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勝ちパターンの呪縛

マネジメントをしている中で、一人ひとりに適したコミュニケーションがあると頭で理解しつつも、それがうまくできなくて失敗する経験を山のように積み上げてきた。今でもその山は肥大化の一途をたどっている。

ただ、山積みの失敗の中にも時たまうまくいった場面はあって、失敗が多い分とても印象的で、僕は目ざとくそれらを記憶していて、すがるように反芻したりして、無意識のうちに自分の行動にすり込んでいる。まるでそれが勝ちパターンであるかのように。

本当はそんなパターンなんて欲しくないのだけれど。

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偶然うまくいった瞬間を意識しすぎてフォームに変なクセがつくのは、ラケットを振る場面でもよくあった。偶然うまく相手をかわせたフェイントがクセになって、ドリブルするたびに同じフェイントをかけてしまって見抜かれることもよくあった。

あのとき上手くいったのは、あのときの条件や環境が揃ってのことだ。相手の球が甘かったからキレイに打ち返せたフォーム、初出しだったからかわせたフェイント、関係性が確立していたから成立したコミュニケーション。

どれもパターン化するには脆い経験だということを頭では理解しているのに、知らず識らずのうちに行動がそちらによっていく。しかもその変化を自覚するのが遅くて、気づいた頃にはパターンが身体に染み付いてしまって抜けなくなる。パターンにはまってしまったことを一度意識し出すと雁字搦めになってぎこちなさが増していく。

すっかりスランプに陥っているのだ。

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思い返せばそれらのパターンが成功だったのかすら怪しい。上手くいったように感じたかも知れない、誰かに褒められたかもしれない。だけどもっと良い方法があったかもしれない、別の視点から見れば失敗だったかもしれない。

ふりかえって、反省して、「かもしれない」を洗い出して、最適解を考えることは間違っていないと思いたい。だけどそれが考えるだけでは済まなくて、無意識下で行動に変なクセをつけてしまうのなら、いっそふりかえり方も変えなければいけないのかもしれない。

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そういえば歳をとったせいなのか丸くなったと自覚する場面が増えた。棘が取れた感覚があるのだ。だけどそれも、自覚のない勝ちパターンに行動を抑制されて、棘のある行動を取らなくなっただけなのかもしれない。少し前なら意味があると思っていた衝突や、自分がやらねばと思っていた役割や、貫きたかった主義主張は、年齢とともに改善されたのだろうか。それともほだされてしまったのか。

理由が何であれ、ここ最近自分は変化が多くて、その変化と向き合うたびにスランプに陥るような感覚があって、要は迷走中なのだ。勝ちパターンの呪縛から抜け出すことが打開策になれば良いのだけれど、それが分かるにはもうしばらく時間がかかりそうなので覚悟していくしかないだろう。

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