読書会ログ

初雪緑茶(@Aliceryokutya)が主催する読書会のログ、備忘録。
なんだかんだ適当でも一年以上続けているとそこそこ蓄積するものだ。
現在はDiscordで行っているので、このリストを見て興味が湧いた方はTwitterのDMにでも。

試験運用期(2019年秋~2020年春)

友人でこのnoteにも登場しているStudio Marusanと二人で試験的にやっていた時期、別名迷走期。この頃はコロナもなく、大学の片隅やカフェでやっていたのが懐かしい。

浅田彰『構造と力』
言語哲学や心の哲学ぐらいしか知らずに人文学の門を叩いた私だが、大学で教わるのは所謂フランス現代思想だった!それを日本に紹介した本があると聞いて読み始めたが、現在の私は驚くほどに内容を覚えていない。悪い本ではなかったのだろうが、今ならもっと良い入門書が山ほどあるはず。

伊藤計劃『ハーモニー』
当時取っていた演習でアニメ映画版を扱っていたため、小説版をやらねば、と。再読だったので、共に読むことの効能がより実感できた回。

アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』
人文学徒は理系の本を読まないからダメなのだ!と息巻いていた時期。しかし実際にやってみると共通の足場がない状態での読書会は困難と実感した。理系の本を読む読書会自体は続かなかったが、『意識はいつ生まれるのか』や『流れとかたち』など、良い本に多く出会えたのは確か。

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』
どうやらバルトとかいう奴が凄いらしい、と聞いたものの、逆張りだったので写真論から読み始めたのだったか。読書会に併せて行った『永遠のソール・ライター』という展覧会が印象深い。展覧会などのリアルイベントと併せた読書会はまた企画しても良いかも。

稲垣足穂『一千一秒物語』
宮沢賢治『銀河鉄道の夜 第三稿(ブルカロニ博士篇)

試験的に小説もやろう、と試した回。続かなかったあたり、上手くいかなかった模様。

東浩紀『動物化するポストモダン』・『ゲーム的リアリズムの誕生』
現在に至るまで繰り返し読むことになった2冊。なんだかんだで東浩紀は大学に入ってから最も多く著作を読んだ人物だろう。『AIR』の批評はクリティカルでありながら、その作品固有のものを汲み上げようとする愛を感じるもので、私が批評というものに真剣に向き合おうと思ったきっかけの一つになった。

東浩紀『存在論的、郵便的。』
『動ポ』『ゲーム的リアリズム』と併せて東浩紀を読もうと挑戦した博論本。当時の私には難しすぎたのだが、なんだかんだジャック・デリダの入り口は書籍だとこの本だった。今読んでこそ東デリダという感触で、誤配など東の哲学の起点はやはりこの著作なのだろう。

2021年の4月から、友人と二人きりでやっていたこの会をオープンな形でやってやろうと思っていたのだが、新型コロナウイルスの流行で大学がオンラインになり、断念。

2020年冬ごろから、いい加減コロナも収束しないし、オンラインでもいいからやらねばと企画を動かし始めた。

資本主義読書会(2020年冬)

「資本主義」というワード自体は非常にありふれたものでありながら、よくわかっていないな、と思い、企画。人文系の私と投資などに明るい理系の友人と二人で始めた。

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
古典中の古典。実際とても良い本で、こういった著作こそ読書会でやる意義があるな~と実感。1か月強ぐらいかけて精読したが、資本主義というテーマ以上にウェーバーの歴史観・倫理観が興味深かった。この本で大澤真幸に提出するレポートを書いたのも楽しかった。

柄谷行人『マルクス その可能性と中心』
次はマルクスだ!と息巻いたは良いものの、『資本論』はキツイということで何故か手元にあった柄谷マルクスを。これは正直ミスチョイスで、この回は互いの予定が合わなくなってきたこともあって2回で終わってしまった。

非哲学科主催の哲学読書会(2020年冬~)

私は非哲学科で哲学を中心に勉強している人間なのだが、

フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』
準備不足でちゃんと読めなかった苦い著作だが、やはり古典は一読しておく価値があることも実感できた。

マルティン・ハイデッガー「カッセル講演」
Twitter経由で他大の方や修士の方が参加してくださり、一気に本格化し始めた回。ただ主催する側の能力がなく、数回やってようやくフォーマットが確定した感じ。

