自己責任論と選択肢の多様性の問題

村上春樹さんの 1Q84 のタマルのセリフに

「説明しなくては分からないということは、

説明しても分からないということだ。」

とある。そうやなぁと思う。 なので わからないでほしい。

これが書きたいことなのかどうかも定かではないし

書きたいことがかけるとも思えないが あえて。

自己責任論と選択肢の多様性の問題

社会責任論とそれにより広がる世界

自ら「選択」し、それを言質としてそれに縛られ「責任」を負うこと。

たとえばファミレスのメニューのように

たくさんのしかし「すでにある」限られた選択肢を提示され

その中から「選ぶ」ことによってさも「自分」で選んだように

思い込まされてしまうけれど

本当は「そこにない」ものは

「無限のひろがり」のごとく圧倒的に多いわけで 

その「選択」は止まらない思考を停止したいがゆえの「限定」でしかない。

それに人生を規定され「責任」をとらされてもどうなのか。

そもそも 自ら「選ぶことができる」ということそのものが

『幻想』というか「詭弁」の範疇にあるのかような

居心地の悪さを感じるときがある。

夢は叶う。思考は現実化する。

ということに含まれるある種の「ここち悪さ」のような。

「思考」(過去の概念の集積)で 「選ぶ」ことと

「直感」(意味や理由の外のもの)に「従う」こと 

 

一体、我々は なにに 「従って」いるのだろう。

それぞれがバラバラになんのつながりもなく

自己選択と自己責任の上に人生を送れるのだしたら

なにゆえこんなに さまざまな人生が絡み合い しかも

どんなドラマよりドラマチックな脚本が寸分の狂いなく展開されるのか

また本当にバラバラなのだとしたら

いったい誰がその自己の集まりである社会を創造できるものとして認識し

その限りない自由と責任を負うことができると信じることができるだろうか。

さかさまの見方をして

全体の大きなもの(すでに書かれた脚本としてもいい)に選ばれて(従って) 

僕らの道は規定されているとしたらどうだろう

それは集合意識と呼ばれるものかもしれないし

大いなるものと呼ばれるものかもしれない。

全体を規定するそのなにかによって 「我々=WE」は選ばれ

また今おかれている環境や状況も それによって選ばれ、

それ以外はありえないとしたら。

その視点に立つと いまあるところから なんとか逃れるために 

よりよい選択肢を発見しようとすることよりも

(成長という幻想は現状を肯定できないものの

体のいい逃げ口上のようにもおもえるので)

いま選ばれた(それ以外にない)この現状を

どうにかこうにか受け入れそこを基点として

次々に起こる出会いやうごめきを味わいながら進めるんじゃなかろうか。

ー選択肢を増やすために見聞を広め資格をとりまたありとあらゆる準備をすること 

ー増やした選択肢の中からもっともふさわしい選択を検討するために 

 何本もある分かれ道の前で立ちすくむこと

ーまたしてしまった選択のほうになんとか自分を合わせようとして苦しむこと

こんなことに いかに多くの時間と労力と心を砕いているだろうか。

「いま」に「従い」世界や社会をつくっているものとしての

 WE(もちろん自分を含む)を

認識した上で 浮かぶこと出会うことに 乗っかっていくことから

ひろがる ドキドキする世界は 自分の 躍る“心のサマ”によって

世界が変わっていくことを ありありと感じるための 扉であり鍵なのだ。

自らによって自らを規定することも変革することも叶わず

自分を選択することもできないことに 僕らは うすうす気づいている。

すべては すでに起こった未来(脚本) を たどる 

心躍る体験なんじゃないかと。

社会責任論というには ちょっと飛躍しすぎたが

社会を作っているのは 他でもない 私をふくめた WEで

よりおもろい社会をつくることができる存在として 自らを扱うこと 

それは 自分の周りに広がる社会(世界)に責任を感じる(もつ)ことであり

そこに立った上でしか最高潮に 

自らの 存在を そこに広がる世界の中でおもしろくしたり 

大好きなそして大切な人の瞳に映る世界を

素敵にすることはできないのだから。

とりとめのない 話になってしまったな。

自己に責任はなく また選択もなく

なにかに選ばれた 我々には 

ただ与えられた道 とそこにつながる関係に

どうしようもなく からめとられながら 

それを おもしろ おかしく 味わうために

この世に 活かされているのではないか。

まるで映画の キャストそのもののように。

この話は ときおり 降って沸いたようについついしはじめてしまうのだが

どこでしても ポカンとされるか 反発されるかで

それがゆえに なんとなく 

役者がそれを演じていることを悟られないように努めるように

みなどこかでそれをしっているのだろうとほくそ笑んだりするのだ。

少なくとも俺の時間は 未来からいまに流れこみ すでにされた選択に従って 

それをおもしろおかしく味わいつくしたく思っているのは確かなのだし。

成長と選択という 幻想に 脅迫的に絡めとられてしまう

イマドキの風潮に なんとなく アンチテーゼをしたい気分であるのだが

その 成長と選択 の 魅惑的な 魅力もわからんでもないし

ときにどっぷりそれにつっこむこともあるので

それを 否定しているわけではなく それ以外の世界の捉え方も

あるんちゃうかなーといってるだけなので あしからずーーー。

おもうところあれヴぁ コメントに。


20141130

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