見出し画像

僕は放任主義的マネジメントをしているのか

私のチームは放任主義的なんですけど、あろえさんはいろいろやっていますよね。

と、ちょっと前にマネージャー同士で1on1をしたときに言われたのだが、僕も自分自身を放任主義的だと自覚していたので驚いた。

だからといってネガティブな感情はないし、放任の善し悪しは人それぞれで意見があっていいと思うので今回は触れない。ここで言いたいことは、自己認識と評価が大きく食い違っていた背景が気になるってことだ。

僕は自分のどういうところを放任主義的だと捉えていたのか考えてみる。

* * *

一つは手段を指示しないこと。細かい結果の確認をしないこと。
チームメンバーとは「チームが健全な状態を維持できているなら手段は問わないし、細かいタスクひとつひとつの結果へ介入しない」という関係性でいる。たとえば開発物を検証環境へアップするのが遅れそうなとき、適切な連絡が取れていて、必要に応じたふりかえりができていて、次の改善行動が取れているなら、指示はしない。ただしフィードバックと選択肢の提示はしようと思っている(過不足なくできているとは言い切れない)。選択肢を提示するものの判断は任せているので「放任」だと思っている。

もう一つは期待役割を広めに設定しがちなこと。
チームメンバーとは「期待する役割はここまでだけど、やれそうならここまでチャレンジしてみてほしい。一度試してみて今は難しそうだと思った部分は僕に返してほしい」というコミュニケーションをとっている。
マネージャーは期待範囲より少し広い裁量を渡す⇔メンバーはその中から取捨選択し余分な裁量を返すを繰り返しながら、得意分野を見つけたり、できることを増やしたりすることを期待している。この方法はメンバー自身が自分の役割や責任範囲を考えて選択しないといけないので、「放任」だと考えている。

このあたりが放任主義的だと自覚する所以だ。

* * *

いずれにせよ「メンバー各々が選択・判断しながら仕事を完遂する能力を秘めている」という前提での立ち回りだと思う。

これにはリスクもある。例えば、僕にはチームが上手く仕事をできていると見えているが外からはそう見えていないときとか、一部のチームメンバーに大きな負荷がかかっているけどチーム全体はうまく機能しているように見えているときとか。
こうならないように気をつけたいことは「よく観察した上で放任を選択する」ということだと思う。観察すらしなくなると、それは放任を通り越して放棄だろう。

じっくり観察し、期待とのズレや客観的な印象をフィードバックし、選択肢と機会を提供することを殊更丁寧にしていかねばと改めて思う今日此頃だ。

ここまで読んでくれてどうもありがとう。 記事を読んでくれて、応援してくれるあなたのおかげで、これからも書き続けることができます😌