J・L・オースティン『言語と行為』
言語行為論の祖たる著作であり、この本自体がパフォーマティブな側面がある、複数人で読んでよかったと思えた一冊。講義が元となっている著作は読書会に適しているのかもしれない。ここからデリダの『有限責任会社』に接続するつもりが、未だにしっかりとは取り組めていない・・・

アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』
現代の文化を批評・研究する際に立ち返る必要のある古典。特にⅣ章「文化産業」は現代においても完全に応答することはできていないと思われた重要な論考だった。

井筒俊彦『意識と本質』
西洋哲学を学ぶ日本人として常に孕む問題である、全てが西洋化された近代以後に展開できる人文学とは、という問い。井筒が展開した新しい東洋哲学は彼のテクストがもつリズムもあり、読みやすく、それでいて広大であった。

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』
息抜き代わりに読んだものだが、やはり読書会は(広義の)学術書でやる方が上手くいく。

アリストテレス『詩学』
古代ギリシャという古典中の古典だからこそ、良い形で逸脱しながら読み勧められたように思う。言説と行為の区別、物語における必然性の問題など、現代でも度々議論されることの雛形は洗練された形で次々と列挙されていて、改めて起源としての古代ギリシャの力を痛感した。

カンタン・メイヤスー『有限性の後で』
七月上旬~九月中旬
参加してくださった方のレベルが非常に高く、はじめて一定以上の読みを可能とした哲学系の読書会であったと思う。
哲学科の体系的な哲学史教育を受けていない私にとっては、メイヤス―哲学史観を通じて、デカルト、ヒューム、カント、フッサール、ハイデガーと出会い直すという意味で非常に勉強になった。これからもこの読書会という場を継続していきたいと改めて思った。

番外編 私が参加した別の方が主催の読書会

斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』
勉強会の側面が強い読書会をやることの大変さ。私は勉強を絶対視してはいないのだが、やはりアカデミックな場にいるのは確かであり、その距離の取り方をもう少し考えた方が良い。

ファム・コン・ティエン『深淵の沈黙』
よくわからない人々が集まって、最高にわけのわからない著作を読むという端的に言ってぶちあがる読書会だった。こういう本当に楽しい読書会を主催する能力もまた、ないので、つくづく自分は中途半端だなぁと。だからこそいろんな文脈の人が参加してくれているのだと思うが。

大塚淳『統計学を哲学する』
自分一人では決して手を出さないであろう完全に門外漢の著作。哲学科から機械学習の専門家、プログラマーなど様々な領域に属する方々は一堂に会して話すこと自体が非常にスリリング。
しかし他が多忙になり、こちらは途中から欠席となってしまった。自分から遠い分野をどのように学んでいくかは今後も課題である。

岡本裕一郎『フランス現代思想史』
こちらは読書会というより勉強会の体裁で、一人一人の思想家を他の文献もあたりながら再勉強する流れ。デリダ回は自分にとって非常にありがたかった。

こうして列挙してみると、それなりの数になっていて我が事ながら謎の満足感がある。今後も続ける限り追記していこうと思う。

以下、メモ代わりの読書会候補
ベンヤミン「言語一般について また人間の言語について」
『ドイツロマン主義における芸術批評の概念』
野家啓一『物語の哲学』
リクール『時間と自己』(一巻)
ミシェル・フーコー『言葉と物』
『知への意志 性の歴史1巻』
ドゥルーズ『差異と反復』『シネマ』
デリダ『有限責任会社』『獣と主権者』
ポール・ド・マン『盲目と洞察』『美学イデオロギー』
バフチン『マルクス主義と言語哲学』
ラカン『精神の四基本概念』
バタイユ『非―知』
ハーバーマス『公共性の構造転換』
アンダーソン『想像の共同体』
マーティン・ジェイ『うつむく眼』
クレーリー『観察者の系譜』
キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』
ヴィリリオ『速度と政治』
サイード『オリエンタリズム』
ハラウェイ『サイボーグ・フェミニズム』
伊藤昌『ネット右派の歴史社会学』
小田部胤久『美学』
伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』
ヴェイユ『重力と恩寵』
カント『純粋理性批判』『判断力批判』
ストローソン『意味の限界』
アウグスティヌス『告白』
クザーヌス『学識ある無知について』
オットー『聖なるもの』
ウィトゲンシュタイン『青色本』『哲学探究』『確実性について』
ジェームズ『プラグマティズム』
キルケゴール『死に至る病』
ヘーゲル『精神現象学』


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