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原田慶太楼&東響 シェヘラザード @フェスタサマーミューザKAWASAKI 8/10

リムスキー・コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』は、二重の物語である。自身のトラウマ(猜疑心)のために、妻となる女性を殺し続ける暴君に、新たな妻として挑み、魅力的な話を語り継いで夜な夜な過ごさせることにより、王のもつこころの攻撃性を癒すシェヘラザード妃の物語。そして、彼女が語る、シンドバッドの冒険譚を中心とする4つのエピソードである。物語を話し終えれば、暴君はまた、その攻撃性を発揮してしまうため、妃は翌日も自分を生かしておきたいと思わせようとして、酣のところで話を止める。こうして、すべてを語り終えるころには暴君も内面の闇を乗り越え、妃との絆が生まれていたという話である。

最終的に作曲者は標題を取り去ったとはいうものの、その具体的な描写の巧みさから、そもそもの具体的な物語をまったく考えずに演奏するということはまずないであろう。反面では、ある部分がどういう場面であり、どのような描写がされるべきか、細々とト書きにされているわけでもないので、人々の自由な想像力に委ねられる部分もある。そのため、指揮者や演奏者によって多くの解釈が成り立つ点で、作品の面白さが際立っているだろう。

ここに3つ目の新たな世界が広がるのである。さらに、それを受け取る聴き手のほうにはまた別の世界が生まれるのであるから、世界は半ば無限に拡張していくのであった。

もちろん、ヴァイオリンの独奏をはじめ、ライトモティーフ的な楽器の用い方もあって、それぞれのキャラクターは緩やかに定まっている。そして、それを囲むような煌びやかで、合理的な楽器の層があり、無駄に大掛かりなものにはなっていない点で、コロナ下でも、舞台にかかりやすい作品である。

巧みな管弦楽法と、素材のオリエンタリズム、そして、海軍士官をルーツとする作曲家の海への想いなどが詰まった、多彩なミルフィーユ構造のなかで、この作品の本当のモティーフは見逃されがちだ。それは命と、人間の結びつきであろう。

リムスキー・コルサコフは音楽的には、きわめて奇妙な罠を仕掛けてもいる。つまり、最終楽章で、この物語の主人公であるシンドバッドの難破について、ものの見事な音楽的描写を行い、その壮麗で、寂しげなフィナーレとともに、ハープを鳴らし、もはや聴き慣れたヴァイオリンのモティーフを響かせる。ハープが鳴ったとき、王とともに、私たちはハッと我に返るだろう。そして、王妃と自分しかいない世界を感じるのだ。すべての壮麗な物語が、ただ自分だけに向けられているという幸福を知って、王はどれほど慰められたことだろう!

ようやくにして信頼する女性と結びつくことができた幸福が、この作品の最後に書かれているが、一方では海に呑まれる難破船の描写を通しては、シンドバッドや船乗りたちの生き生きした姿や、艱難辛苦も体験しているだけに、複雑な気分になる。甘みと苦みを、同時に嚙み潰したような印象でおわるのだ。その配合によっても、作品の解釈は異なってくるであろう。

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リムスキー・コルサコフ 

リムスキー・コルサコフは貴族階級には在ったものの、常に風刺的な作曲家で、帝政ロシア末期の為政者にとっては疎ましい存在とみられるときもあった。この作品にも、単に煌びやかな王朝絵巻風ではない、トリッキーな仕掛けがある。

しばしば当局とぶつかったものの、リムスキー・コルサコフは多くの弟子に慕われ、ややお節介のきらいすらあったが、酒に溺れる泰斗ムソルグスキーや、作曲家としてはアマチュアの範疇にとどまって医師や化学者をしているボロディンのように、自分の才能を程々にしか大事にしない、有能の士を後援するなどしている。それは多分、かつて自分を支援した師バラキレフの行為に倣うものであった。

