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ダサいファンク 笑 (Daft Funk)

1980年に YMO で音楽に目覚めその後UKポストパンク/ニューウェーブにはまり、89年秋~90年春にイギリス留学。その時住んだロンドン北西部の Harlesden (ハールスデン) という町でハウス、ソウル/R&B、レゲエ etc. にも親しむようになり現在の音楽嗜好がほぼ完成

御年57の Soul/Punk/Funk Veteran!! (All Soul 自己紹介)|Allsouladelics (オールソウラデリックス) (note.com)

UKポストパンク/ニューウェーブにはまったきっかけは1983年春に近場で一番の都会、豊橋の高校に入学したのを機に入り浸るようになった豊橋駅近くの輸入レコード屋。そこで「時々見かける名前たけどなんか怖い」と感じてずっと手を伸ばせなかったバンドが。それはUKポストパンク/ニューウェーブを代表するインディーレーベル、マンチェスターの Factory Records に所属してたバンド A CERTAIN RATIO (ACR)

結局 ACR は一度も聴かないうちに1980年代が過ぎていき、彼らのサウンドに初めて触れたのはイギリス留学中の90年1月に思いがけずラジオで耳にした、当時の彼らの最新リリース 'Four for the Floor' EP のリードトラック "Good Together"。なんともへたれなハウスミュージックで妙に心地良く、同時に「なんで昔こんなのが怖かったんだ?」と。それきっかけで後追いで ACR にのめり込んでいった

1982年秋のニューウェーブファンク

ACR のキャリアは大雑把に二つに分けることができて、まず第1期が1979年のデビューから82年前半。その頃はいかにもポストパンク/ニューウェーブってかんじのアバンギャルドで尖った、それでいてジャズ/フュージョン、ラテンの要素も垣間見えるというある種意味不明なごった煮サウンド。豊橋の輸入盤屋で怖いと感じて手を伸ばせなかったのはそんな第1期のレコード。そして82年後半以降が第2期。ここからなぜか急にポップ、それでいてなんか垢抜けないファンクサウンドに変身。All Soul はそんな第2期が圧倒的に好きで、↑ の自作ミックスはそのスタートとなった82年秋リリースの4thアルバム ’I’d Like to See You Again' 収録曲の、かつて運営した海外レコード取寄せ販売サイトの仕入先提供試聴サンプルをつないだミックス。「ダサいファンク」ってことで "Daft Funk" と名付けた (笑)

収録曲

  1. Guess Who

  2. Knife Slits Water (12" Version)

  3. Touch

  4. I'd Like to See You Again

Hacienda (ハシエンダ)

それにしても1982年の ACR、第1期から第2期への大胆な変貌は何がそうさせたのかと推測すると、まず思いつくのは第1期でサウンドプロデュースを務めてた Martin Hannet が手を引き、Factory Reocrds の総帥 Tony Wilson がマネージメントに加えプロデュースも自ら手掛けるようになったこと。あと大きいのが Factory と NEW ORDER の共同経営で後に伝説と呼ばれる存在にまでなったナイトクラブ Hacienda のオープン (Martin Hannet が離れたのもそれがきっかけ - 「くだらねえ」と吐き捨てて)。この頃は Factory 全体としてエレクトロ/ダンス方面にシフトしてて、NEW ORDER の面々が手掛けた Factory 一連のダンスチューンに ACR のメンバーも時々駆り出されてて「Hacienda の箱バン」の異名も (この投稿冒頭の画像 'I'd Like to See You Again' のジャケ写も Hacienda 店内)

ちなみに ACR 1982年の第1期から第2期へのシフト期のエピソードは2002年の映画 '24 Hour Party People' でも取り上げられてて、当時の Hacienda でのライブでは Tony Wilson から「地味、ぱっとせん」という理由で開演前の楽屋で渡されたお揃いのテニスウェア上下という姿でステージに立ったという (ダサ 笑)

この "Wild Party" のリミックスを手掛けたアーティスト Fila Brazillia の名前は、上述のテニスウェアのエピソードから取ったという噂も (テニスウェアと言えば "Fila" !?)

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