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自分を幸せにすること

『自分を幸せにする』
私のワークショップでよくする言葉。
そしてこれを伝えたいがために7時間かけてお話ししています😂
しかし、わかりずらいですよね。

自分の仕事は自分を幸せにすること。

そのためには、
自分を知るということが大前提。
しかしながら、学校の授業の中で自分を知ることを学ばない私達は、
もともと小さい頃、
大いに自分のことを知っていたのに、
学校教育12年間の中で、
自分の外のことに合わせることをひたすらに学ばなければいかなくなる。
それゆえ、自分とは何かが全くわからなくなり社会に出されることになる。

自分を知らないので自分を満たせない。
それが鬱や精神病、対人恐怖症などあらゆる心の病気の蔓延、そこからの身体の病気を引き起こすという連鎖的人間病が現代の問題になっている。

そのためにも、"自分を知る"ことがいかに大事か。

『自分を幸せにする』はまず、
自分を知り、
"自分のために"を実行すること。

しかしながら、
この"自分のために"を勘違いしている人が多い。
"自分のために"というエゴの方だけで生きていけばいいと思っている人が意外と多い。

エゴの方とはどうゆうことか。
自分の心の底から生まれていない"自分のために"のこと。
=エゴ(お金・名声・物欲のために、など、自分の内側からではなく、外側との比較で生み出されるモノ)

これ、
結局自分の心を満たしていないので自分のためににはならない。

エゴのための"やりたい"は、
お金のためにやりたい、
名声のためにやりたい、
モノを買うためにやりたい。
その一瞬の欲を埋めるための欲求だから対処療法にしかならない。

薬を与え続けるのと一緒のこと。
どんなに薬を与えられても、
一瞬症状はよくなるけれど、
根本的な病気の治療にならないのと一緒。

自分の心の底から生まれている"自分のために"
は、エゴを埋める根本的な手段を知っている。
なぜお金がほしいのか、
なぜ名声がほしいのか、
なぜモノがほしいのか。
これらは目標にするのではなく、
目的で在るべき。
(目標→お金を持つ、ではなく、
目的→〇〇の"ために"お金がほしい、この〇〇を知ることが自分を知ること)

なぜお金がほしいのか
→〇〇を買うため
→なぜそれがほしいのか
→〇〇と話を合わせるため、
新商品が出たから、
持っていると羨望の目で見られるから
などなど。

一つ一つ自分に問いかけていくと、
心の底からお金がほしいのではなく、
自分の心を満たしたいから、
お金がほしい、
名声がほしい、
モノがほしい、
という手段に繋がっていることがわかる。

人は自分の根底の想いを叶えることに充実を感じるし、
それが満たされると、
もう、目に見えるお金・モノ・見た目に翻弄されなくなる。

そもそも、地球には、誕生当時、
お金も、モノも、名声も、見た目を気にする、なんかも存在しない。
だから、これらのモノから自分の持つ本能や直感が導き出されることはない。

せっかくやりたいことがパッと浮かぶ→直感(これで動いておけば大概うまくいく)
そこに、
"でも"お金ないし、
"でも"私には無理、
"でも"時間ないし→エゴ
(ここで雑念と言い訳をいれたらもう本当にやりたいことからはずれている)

エゴベースだと長続きしない。
思いっきり昔の私がそう。
お金がほしいから、
どんな仕事でもしていたとき。
→バリバリ働くからお金は貯まる、
→しかしやりたいことをしていないから働き過ぎて疲れる、
→数ヶ月しかもたない
→一瞬稼げても、朝から晩まで働いているから想い出がない
→働き過ぎて自分のことをする時間がない
→自分のやりたいことではないと、
また新しい職場を探す

これ、自分の心の根本、
"何をしたら幸せか"を知らないから、
永遠に続くスパイラル。
新しい職場で働き始めても、
数ヶ月後には同じ状態。

お金のために、
名声のために、
地位のために、
モノのために。
自分の外側にある情報で判断するエゴは、
どんなに瞬間瞬間、
埋めても対処療法だから、
何回でもほしくなる。
留まらない欲。