『シェヘラザード』は気紛れな暴君を、芸術(文学、音楽)が正すという教訓的な作品とみることもでき、その点では、多分にバロック・オペラの系譜を引いていると考えることも可能だろう。しかし、人間が自身を大事にするために何が必要なのか、という問題がより大きなテーマとなる。人間のこころを捉えつつ、その行動を正す王妃の在り方は、リムスキー・コルサコフ自身が人間として、芸術家として、目指した理想の姿ともいえそうだ。

今日、ここで語るのはフェスタサマーミューザKawasaki(以下、サマーミューザ)で演奏された、『シェヘラザード』についてである。このイベントのフィナーレを飾った東京交響楽団の演奏は、疫病蔓延の厳戒態勢のなかで、比較的、華やかな作品を演奏する機会としても人気があった。

指揮する原田慶太楼は2021年1月からの任期で、東響の正指揮者(ナンバー2)に就くことが発表されており、正式着任前ではあるが、就任披露の意味合いをもつ祝祭的な機会のひとつともなっていた。

もちろん、これまでの活動に貢献した秋山、スダーン、大友、飯森などのファミリーも呼び続けるのだろうが、東響は今後、既に長期契約を結んでいる音楽監督のノットと、原田のコンビを中心に運営されていくことになる。当夜の演奏も、原田が、ノットの下で鍛えられたオーケストラの持ち味を存分に生かしきったものだといえる特徴があった。例えば『シェヘラザード』で特に印象深かったことのひとつは、弦楽器が古典寄りの絞られた、美しく減衰するヴィブラートで演奏していることである。

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話が左右するが、ここでプログラム全体についてみると、ショスタコーヴィチの『祝典序曲』に始まり、グリエールのハープ協奏曲、そして、『シェヘラザード』につなぐロシアもので統一されている。ロシアの近代音楽は一体に、古典的なものを媒介にして、民族的な独自性を加えつつも、そこから新しい時代を開こうとする音楽が主流にある。

チャイコフスキーがその典型であり、名実ともに、もっとも成功したとみられる。指揮者アレクサンドル・ラザレフは日本フィルの、ある演奏会に付随したトークのなかで、その先進的な特徴を熱弁していた。チャイコフスキーもまた、バラキレフや、その人脈から只ならぬ影響を受けていた人物である。

一方で、グリエールは師であるタネーエフの影響が強く、より保守的なグループに属するだろう。プーシキンを基にしたバレエ音楽『青銅の騎士』を書いており、『シェヘラザード』最終楽章の標題とつながる部分もあった。

もっとも、私はグリエールについて、ほとんど何も知らないといったほうが正直だろう。この日のハープ協奏曲について聴いたところを、唯一の拠りどころとして論ずるほかない。独奏は、当団首席奏者である景山梨乃だった。

録音によっては、リヒャルト・シュトラウスの歌劇のようにも聴こえるリッチな作品と思えるのだが、ソリストの気品ある、慎重な歌いまわしのせいか、私の脳裏に浮かぶのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ホ短調)のようなイメージであった。自ら所属するオーケストラの演奏会で、仲間たちに囲まれ、活動再開から間もない音楽祭の最後を飾るなかでの緊張感は、大いに感じられた。だが、そうした硬さ以上に、形式上の揺るぎない地盤の固さが感じ取れるのだ。

メンデルスゾーンとともに、私がイメージしたのはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲や、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』だ。これらの作品は文学と関係する典型的なロマン派の名品であり、グリエールの作品もこの系譜に近しいような気がした。特に標題的なものが掲げられているわけではないが、ハープの表現にそれが表れていたのだ。

優美で柔らかく、響きを淑やかに紡ぐ女性的な部分と、決然と、まっすぐに響かせる男性的な部分があり、それらが絡み合うことで、中世的なバラッドの英雄とヒロインのような関係が浮かび上がる。

