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第三十五回「クソと退屈」

5月22日。
俺は俺の音楽史(誰も知らない)史上初の試みをする。

銀杏BOYZのカバーを人前で歌うのだ。
それはなんというか、とても言葉にするのが困難な感情なのだけれど
32歳の今、こうして”やっと”歌える日”が来たのが少し嬉しくもある。

多分。カバーよりも「自分の曲を歌えるのが嬉しい」というのが
当たり前の音楽家としての感覚なんだと思うけれど
俺は隠したくないのだ。彼らを好きだということを。

俺は普通に嬉しい。人前で彼らの歌を歌うのが。

よく自分の好きなアーティストを表現するときに
「いつだって○○は自分のそばにいてくれました」という例え方をするが
それってめちゃくちゃな気がしていて。

「いつだって俺は◯○に救いを求めてました」なんだと思うんです。
なんでちょっとカッコつけてそう言うのかはイマイチわからないんだけど
俺は完全に銀杏に救いと衝動を求めて縋ってたんだと思う。

銀杏は決して俺の傍になんか居なくて
ちょっと上空(もしくは小汚い地下室の中)から五月蝿いノイズをギャーギャーとまるで怪獣みたいに垂れ流してて、そして聞く人を選んでいたように思えるのです。

俺たちが銀杏を選んだんじゃない。
そんな気がするのです。

もうこんなの宗教みたいなもんで
バンドは違うけど毛皮のマリーズの志磨さんもタワーレコードのポスターかなんかで言っていたけれど
「音楽は最も身近な宗教」みたいなことを言っていて俺はその文章を読んだときにものすごく衝撃的だった記憶がある。

寝ても覚めてもその言葉が頭から離れずに狂ったようにバンドって名前の宗教にどっぷり浸かってしまっていたんだと思う。

その先頭にいたのが銀杏BOYZだった。
こうして文章にして彼らの話をするのは些か野暮な気も本当にしていて
尚且つクソみたいにまとまりがなくて何を伝えたいんだかわからない文章になってしまっているのだけれど
それってなんとなく正しい気がしていて。

あのクソな青春時代を文章に表すほど感情は分かりやすくはないし、
どう表現したらいいかわからないから俺は音楽に映画に漫画にお笑いに縋った。

とにかくこの感情の名前と解決策を知りたかった。
この感情は後に爆発して今もこうして音楽をしてご飯を食べているわけだけれど。

そんな10代の全てを30代になってから歌うなんて思っていなかった。
だから、あの頃の俺がもし居るならそいつに認められるように歌いたい。

22日。あなたと過去の俺を待つ。

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