目の契約金は手に入れていたしセカンド・アルバムを出す頃にはファースト・アルバムの印税は受け取っていた。その二枚からの収入を得る権利は手放してしまっていたけれど、その後の印税でカバーはしていた。

 基本的にレーベルからは何のサポートを得ていなかった。時代遅れの扱いだったんだ。ミーティングを通じて、もうこれ以上奴らとはやっていけないことが判ったね。僕らはカネと権力を握った連中から見放されたんだ。レコード会社からアテが望めないなら居ても意味がない。奴らは儲けには貪欲だった。けどレコードの内容にはまるで関心がなかった。僕らが何をしようが知ったこっちゃなかったんだよ。同じ話をしてもアンドリュー・ラウダ―は熱心に耳を傾けてくれたけど、あの当時のレコード会社の奴らはまるでダメだった。僕は奴らにクソでも喰らえと言ってやった。「これでいいんだ。もう煩わしいことはしなくていいんだ」ってね。

 本心からそう思ったよ。「牢屋から出れるぞ」って感じだった。僕は自由の身になった。肩の荷が下りた気分だった。首にオモリをつけるより新しいキャリアを創っていこうという気になったんだ。

 

では、ソロ・キャリアはどうやって?

 

バンドでのありとあらゆるカネのモメ事に悩まされていた時、マーティンが僕に提案してきた。「今建設中の俺のスタジオに来ないか?ドラム・マシンはある。何かやろうや」ってね。僕は12弦ギターを持って彼のスタジオに入った。[2]最初に手をつけたのが「Maxine」次に「Homosapien」だった。最終的にその二曲はソロ作品になったんだけど、元々はバズコックス用にとっておいたんだ。実際「Homosapien」は2012年にコーチュラ・フェスティバルCoachella festivalで演奏したからね。でも普段のステージで演ろうものならスティーヴがブーたれることになる!あれはフェスの運営者からのリクエストだったんだ。僕らの代理人がフェスへの参加を決めた際、その代わりにということでリクエストしてきたんだよね。ライヴの出来は上々だった。二週に渡って上位十組のうち第7位に選ばれたんだから。

 

ソロ活動ではマーティンと密接な関係を築いてきました。どんな風に曲をつくり上げていったんでしょうか?バンド時代とはまるで異なったやり方だったでしょけど。

 

マーティンとソロ活動をしていたとき、多くの曲は最初から最後まできっちりつくった。例えばアルバム『XL-1』のラスト二曲の「Twilight」と「XL-1」(レコードのシリアル・ナンバーから名付けたんだ)。この二曲は書き上げてなかったんだけど、スリーヴのアートワークも印刷も済んでいたことを白状しなくちゃいけなかった。僕ら二人は一晩中スタジオに籠もって僕は曲を書き上げた。アレンジのアイデアはアタマの中には殆んど何も入ってなかったけど、二人して二回のセッションで全部仕上げた。必死だったよ。何しろスリーヴは出来上がってたんだから、選択の余地はなかった!こういうプレッシャーの中で仕事をするのは、よいことだね。

 マーティンとの仕事はいつも早かった。彼は率先して動いて仕事をしていた。ミキシングのときは常にそこにいて目を光らせていて息つく間もなくぶっ通しでやっていた。いつも働いていたよ。できあがった音も文句なしだった。マーティンとの仕事は楽しかったね。一緒に上手くやれたよ。

 

マーティンとは常に二人きりでしたか?エンジニアも専門職家もいない状況という意味ですが。

 

彼の自宅でやってたときはそうだったね。技術的な面、テープの扱いとかエンジニアリングとかは全部マーティンがこなせた。より込み入ったことになったときには、互いにアイデアを出し合っていろいろ試すことにしていた。

 

バズコックス・マーク1としてのラスト・ライヴは1981年・・・・。

 

ラスト・ライヴはその年の1月ハンブルグでだった。「アイ・ルック・アローン」が出た月だったね。イギリスでのラスト・ライヴは前の年の12月、ボールトンでだったけど、活動を始めたのがその街でだったから、妙な因縁だと思ったよ。[3]僕らが主催のクリスマス・ショウだった。いかにもパーティといった雰囲気だった。

 解散したとき、再結成なんて思いもしなかったけど、僕らには特別な、僕らだけのものがあるって気付くようになって、もう一度やるべきだと思うようになった。再結成は八年後。その間皆各々の活動を通して大きく成長していたんだ。互いに型にはまった活動から脱皮しようというチャンスを手に入れたわけだね。[4]

 

これまでの日々の中で強くなっていったということですね。

 

まだ若かった頃、UAと契約を交わしたときにはこんなに長く活動するなんて思いもしなかった。ほんとにさ。そうじゃないかい?当時は30歳を過ぎたら年寄りだと思ってたのが、自分たちが六十代になってギターを鳴らしてるなんて想像すらしなかったよ!

 浮き沈みはあったけど、長い目で見れば、良い思いをしてきたんだよ。皆僕らをいまだに好いてくれてるようだし。つまるところ、それが大切なことなんだ。



[1] 限定版であった『Ⅽ81』を確実に入手するには、NME発行のクーポン二枚と1・5ポンドが必要であった。「広範なジャンルに渡り影響を与えうる音楽カセット。他に類を見ない音楽登場五周年を記念して製作」ここで、バズコックスの活動開始がいつであったか想起されたい。Ⅽ80の名(訳注:カセット・テープの名称と思われる)を無断で使用したと思われるが、収録時間は80分弱であり81分未満であった。各曲のレコーディングは1980年であり、販売は1981年1月である。

[2] 21世紀のダンス・パンク・バンド、ダズ・イット・オフェンド・ユー、イェー?Does It Offend You,Yeah?のリーダーでありその独立自営のプロデューサーであるマーティン・ラシェントの息子ジェイムスは、ジェネティック・スタジオでの当時のピートについて以下のように述べている:「この頃のことは殆んど憶えてないよ。まだガキだったし。親父はよくこんなトチ狂った話をしてたっけ。ある夜ピートは相当飲んで荒れてベッドに倒れ込み、次の日はずっと氷風呂に浸かってたんだってさ!ピートはウチにはよくいたって記憶はあるけどね。人あたりの良い紳士だったな。よく憶えてるのは、親父が誰かれかまわず「Telephone Operator」のヴィデオを見せて上機嫌になってたってことさ」

[3] バズコックス最後のイギリスでのショウは1980年12月20日、ボールトン・スポーツ・ホールBolton Sports Hallで行なわれた。プロモーターはワイズ・ムークス。これはおそらくアラン・ワイズの商号であろう。

[4] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「再結成したときの俺たちはキッチリまとまったバンドになっていた。全員歳を重ね、成熟したミュージシャンになったのさ」