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24歳の日常 [創作大賞2023応募作品]

私は今、祖母と二人で暮らしている。

今年で90歳になった彼女と私の年の差は66歳差。
普段の生活の中でその差が気になる事はほとんどないけれど、
ふとした時、人間歴の違いを感じて感銘を受けることがある。

例えば今日、私の部屋に一匹の蜂が入り込んだ時。
私は怖がるばかりで逃げ惑い怯えていると、
彼女は「何をそんなに怖がるの」といい、
さっと箒で蜂を窓まで誘導し、華麗に外に追い出してくれた。

彼女いわく、「実害がないものを恐れる必要はない」のだという。

蜂は危ない、という先入観からくる恐怖は、刺されない場合を加味していない。つまり現時点で被害を被っていないのだから、実質的には無害なのだという。
なるほど、となんとなく納得してしまう。

またある時は、
私が仕事で思うようにいかず悩んでいると、「悩んでいたってしょうがないじゃない、成せば成る、なんとかなるわよ」と励ましてくれた。

彼女の言葉は時折言葉足らずにも思えるが、それ以上にその言葉の奥行きを、彼女の人生になぞらえて感じさせてくれる。
そんな言葉はいつもどこか心地のいいもので、ああ、私はまだまだ弱いのだ、弱くていいのだと感じさせてくれる。

そんな彼女との日常が始まったのは、ちょうど半年前のこと。
私の在宅勤務時間の増加と、祖母が詐欺の被害にあった事をきっかけに、
一緒に住むことにした。
今までは詐欺の電話を悉く追い返していた彼女だが、今回ばかりは近隣の警察官を名乗る詐欺師に騙されてしまった。
不幸中の幸いにも犯人は捕まり、いくらかお金は返って来たのだが、それでもどこかやりきれないような、意気銷沈した祖母の様子が心配になり、私から自宅警備を名乗り出た。
それまで祖母との共同生活を考えた事はなかったけれど、
今ではすんなり家事分担を行い、一緒に食卓を囲んでいる。

朝ごはんは彼女が作り、夜ご飯は私が作る。
彼女が育てる自家製の野菜と、田舎から送られてくるお米はいつ食べても美味しく、夜ご飯は実質一品作るだけで成り立ってしまう。

食器は私が洗い、彼女が朝方それらを片付ける。そして毎朝10分の体操を行う。

それが私たちの日課だ。

祖母には幼少の頃からよくお世話になっていた。
母方ということもあり、生まれたばかりの時からお家にお邪魔したり、
よく公園や家の中でも一緒に遊んでもらっていた。祖父は私が小学生の時に他界してしまったが、二人揃ってよく可愛がってくれたことを覚えている。父の仕事の都合で転勤が増えてからも、長期休みには顔をみせ、年に一度は会っていた。海外留学や高校での寮生活、大学進学時に一人暮らしを始めた時も、直接会える事は少なくなったものの、季節の変わり目には手紙を添えて、お菓子や野菜、日用品などを送ってくれては気にかけてくれていた。
そう思い返すと、恩返しをするいい機会なのかもしれない。

一緒に住み始めて最初に作った夕飯は、鮭の包み焼きだった。
祖母に手料理を振る舞うのは初めてで、どこか緊張していた様に思う。

というのも、彼女は「好き嫌いはないからなんでも食べれるわよ」と以前から言っていたが、いざ料理を振る舞うとなると、私は彼女の好みをあまり把握していなかった事に気がつき、少しばかりショックを受けていた。
昔から知っているはずなのに、私はあまり彼女のことを知らないのかも知れない。と、この時初めてそう思った。
そんな不安そうな様子が少なからず伝わったのか、「美味しいわ」と言いながら祖母は残さず食事を平らげてくれた。
今になれば、考えすぎだと自分にツッコミを入れるところだが、当時は長年一人で暮らしてきた祖母にとって自分は邪魔にはならないか、かえって彼女の負担にならないだろうかと様子を伺っていたこともあり、あまり気持ちに余裕がなかった様に思う。

そんな内心、なんだか自分が薄情に思え、もっと彼女を知らなければと思った。
「いつから家庭菜園をやっているの?」
春菊のおひたしを食べながら聞いてみた。
「自分で始めてからはかれこれ30年近くになるわね。大根にエンドウ、ソラマメに長芋に。夏にはキュウリにおナス、トマトにスイカも取れるわよ。」
彼女は農家の家に生まれ育ち、育てたことのない野菜は無いのではと思うくらい、色々な作物を育ててきたらしい。
その他にも、田植えをはじめ、味噌作りに干し柿作り、俵作りと、なんでもお手製のものを自給自足する生活を送っていたという。
「梅干しは毎年一人で10キロは干してたわね。」
そのため繁忙期には学校終わりから夜遅くにかけて、欠かさず畑に出ていたそうだ。
中でも大変だったのはさつまいもの収穫だったという。
昔は近所にデンプン製造所があり、そこにさつまいもを持っていくことで、油と交換してもらうことができたらしい。その為、たくさん育てては俵に入れて運んでいたという。そして必然的に、さつまいもはおやつとしてもよく口にしていたという。
「他にはどんなおやつを食べていたの?」
「お米からあられを作ったり、私の父がそばを打つのが好きでね、よくそのあまりから作ったそばがきをおやつに出されたのよ。今じゃ贅沢とも思うけど、当時はあんまり美味しいと思えなくて嬉しくなかったわね。それよりも、畑仕事のときに自転車で来てくれるアイス売りの人がいてね、そのアイスを食べるのがとても楽しみだったわ」

