"やらされる目標設定"との付き合い方、そして目標設定の真の意味
やれと言われてやる目標設定にモチベーションとしての価値はないし、個人目標の達成度合いで人事評価をするのはアンチパターンだと思うけれど、それでもやれと言われればサラリーマンの僕は目標を設定するしかないし、マネージャーの僕はチームメンバーが正しく評価されるよう目標設定のサポートをしたい。
そんなことを考えながら1ヶ月近く自分と身の回りの人の目標設定に向き合っていたら、ようやく「やらされる目標設定」との付き合い方が少しだけ上手くなった。少しだけ腑に落ちる答えを見つけた。ので書く。
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評価材料としての個人目標を立てるということは、会社から「会社の目標は〇〇で、お前の期待役割は△△だけど、どうやってそれに応えてくれるの?」という問いに対し「これをやって応えてつもりだよ!もしくは期待を超えてやるよ!」と宣誓することだと思う。
やらされる個人目標設定において、なりたい理想像やn年後の姿を悩み捻り出す必要はなくて、期待役割に応えるプランを提示するだけで十分に事足りる(あくまで「事足りる」だけであって、理想像から逆算しながら自分をモチベートできる目標を立てられるならそれは素晴らしいことだ)。
言い換えれば、個人目標を設定し提出する行為は「こうやれば自分は期待役割に応えられると思うが、認識はあっているか」と組織や上司とすり合わせる行為だということだ。
あとはその宣誓内容が達成されたかどうかの客観的な判断基準を設ければいい。「〜を書き起こす」「〜を完遂する」「〜を発表する」「〜と合意を得る」といった具合に。基準を数値化できるならそれもまた良し。
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ところで僕はプライベートでここ3年くらい目標管理をしている。「目標を設定して管理しよう!」と決意したわけではなく、心の底から、真に成し遂げたい気持ちが湧き出ているのだ。暇さえあればその目標のことばかり考えてしまうし、寝る前には1日を振り返って理想とのギャップを言語化してしまうし、朝目覚めるとベッドの中で「昨日の振り返りを活かして今日のトレーニングメニューをちょっといじるか」なんて自然と考え出してしまう。
そんな胸の奥底から湧き出る目標という名の情熱が、定性的か定量的かなんてクソほどどうでもいい。定性的だろうが定量的だろうがエネルギー源となり自分を衝き動かしてくれることには変わりない。自分を衝き動かしてくれるだけで目標としての価値は100点満点で、公言する義務もないし、達成したか否かを他人に判断される必要もない。目標って本来そういうものを指す言葉なんじゃない?
だから僕は、会社から求められる宣誓と自分自身から湧き出る情熱とを明確に区別して、それぞれと適切な距離を保つことにしたよ。
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