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自分という器

NHK「こころの時代」に大学の講義でお世話になった先生が出演なさっていた。

浄土宗の僧侶で毎週zoomの授業をしていただいていたけれど、内容はフロイトからユングに至るまでのグリーフケア、スピリチュアルケアの歴史。それぞれの考え方。評価がどのように変わっていくか、ということが主だったので、この番組を見て生の先生に触れた気がした。

大河内先生

特に先生が最初に入った「ビハーラ」という終末期病棟での話。

「わたし、明日まで生きていられるかしら」

そう呟いた患者に「ここで仏教の教えを説かなくては」と思い、話しだすと患者は

「そういうことじゃないの!」

とピシャリと遮り、その後沈黙したという。その沈黙にその時先生は耐えきれず、「失礼します」と去ってしまった。

その時のことを振り返り、

「あの時、自分は僧侶だから、こういう疑問にはこういう答えがある、と思っていた。でもそうじゃなかった。かけるなら自分の腹からの言葉をかけるべきだった」

この言葉にとても共感した。

苦しんでいる人悲しんでいる人に何か心に響く言葉を言ってあげたい。時には自分でもこれは良い言葉を言えたな、なんてこともあるだろう。でもそれこそが自己満足、自己完結なのだ。

本当にその人の心に寄り添おうと思うなら、言葉というものは準備しなくても自然に出てくるものだし、時には沈黙だって言葉よりもはるかに大きな力となる。

もうひとつ印象に残ったのは聞き手の武田アナウンサーが8年前に突然お父様を亡くし、いまだに悲しい、という話をされた時。大河内先生の顔がすぐさま変わり、とても真剣に武田アナの話に耳を傾けていたこと。

「会いたいですね」

と少し涙ぐみながら言う武田アナに

「会いたいですよね」

と噛み締めるように先生も言う。

大学での授業でたびたびでてくる「自分という器」という言葉がある。人の心に寄り添う時、それは技術ではない。テクニックではない。全力で寄り添うしかない。もし器が浅ければ浅くしか寄り添えない。だから自分という器をなるべく深くする努力をしなければならない。

最近は目の前の相手を論破したり、ねじ伏せたりすることがまるで尊敬に値するかのような風潮がある。それはまさにテクニックである。相手が何をどう考えているかは問題ではなく、その言葉尻をとらえてそこを攻めて自分の方が正しいと周りに見せられればそれで終わり。

空虚である。

非常に空虚である。

まさに自分という器を無駄遣いしているように思えてならない。

大河内先生は大学生だった時に友人から言われた言葉が忘れられないと話す。

「キリスト教は愛だけど、仏教は死よね」

仏教は死んでから初めて必要とされる宗教なのか。生きている間にもできることはあるはずだ、という思いがその後先生をスピリチュアルケアの道に導いたのだという。

zoomでしかお会いできていないので、いつか先生に直にお会いしてお話を伺いたいと思った。




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