彼女の実家はどこにあるのか、どんな風景だったのか。彼女の故郷は知らないはずなのに、なぜだかその情景を鮮明に思い描くことができた。

「なんかいいなぁ。おばあちゃんのお父さんはどんな人だったの?」

祖母の父はとても自然が好きな人で、彼女が一番影響を受けた人なのだと、話を聞いていくうちに伝わってきた。彼は家の庭を手入れするのが好きで、他の家ではあまり見かけない様な草花を育てていたという。五葉松やもくれん、きりしまつつじをはじめ、色とりどりの、季節を感じることのできる空間だったという。そんな彼の面影は、彼女の野菜づくりや花を愛でる姿勢に十分に受け継がれている様に思う。

「せっかくだからおばあちゃんの昔の家、見てみたいな」
「見てみたいって言ったって、ずいぶん遠いわよ」
「今は携帯の地図アプリから航空写真も見れるんだよ、ほら」
「あら、こんなこともできるの」

小さな会話を重ねる度に、私は想像の10倍の100倍、祖母のことを何も知らなかったと思い知ったのだった。

彼女は24歳の時に嫁ぎ先として今の家へと越してきた。

祖父と祖母は隣村の生まれだったが、祖父は幼少の頃に養子として村の外に出たことで、お互いを知らぬままに育ち、親族の紹介によって結婚したという。

初めての結婚生活を、知らぬ土地で知らぬ義父母と始めるのはさぞ不安だったと思う。
最初の頃はお姑さんに家事を教わり、着物の縫い方や季節の行事ごと、ご近所付き合いを学んだという。当時は少しずつ核家族化や共働きをする家庭も増えていたというが、やはりいざという時はご近所同士が助け合うのが重要だ、という気持ちを誰もが持ち合わせており、日頃からの付き合いが盛んだったという。その根本的な認知の一致は、戦争経験にあるようだった。
祖母は小学2年生から6年生の時にかけて戦争を経験した。
その当時は戦争のための備えとして、勉強の時間は無く、代わりに非常食となる作物を育てたり防災用具を作る作業を学生が行っていたという。もう少し年上の世代は学校で爆弾や武器の製造などを担う必要もあったそうだ。
祖母の父と兄は戦地へ赴き、夜はいつ鳴るかもわからない空襲警報に怯えながら、狙われないようにと家の明かりを全て消して過ごす毎日。防空壕にも何度か避難を強いられたという。そんな時に支えとなったのは、家族をはじめとした、身近な人同士の声かけだったそうだ。当時の状況下で気持ちを強く保つこと、励ましあうことは生き抜くために必要不可欠だった。その過酷さは今の私には計り知れない。

「今日は大葉とズッキーニに、コスモスもたくさん採れたわよ」
夕方、祖母はいつも両手いっぱいに収穫物を抱えて私に見せてくれる。
2人で食べきれないくらいの収穫に、
「これはお隣さんと、こっちはお向かいさんの分ね」と嬉しそうに話すものだから、つられて私も笑顔になる。
家の中には採れたての野菜以上に、お庭で育てたお花もたくさん飾られている。
窓際にも戸棚にも、ふと目を向ければそこには必ず植木や花瓶が置いてあり、季節の花が咲き誇る。
「今年はせっかくだし梅シロップでも漬けようかしら」
「それなら梅干しも漬けてみたいな」
「そうねえ、1、2キロならできるかしら。」
季節のものを見て、食べて味わい、昔ながらの慣習を重んじる生活は、今を生きるという意味を実感できる。
そんな時間を過ごす中で、私は少しずつ、日常に小さな工夫を凝らす様になっていた。
それまで作ったことのなかった料理に挑戦してみたり、彼女の摘んだ花をドライフラワーや押し花にして飾る様にもなっていた。

「素敵ね」

そう一緒に楽しめるのが嬉しくて、次は何を作ろうかと、今日のお昼はクレープを作り、小さなブルーベリーとバニラアイスを添えて一緒に食べた。

もしかすると私は、祖母が今まであまり体験してこなかったものを楽しんで、笑顔でいる姿をみていたいのかも知れない。


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