部活は場ではなく制度である、という仮説について(1)

先日、久しぶりに母校の吹奏楽部の手伝いに行った。校舎や音楽室の変わらなさに懐かしさを覚えつつ、でも制服を着ていた時とはずいぶんと変わった同期や後輩たちの姿や、もう名前と顔が分からない現役生たちの姿に、学校の中身はすっかり変わってしまったことを感じたりした。

リハーサルとはいえ、OBとしてなにかしなければならないことがあったわけではないので、自分がいたころの顧問と交代したばかりだという新任顧問の様子や、ステージを想定して本番通りの進行をこなしていく後輩たちの姿を見守っていた。3時間ほどで、音楽室の匂いや空間や、吹奏楽部の慣習が身体の中に蘇ってきた。同時に、自分が部活にいたときに抱えていたもやもやも、まざまざと思い出した。

私は、楽器を吹くことが好きだった。部活がない日でも勝手に学校に来て、空いている教室をみつけて、追い出されるまで延々と基礎練習をしていた。午前の半日練のときは、午後も残った。何か特定の音楽ジャンルが好きとか、テクニックの習得に熱心だったというより、ただただ楽器を吹いているという身体の経験が好きだったし、それを修行のようにこなしていくことを自分のルールにしていたのだと、今は思う。当時は言葉にして考えることもなく、ただただ楽器をひたすら吹いていた。

そういう生徒だったので、吹奏楽部の活動にたいして、もやっとした思いを抱くことも少なくなかった。パート練やセクション練、基礎合奏。組織としての吹奏楽部の音楽のクオリティを保つための練習であり、そこでは先輩や後輩という立場関係を前提にしたコミュニケーションが行われる。コミュニケーションが充実すればそれでいいのであれば、もっと楽しい時間になるのかもしれないが、私がいた部活では、必ずしもそうではない時間も多かった。合奏中に音程が合わないとひたすら音程を合わせ、合わないと追い出されて別室練習を指示される。戻ってきてもできていなければ、暴言を吐かれる。稚拙なタンギングだとひとりだけ抜き出されて何回も吹かされて、罵倒される。よい音楽を指向するためだけの組織であれば、別にそれは当たり前のことだと思う。
ただ、私の通っていた学校は進学校で、音大に行ったり、大学でも楽器を続ける生徒はそんなに多くなかった。そういう中で吹奏楽部に入ってくるのは、本当に音楽そのものが好きなタイプもいたし、中高時代に打ち込むものの何かとして吹奏楽部を選んだタイプもいたし、放課後の居場所としてとりあえず、というタイプもいた。そもそもの加入のモチベーションが違う人たちが集まれば、コンクールを絶対的価値観としたときの音楽クオリティの追求に伴って生まれてくる、"居心地の悪い時間"の摩擦が大きくなる。毎年、人が辞めていくのはコンクールの時で、目的をもった途端に排除の論理が働く場所なんだなとぼんやり思った。

他人事のように排除の論理といったが、自分でそれに加担した記憶もある。コンクール前、部活にそもそも来ない部員や、部活に来てもコンクール以外の目的のために楽器を練習している部員に憤りを感じたらしい顧問が、合奏を中断して、そうした部員たちを糾弾するような時間を設けたことがある。その際に、部活に来ていた部員からも何か意見をいうことを求められ、その場の雰囲気と、父権的な力への恐怖と(ちょうど父と折り合いが悪く、自分も母も暴言を吐かれ精神的に疲弊していた時期だった)で、そういう人はもう部活に来ないでほしい、という旨の発言をしながらわけもわからず泣いた。
次の日から、後輩が1人来なくなった。やがて退部したと聞いた。最近個人的に外部の先生についてきちんと楽器の練習をはじめたと聞いて、がんばってね!といったばかりだった。学校の中ですれちがっても、同じバスの中で会っても、すっと避けられ、その日から口をきいたことは一度もない。

部活に目標があってもいいとは思う。部活動経営において重要なのは顧問の存在で、顧問が給料も出ない労働外の時間で、自発的に指導や場のセッティングをしてくれる状況を前提として部活動がなりたっていることを考えれば、顧問はいわばホストで、生徒はゲストである。そう考えると、ホストの意向で部活動の性格が変わるのは、当たり前のことである。比較的新しく、生徒のほうから提案して、顧問を頼んで成立した部活であれば、また状況も違うのかもしれない。でも、顧問の交代を経つつも存続しているサッカー部や野球部などの運動部でも状況は同じなのではないだろうか、と密かに考えている。

部員たる生徒にいっさいの決定権がないというわけではない。部活動も一応教育的な目的を持つ場でもあるし、自主運営が行われることは望ましいことであると考えられてもいる。それはコンクールという目的に向かって自主的に計画を立てて練習をとりおこなうということであったり、より長い経験をもつ先輩が後輩に教えるということであったりが行われる状況について想定した考えだろう。学業を優先して部活の休みが多い先輩が、楽器に全振りしている後輩にどう向き合うかという問題や、そもそもコンクールのためにすべての時間を割くことに同意できない部員が、どうその場にいればいいのかという問題は、想定されていない。

結局、そうした問題は、個別のコミュニケーションでしか解決できないものだと思う。個々の背景と人格を持っている人間として、なぜそういうモチベーションでこの組織に属することを決めたのか、そもそもどういうつもりでここにいたいと思うのか、どういうところにもやもやしているのか。マニュアル化できるものでもないし、話せば少しは分かることでもある。ただ楽器を吹いてもいい居場所としてほしいのなら、そういう距離感のとりかたを探すこともできるかもしれないし、強引に引き入れたほうがよさそうな人もいるかもしれない。それはその人と向き合うまで絶対に分からない。

そういうわけで、吹奏楽部という部活そのものは、学校に付随する制度でしかなくて、場はコミュニケーションの中にしかないものなのではないか、と考える。コミュニケーションの仕方が父権的で、トップが決めたことに従う形の部活は、コンクール的価値観の中で"強い"のかもしれないけれど、そこではどれだけのいかたが許されるのだろう、と思う。そういう部活は別にこういうことは気にしないのだと思うし、そういう部活があっても、別にいいと思う。そこに憧れる子もいるのだろうし。
でも、もう少し上手に話したり、ほうっておいたりできたら、いられるひとはもう少し多いんじゃないかと思う。


ただ、私は比較的曖昧ないかたをしていて、そういう人たちとつるんでいたくせに、追い出してしまったことや、途中でいなくなった人たちがどこにいったのかがずっと気になっていて、それが喉に引っかかった小骨みたいにずっととれていない。そう気に病むことでもないのかもしれないとも思う。自分の想像以上に、あっさりと楽器を手放して、空き教室で気の合う友人たちとだべっていたのかもしれないし、買っちゃった楽器を年に何回かは河川敷で吹いているかもしれない。もっと面白い別なものをけっこうすぐに見つけられていたらいいな。

以上はただの私の仮説である。
自己流に勝手にコミュニケーションをとって、勝手にその場にいる人達の集まりだったら、もっと面白い音楽できたんじゃないかなとか、思ったり。これはただの執着か空想でしかないけど。


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