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意識高い系男子

「意識高い」という言葉、あまり好きではない。

昨日友人と話していて「意識高いという言葉は悪だ」という結論に至った。

そういえば、昔から意識高いと言われることは多々あった。

八方美人だし、怒るのも違うので、もはや自虐的に「俺は意識高い系だから」と笑って流していた。

中学の時、受験前は昼休みに大好きなサッカーを我慢して勉強した。そのときはガリ勉と言われたな。あの時窓から見ていた景色は一生忘れない。

高校ではあまりそういうことを言われなかった気がする。だから居心地が良かったのかも。努力することが当たり前だったし、それを認めようとする雰囲気があった気がする。

人はどんな時に人を「意識が高い」と認識し、言われる側はどうしてそれに違和感を感じるのか。


キョリ、が生まれるのだと思う。


言う側は自分を低いところに置いて、相手を見上げる。言われる側はなぜだか自分以外を下に見てるような高さに急に上げられ、謎の罪悪感とイタイ奴感を浴びせられる。

僕らは上にいるのではない、上を、前を見ているだけなのに。

いつのまにかキョリをとられて、キョリができて、そこに寂しさを感じるのだ。

日本語は美しい。もちろん好きだけど、あまりに複雑すぎて、表現し難い状態を生み出すなぁと思う。

意識高いという言葉をストレートに、そして感覚的に同じように表す英語はないんじゃないかなとも思う。


その友人は「海外の人の方が話していて自分の心にスッと入り込んでくる」と言う。

スタンスや文化の違い、価値観もあるかもしれないが、日本語のあまりにも豊富な表現とニュアンスが、人の心に入り込むことを阻んでいるのかもしれないと思った。


少しずれた。

意識高いと安易に浴びせる人はたくさんいるが、結果的に努力することを軽視して、そこから逃げているような気がする。

努力という行為はすごく尊くてかっこいいはずなのに、なぜ努力を受け入れないような言葉ができてしまったのだろう。


オリンピックではきっと国民のほとんどが日本を応援しただろうし、努力が実を結んだ瞬間を目の当たりにして、涙することもあったと思う。

そんな風に友達や周りの人の「意識の高さ」も受け入れられたらいいのに。

意識のベクトルがスポーツでなくても、仕事や趣味の場合もある。そこにも美学はあるはずだ。

どんな分野においても、意識を高く保つには、弛まぬ努力が必要なのだ。

たぶん本当に意識の高い人は、そう言われることを全く気にしない。というより、気にならないのだ。

僕は前述の通り八方美人なので、そう言って来る人ともうまく付き合う方法を考えてしまう。

だから普段誰かを「意識高いね」って小バカにしちゃうことがある人と、そう言われたらちょっと気にしちゃう人にこれを読んで欲しい。

意識高いことは、かっこいいことなんだ。

たぶん誰もが素直にその努力を認めたら、もっといい世の中になると思う。みんながもっと上を、前を向いて高みを目指すことに躊躇がなくなると思う。

全員がそうじゃなくていいけど。
周りの目を気にしている人もいるはずだから。

と、まあこんなことを考えるくらいには僕も意識が高い。

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