これがエゴの"自分のために"。
エゴに沿って生きていくと、
誰も人がついてこないし、
自分さえもついていけない。
心が乖離していくから辛くなる。
この世の中は、
見えない心と見える身体があって"生きる"なのだから、この心を知らなくして、身体は成り立たなくなる。

自分の心の底から生まれている"自分のために"は、循環していく。
内側から湧き出てくるモノは
自分だけで留まらずに、
他の人にまで影響して波及していく。

自分のやりたい!が生まれてから、
お金がないけれど、
時間がないけれど、
誰に何を言われても、
自分でもよくわからないけれど、
これだ!!!とうピュアな本当の気持ち。
周りの情報や常識にさらされず、
天と地の間に立ち、得た直感をただただ形にしようとするとき。
大概それは地球の立場に立って見たときにも、負担がかかっていないコト多々。

例えば、地球を自分だと考えたとき、
めちゃくちゃやりたいことがあっても、
ゴミを山ほど出すこととか、
無駄にエネルギーを使わなきゃいけないとか、
まだまだあるのに新しく作ってしまおうとか、
全体を考えたときにどこかに無理が生じたとき。
私、それはやりたいことじゃないなと想う。
だって自分の家がごみまみれになったらいやだもの。
誰かが、苦しそうだったらいやだもの。

そしたら地球に関しても同じこと。
地球自体が自分だから、
そこが痛んだらいやだよな、
やられたらいやだよな、
は、一瞬やりたいと思っても、あっ!エゴだった。
と見極めがつく。

それから、
心の底からの"自分のために"は、
考えるまでもなくやっていること。
あるがままであること。

まさしく自然界がそう。
りんごの種はりんごにしかならない。
種はあるがまま。
何者になろうでもなく、
土と光と水が与えられたら、
スクスクと育ち、
土は土の役割をあるがまま全うし、
光は光のあるがままを全うし、
水は水の役割を全うする。
誰かのためになんかやっていない。
自分のためにただ自分で在ったら、
合う周りの存在と共存して生きていたという話。
そしたらりんごは実をならし、
ある動物はりんごの実を食べ、
りんごの花にきたミツバチは、
食べたいから蜜を食べ、
その花粉を運んで、他のりんごの木へ🍎
こうしてあらゆる受粉で生きていく植物は、ただ、食べたいから寄ってきた生き物によって生命力を育み、
次の新しい命を結んでいく。
そして、りんごの木が朽ちても、
そのままにしておけばまた土に返っていく。
そして、新たなる姿で、新たなるあるがままを淡々と繰り返す。
この過程にお金・モノ・名声は一切介在しないし、
誰もが誰かのためになんか生きていない。
"自分のために"をやってただただ循環している。

地球全体で見たときの、
この壮大なる循環。
全ての存在があるがままを全うしてい
るだけで無駄なく巡り、
私が私の役割を全うすることこそが、私の幸せなのだと想わせてくれた、地球そのもの。
私の身体の中だってそうゆう風にまわっているんだから。
心臓は心臓のできること。
脳は脳のできること。
腸は腸のできること。
その役割をそれぞれが全うすることで、私という生命体は生かされている。
寸分の狂いも無駄もなく、
バラバラなのに一として成り立つこの素晴らしさ。
この全ては自らがあるがままを全うすることに在る。

あるがままの私は、
この壮大なる循環をベースに、
1人1人誕生したということは、
役割があってここにいることを伝えたいと想ったし、
在るモノを使って生きていくことを実行したいと想った。

それが、
喉があるから話すこと、
足があるから歩くこと、
素晴らしい人脈があるから繋いでいくこと、をして生きていこうと。
私にはそれができる。
在るモノで生きていく。
それが今やっているワークショップのすべて。

これが私の伝えたい"自分のために"。

エゴのやりたいからやる、という"自分のために"ではなく、
自分の役割を全うしていき、どこまでも続いていく心からの生命活動。

自分の幸せとは、
この素晴らしい生命の連鎖を思う存分輝かせること。

長くなりましたが、
ワークショップの中では伝えきれない"自分のために"、
自分を幸せにすることの私なりの定義。

『自分を幸せにする』とは、
"自分で在ること"

自分を知ることで
自分の存在を全うさせてあげること

が、今の自分なりの答えなのであります。



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