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「麒麟」がくる に反応した十二国記ファンの人、はーい

2020年の大河ドラマは「麒麟がくる」なわけです。

なんだと・・・?「麒麟」?
麒麟という単語を軽々しく使わないでいただきたいものだね!
この生粋の十二国記ファンの前で!٩(๑`^´๑)۶

と思ったあなた。この記事は十二国記ファンのための記事です。
主上の麾下(きか)の者たちの集まりとも言えますね。

NHKの公式サイトにはこうあります。

仁のある政治をする為政者が現れると降り立つ聖なる獣・麒麟を呼ぶのは、一体どの戦国武将なのか…新たな時代の大河ドラマが今始まる!

ふーん、仁のある政治をする為政者が現れると降り立つ聖なる獣?あ、麒麟ってそういう意味だったんだー。へー勉強になった。

・・いや、違う違う。

いいですかみなさん。麒麟をGoogleで検索してみましょう。何が出てきますか?

麒麟は、中国神話に現れる伝説上の霊獣である。 獣類の長とされ、これは鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる。

なるほど。獣の長が麒麟、鳥の長が鳳凰なわけですね。これは男子心をくすぐられます。

麒麟は、将棋の駒の一つ。

何?麒麟は将棋の駒?この生粋のにわか将棋ファンの僕でさえ、そんな駒があったことは知らないぞ?

本将棋にはなく、中将棋・大将棋・天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋・大局将棋に存在する。
中将棋では成ると獅子の特別ルールが適用される。

ほー。中将棋、大将棋、天竺大将棋?なにそれかっこいい。
しかも成ると獅子。歩が金に成るのとはわけが違う。
・・・そっちに興味が行きそうですが、ちょっと落ち着いて。

今回の記事は、十二国記のファンの前で、たかが大河ドラマが、この世界に十二しかない麒麟を語るな、という内容。

さて、Googleで「麒麟 十二国記」と検索すると約 2,540,000 件。すごい数です。では「麒麟 大河ドラマ」で検索すると、 約 5,420,000 件・・・ん?大河ドラマの方が圧倒的に多いじゃないか。

さすが大河ドラマ。やはりマイナーな小説とは知名度が違う。NHKを倒すことは無理なのか。そう、貴様は詰んでいたのだ、初めから

・・・このあたりで読むのをやめずに付き合ってくれる人はどれだけいるだろうか。あ、そういえば十二国記のアニメをやっていたのはNHKじゃないか。やはりNHKは良いものをわかっている。

十二国記。のDVD。

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いい。ひじょ~に、いい。

人は、自分の悲しみのために涙する。陽子は、慶国の玉座に就きながらも役割を果たせず、女王ゆえ信頼を得られぬ己に苦悩していた。祥瓊は、芳国国王である父が簒奪者に殺され、平穏な暮らしを失くし哭いていた。そして鈴は、蓬莱から辿り着いた才国で、苦行を強いられ泣いていた。それぞれの苦難を負う少女たちは、葛藤と嫉妬と羨望を抱きながらも幸福を信じて歩き出すのだが──。
(新潮文庫「風の万里 黎明の空」書籍紹介より)

陽子は苦悩し、祥瓊は哭き、そして鈴は泣いていたー。この紹介文だけで、この作品の深みがわかるというものです。うんうん。

一方、キリンが来る。

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いや、キリンやないか!(コーンフレークやないか!みたいな感じで)

さて、十二国記の中で、麒麟は特別な存在です。

この世界で最高位の霊獣。天意に従い、王気を備えた人物と誓約を交わし、「王」を選ぶ役割をもつ。王が玉座に就くと宰輔として側に仕え、運命を共にする。
(新潮社公式サイトより)

これは冒頭の「仁のある政治をする為政者が現れると降り立つ聖なる獣」に近いですが、ファンならおわかりのように、この説明と十二国記の麒麟には決定的な違いがあります。

それは、王になろうとする為政者が麒麟を選ぶのではなく、麒麟に選ばれたから王、ということです。しかし、たまたま選ばれたからラッキーというものではなく、麒麟に選ばれるということは、王たる資質を持っていることと同義です。なぜなら、麒麟は、世の安寧を願う天の意の具現化した姿なわけですから。(何を小説の設定にそんなに真剣になっているのだとお思いの方、真剣だから面白いのだ)

一般的に、王というと絶対的な存在ですよね。それを選ぶ存在である麒麟は、やはり特別な存在であるわけです。

麒麟が明智光秀に来たのか?王は明智光秀か?

明智光秀の天下が短かったことは有名です。では明智光秀は王ではなかったのかというと、しかしその短い間、王だったのでしょう。麒麟は来た。しかし、王座は長く続かなかった。明智が信長を討ち、秀吉に敗れるまでのその期間は、13日だったそうです。

短い治世といえば、予王・舒覚。あ、砥尚も短かったはず。砥尚といえば、退位の際に

責難は成事にあらず

という句を遺しました。これ、本当にあるのかな、と思った人も多いのでは。十二国記がオリジナルです。しかし何がオリジナルかはどうでも良いです。そういう意味では本当にある。

責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず。
つまり、責めたり非難したりすることは、事を成すことではない。

何かを気に入らないからと攻撃したからといって、攻撃した自分は、何かを成し遂げたことになるだろうか?ーいや、ない。
この認識こそが自分の成長の機会をもたらしてくれるのでしょう。

まぁ才は采王という賢王がいるので置いておいて、泰を心配しなくては。
驍宗は生きている。泰は救われると信じて、王の帰還を、待つ。

ー泰王のもとに、麒麟は来る

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