あるいは、歌劇という風に聴こえても不思議ではない構図が、この日は断じて、そのように聴こえないのはハープから伝わる波動がオーケストラに伝わり、自在に伸縮していく室内楽のような雰囲気が細やかに表現され、あくまで器楽の範囲に残ったからであると思われる。

第1楽章のフィナーレで響きが盛り上がり、悠然と膨らんでいくなか、トゥッティのなかに溶けながらも、指定された音符の分だけで、ハープが機先を制し、短く、書道の「止め」のようにしっかりと波動を収める場面は、正に、その印象を強めるのであった。

ハープ

「熱狂の日」音楽祭(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)でハープのマスタークラスを聴いた際には、自らが紡いだ響きを適当なタイミングで消すということがいかに重要かということを学んだが、景山は当然、その基本をしかと心得ているのであろう。むしろ、彼女の演奏については、その抑制にこそ、本質があるといっても過言ではない。

本来は減衰する音を豪華に跳ね上げ、優雅に彩ることで、巨匠時代の音楽は個性的であったが、現代ではむしろ、清楚に抑えられ、自然に減衰する響きのほうが大事にされる流れにある。ピリオド研究とその実践は、この方向に重大な影響を与えた。グリエールの響きが壮大で、ロマンティックな印象を与えるものであるにもかかわらず、景山の弾くグリエールの性格が保守的と感じたのも、そこに理由がある。

コンチェルトでは、優れた独奏者と柔軟性のあるオーケストラとの対話では、ひとつの演奏のなかでも風景が次第に変わっていくものだが、この日の演奏は正に、それであった。オーケストラはソリストの個性に合わせ、いよいよ淑やかに、優しげな響きに洗練されていき、しまいには、バロック音楽のような落ち着いた美しさを湛えていくのである。

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この印象が強烈に残ったなかでの、『シェヘラザード』であったことも大きい。演奏後に配信された、指揮者の YouTube ライヴでの解説からもわかるように、演奏は構えの大きな、ゆったりした演奏で始まった。

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私事だが、2017年10月以来、自分にとって、この曲はある重要な思い出と結びついている。それは昨年9月に、惜しくも亡くなった指揮者ラドミル・エリシュカと、札響によるお別れの演奏会の記憶である。氏が札響の首席客演指揮者に就けられるきっかけとなった演目の復刻でもあり、引退までの間、例えば、2011年に日本で起こった大津波などの歴史も踏まえて、すべてが詰まった演奏会は死ぬまで忘れることがないであろう。

私の場合、これほどの演奏を耳にしたときには、次の新しいページを開くには、よほど何か特別なモチベーションでもない限りは消極的になる。今シーズンは同じく尊崇するマティアス・バーメルト師が、ところも同じ札幌で、この重い扉を開くことになっており、私は強い関心を示していたのだが、打ち続くコロナ禍のなかでは、演奏そのものがなくなってしまった。

そこに降って湧いたのが、原田と東響による演奏であった。米国を拠点とする原田については近年、日本での活動が盛んになりつつあるのは気づいており、どんな指揮者なのか、気になっていたところ、コロナ自粛中の演奏会のいくつかで存在感を発揮して、感銘を受けた。その彼が開く千夜一夜の物語を想像すると、興奮しかなかった。それはもちろん、私だけのことではなかったようで、この演奏会は音楽祭のなかでも注目の公演となり、発売から1時間もせずに売り切れた。

私は職業上、依然、感染が広がるなかでの演奏会への参加には躊躇いがあったので、残念ながら、配信で聴くという選択をせねばならなかったが、それでも新しいページを開くための、明確な理由を得た。

もちろん、私のなかの思い出と比較するならば、今回の演奏がより重い位置を占めるということは難しいに決まっている。例えば、エリシュカが描いた『シェヘラザード』の第3楽章は、私にとって夢のような体験だったのだ。船乗りたちが意気揚々と、たのしげに働き、間近に迫った出航に備えるかのように聴こえる闊達な中間部は、作品がもつ生命感をこの上もなく高める結果になった。

