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「#わたしのおすすめ本10選」、このハッシュタグ、ムズくね? その二。

「グレート・ギャツビー」 
F.スコット・フィッツジェラルド著×村上春樹訳


「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

 上の文章がこの本の書き出しである。

 アメリカ文学の金字塔。
 ヘミングウェイの急激な劣化の後、アメリカ文学を支えたのがフィッツジェラルドである。この大文豪の圧倒的な代表作がこの本。
 物語の舞台は、NY市(マンハッタン)とロング・アイランド(イースト・エッグ、ウェスト・エッグ)。
 ただし、ロング・アイランドにこの土地は存在しない。あくまで架空の場所である。
 ……僕は、ロング・アイランドに実際に赴くまでこの事実を知らなかった。
 初めてロングアイランドに行ったとき、この架空の地、「イースト・エッグ」と「ウェスト・エッグ」に行こうとして、タクシーに乗った。
 存在しない場所を求めて、4時間くらい車で彷徨った。

「存在しない」場所。

 しかし確かに僕の心の中にはしっかりとその風景が刻まれている。
 僕はその場所の空気を肌で感じ、太陽の光を浴び、鳥の声を聞く。
 その架空の場所は僕の中に確実に「存在している」。
 あるいは僕自身がその場所の中に確実に「存在している」。

「存在している」場所。

 僕がこの小説から学んだことは、「高貴」であることの意味。
 ギャツビーはどんなに不遇な環境に陥っても、決して高貴さを失うことはない。裕福層が集まったパーティーで、空虚な会話が繰り広げられる日々。それをシニカルに眺めながら「人生など飛行機の乗り継ぎ時間のようなものでしかない」と悟る。バカバカしく無駄な時間を過ごしながらもう高潔さを失わない。都市と田舎、虚飾と純粋のコンストラストに物語全体が覆われている。
 もはや古典の範疇に入る作品であるが、僕はこの作品を同時代的に読み取ったし、今現在を生きる僕の人生を大きく揺さぶった。
 僕が偶然に知り合ったロングアイランド出身の帰国子女の友人も決して高貴さを失うことがない。いついかなる場合、どんなに下らない、ただただ人生を浪費することに巻き込まれたとしても。 
 僕は常に気高さをまとって生きてたいと思う。プライドを失った人間は惨めだ。

 僕は、この作品をオーディオブックで「英語」を聞きながら、村上春樹の翻訳した「日本語」を読むのが好きなのだけれど、時折「おい? 今のはなんだ?」という感じで、耳と目の歩調がずれる。
 村上春樹独自の意訳というか、超訳というか、「英語ではそこまでは言ってない」ということが日本語になっていたりするのだが、それもまた魅力的である。なんと言っても、それが村上春樹の書いた文章だから。

「耳で英語、目で日本語」。
 この形式で読書をすると、またその作品の新たな魅力に取り憑かれます。
こういう楽しみ方は、ごくごく少数のマニアックな人しかしないと思いますが。

 いずれにしても。
「ロングアイ・ランド」を僕がホームタウンと言って憚らないのは、そういう理由がある。
 僕が初めて行った異国の地。
 原風景。


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