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三島由紀夫vs東大全共闘

橋下徹が嫌いである。

のっけから申し訳ないが本当に嫌いで、うっかりテレビで見かけただけでその日一日嫌な気分になる。

彼のどこが嫌いって話すスタイルそのものである。いついかなる時も誰と話していても彼は相手の話に被せて話す。話すというよりわめく。しかもよく聞いてみればわかるが中身は全くのスカスカである。とにかくその場で相手を叩きのめしたように見えればそれでいいと思っている。いつだって俺様が正しいんだ。お前ら黙れ、という高圧的な態度である。

討論相手にリスペクトもない。相手が年上だろうが年下だろうが、もう最初から無礼な態度でこき下ろしまくる。甚だ下劣で知性のかけらもない。

さてタイトルの「三島由紀夫vs東大全共闘」に戻る。三島由紀夫は「金閣寺」などで有名な作家で自ら右翼を名乗り、最後は革命を訴えて割腹自殺をしてこの世を去った。過激な人物というイメージが強い人だったが、この1969年の東大生との公開討論ドキュメンタリーを見て見方が少し変わった。

表面的にみれば右翼vs左翼の討論なので分かりあえるはずなんてなく、非難轟々のやりあいになるのでは? と思うのだが、三島氏は最初からとても誠実に丁寧に話をしている。テーマも最初から深い。

「他者とは何か」

政治的というよりは完全に哲学的な問いである。

この問いに三島は「サルトルは最も猥褻なものは縛られた女の体である、と言った」と答える。縛られた女には主体性がないからこそエロティックなのである。自分は初めはこのエロティシズムを追及しようとした。しかし段々できなくなった。それは他者の中の主体性に気づいたからである。東大全共闘は自分にとって主体性のある他者である。

もうひとつ印象に残った彼の話は
「安心している人間は嫌いだ」という内容でその中にモーリヤックの「テレーズ・デケルドゥ」という小説の中に夫を毒殺しようとする女が出てくる、という話をする。なぜ夫を殺そうとするのか。動機はなんなのか。女は夫の目の中に不安を見たかったのだ。君たちもそうだろう。体制側の人間の目に不安を見たいのだろう。

どちらの話も引用がものすごく効いている。非常に深い、と感じた。学生たちも野次を飛ばしながらも決して感情的にはならずに討論していて、とにかくどちらの言い分も「うーんなるほど」と思うところが非常に多かった。

三島氏の話し方、答え方には確実に相手に対するリスペクトがあった。若いからとバカにするわけでもなく、左翼だから理解できない、というわけでもない。相手の話に納得できるところがあればそれを示し、乗れない話であればそこははっきり言う。

これが建設的な討論というものではないのか。

自分の全身全霊を傾けて相手の質問を聞き、自分の思うところを丁寧に話す。思想に関係なくこうやって誠実に話し合う姿には感銘を受けた。

この討論から50年。今の東大生はこんなふうに質問できるのだろうか? またそれを受けて立つ三島氏のような知性ある大人はどのくらいいるだろうか?

安倍晋三や橋下徹のような薄っぺらい人間が発言力をもつ今の日本は確実に劣化していると言わざるを得ない。

これは本当に悲しすぎる。それに尽きるのである。

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