その船乗りたちは最後の楽章に至っては、ギリギリまで船上に戦うも、自然の力には及ばず、「青銅の騎士」の眼下、海の上に投げ出されてしまうのであった。その表現も、きわめて思い出ぶかい。金管のテーマが強烈に響くと、壮麗な中にも、恐ろしげなクライマックスが構成され、ハープの響きで我に返るまで、筆舌に尽くしがたいほどの充実であった。劇場でのキャリアはなかったものの、その分、思い入れのある交響詩の演奏でみせる、闊達で、描写的な表現の巧みさについては右に出るものがなかった。

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ところで、この作品の作中劇的な物語は、4つの楽章の間で連続しているのであろうか?

もちろん、連続しているのだとは思う。しかし、別々の話としても、無理ではない。アラビア語の『千夜一夜の物語』をすべて真面目に読み通したことはもちろん、ないが、いずれにしても、オムニバスみたいなものであろうと想像している。音楽的にも、首尾一貫した物語というよりは、部分的に共通なものをもった4つのおはなしとして考えたほうが、自然なように思えるのである。

それゆえ、演奏面でもアタッカ的に連続させるよりは、楽章ごとに区切っていくほうが主流であるのも当然だ。2つぐらいの楽章をつなげることは珍しくないが、当夜のように、全体をひとつにして通す例は珍しいというべきだろう。

原田慶太楼

原田慶太楼はこの件について、公演後におこなわれた独自の配信 ”Music Today” のなかで興味ぶかい話をしている。残忍な王と彼に挑戦する妃の逸話に寄せて、話がおわってしまえば人が死んで(殺されて)しまうような印象があることから、今回、コロナ禍で米国の友人たちも亡くなっていく現状のなかでは、それが忍びないように思えたというのである。

彼自身も平素は米国に住んでいるようだが、日本国籍をもっているために、今回、もうひとつの母国に入って(帰国して)活動することができた。ところが、今度は米国に帰るルートが閉ざされてしまい、向こうへは戻れなくなっているという。

周知のように、その間に米国では感染の爆発的拡大が止まらない状況で、著名人を含む、多くの命が失われた。トランプ大統領や、保守派の知事たちは感染を防ぐ知恵が十分ではなく、半ば放置してしまったような人もいる。犠牲者のなかには原田と知己にある者や、スポンサーのような人も含まれていたことが想像できるだろう。

ここで「命と人間の結びつき」、暴君の振る舞いを芸術の力で正すという作品のモティーフに対する、現実での想いが揃ってきた。王妃は女というだけで、夫である王からまったく信用を置かれていない状況から、次第に信頼を勝ち取っていくのだが、これもまた、現在の彼のキャリアからみれば、所信表明となる示唆的な内容でもある。つまり、彼はこの王妃のような気持ちで、ひとつひとつの機会を大事に演奏していくのだ・・・というような決意が窺われるからだ。

一方で、人を楽しませるためには、いくつかの仕掛けも必要だろう!

そして、まわりで助けてくれる人たちの存在もだ!!

物語の王妃の場合、妹が後宮にお供をして、たびたび姉に話をせがむという仕掛けがあるらしい。音楽的には通常、楽団の顔であるコンサートマスターが弾きあげるヴァイオリンのソロや、ハープの重要なモティーフがあり、管弦楽全体を使ったコンチェルトのような趣もある。原田は、それらをみごとに味方につけて、音楽を織り込んでいった。

コンマスの水谷晃は、特に原田とウマの合う関係のように見えるし、そのほかの楽器もヴァイオリンやハープの重要なモティーフを見守りつつ、王妃を支えるように手を携える雰囲気があったのではなかろうか。第2楽章、ファゴット(福井蔵)の艶やかな歌いまわしにも深いコクがある。

