ぎこちなさ|20220211

積雪の影響で、いつもとは違う路線での出動になった。幸い最寄りが始発なので、ガラガラの車両に乗り込み、カバンから読みかけの本を取り出してしばらく読んでいた。
走り出したころは空いている電車も、都心に近づくとだんだん混んでくる。次の停車駅で降りる、というときに私の前にも一人、初老の女性が立った。すこぶる目が悪いので、ほんとうに初老の方なのかはあまり自信がない。もっとお年を召されているようなら席を譲ったほうが絶対いいけど、40代くらいかもしれないから気にすることないかもしれない。何より自分はまだ座っていたい… みたいなせめぎあいが心の中で沸き起こり、もだもだしているうちに降車駅に着いた。読みかけの本をものすごくぎこちない手つきでカバンに押し込み、電車を降りた。

それから、大学でのこと。ものすごく久しぶりに会った他研究室の5個上の先輩と話した。まあまあ盛り上がったけど、ずっと違和感があった。上っ面はスムーズに話せているけれど、なんかぎこちない。まったく感情の動いてないことにも「へ~!」と一生懸命言ってみたり、適度にふざけた返しをして笑ってみたりした。相手もたくさん話してくれたし、こちらも返して、会話のリズムはよかったのに、すごく疲れたし、結局何も話していない気がした。

同期にも会った。興味はあるし、なんか一緒に話せそうなこともあるけど、いつもその話題には別に行きつかない。今目の前で直面してる状況について一言二言言って、居心地悪くなって解散する。今日もそうだった。

・・・

いつにもまして自分の振舞のぎこちなさを感じた。支払いの時にカバンひっくり返して財布探したり、パスタを食べるときにいつまでもフォークにうまくまけなかったりもするけど、なんでこんなにどうでもいいようなところでスムーズにいかないんだろう…
今日大学に行ったのは、作品監視の仕事があったから。なんども作品の再生に立ち会いながら、頭を無にしない集中の仕方ってあるなぁと思ったりした。作品を鑑賞するとき、心を無にして体験しようとしてしまう癖が自分にはあるけれど、何かを感じて、感じたものと、それを与えた物理的な現象を結び付けて解釈しつつ、自由なことを考えながら体験する方法もあるな、と。

ぎこちなさが現れるのは、集中力の途切れ目のような気がする。集中して本を読んだそのあとだったり、集中して商品を選んだそのあとだったり。"今ここで"直面していることに集中して行為を遂行しているので、違うフェーズに突入することに、そのときにならないと気が付かないというか。
あとさきを捨てて今ここに集中することもいいけど、考えつつ、あとさきまで集中力を伸ばして生きないと、突然現れるぎこちなさにいつも困惑することになるのかもしれない。とか思った。

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