ハープの景山はコンチェルトの独奏に起用されたにもかかわらず、後半はオーケストラのなかに位置して、もうひと仕事をこなした。やや異例ではあるが、この起用には意味があり、それを賢く感じ取って演じきったといえる。つまり、グリエールが、『シェヘラザード』のなかのひとつの物語として組み込まれたのだ。

後半はちがうハーピストと思い込んでいたが、後から振り返ってみると、彼女自身のアンコールは、いわばインテルメッツォのようなものであった。

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当夜の演奏で、特に首尾よくいったのは第2楽章ではなかったか。第1楽章の終わりに被せるように響いたシェヘラザード主題。濃厚なファゴットの歌うカランダール王を描き出す主題がつづくと、やや自由に歌い崩すオーボエ(荒木奏美)のパフォーマンスもこれに追随し、東響のソリスティックな魅力(+個性のちがい)が丁寧につながれていく。一方では、単なる個の連鎖ではなく、濃密にオーガナイズされたアンサンブルの妙味も滲み出ている。

ベルリオーズやメンデルスゾーンからの挿入のような導入部につづき、弦がピチカートを刻み、宴のような雰囲気が広がる場面は、特に印象ぶかい。しかし、注目は舞踊的な旋律の塊へと集約しつつ、真夜中の閨の場面のような部分へと遷移していく。膨らみのある響きで、奇跡的に凝縮して立体的に踊った旋律のゆたかさ、場面の静けさとは対照的に、内面的には激しく、愛の火の手が上がる終結の場面の迫力が白眉となった。

最初の楽章で予告した演奏スタイルの特徴もいっそう典雅に響いて、作品に耳を惹きつける。つまり、先に述べたような古楽器風の演奏を模した、ふうわりと膨らんで、自然に減衰していく響きが効果的に聴こえる。艶めかしく、ときに派手な場面を濃厚に描いているようであっても、それぞれの場面に王朝絵巻風の気品も常に寄り添っているのである。

第1楽章については、フレーズの先頭にストレス(強調)を置き、鋭く表現意図が立ち上がる点についても見逃せない。そこから襞が広がって、次第に懐のふかい表現になっていくのは、グリエールの演奏と共通点があった。

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全体を通じ、じわじわと感じさせられるのは、音楽祭のオープニング公演で話題になったベートーヴェンの「エロイカ」との対応である。いま、述べたばかりの響きのベースについては、ノット監督や、それに先立つスダーン前監督が粘りづよく実践し、東響サウンドの特徴ともなっているものだが、当然、このシリーズの幕を開けた「エロイカ」でも、印象的に響いていた。

リモートノット

それだけではなく、原田はリムスキー・コルサコフの厚みのある書法を分解して、手際よく古典的な特徴を抜き出していき、「エロイカ」との共通点を判然と見出していたのだ。それは殊更に強調されたものではないものの、丁寧に聴けば、確実に見出せるものでもあり、その点において、指揮者が仕掛けたパズルのようなものであった。これに気づくことができたならば、音楽の放つメッセージはまた、新たな拡張性をもって響くのである。

例えば、この作品には3人の英雄が現れる。語り手のシェヘラザードと、物語の主人公であるシンドバッド、そして、聴き手のシャリアール王である。残忍な権力者ではあるが、一方の英雄である彼の存在なしには、何も生み出されはしなかったのだ。音楽的にも、これらの登場人物には特定の楽器とモティーフを与えて、明確に描き分け、それらが印象的に登場する。(ただし、人物だけではなく、海や船といった、背景的な素材にもモティーフは与えられている)

「3」や「英雄」というモティーフに加え、濃厚なスラヴ趣味、大胆でずっしりしたロシアの歌いまわしのなかに、例えば低音やティンパニ、楽章を終えるときの祈りの響きのなか等には、ちらちらとベートーヴェンの歌い方が潜んでいる。例えば、『シェヘラザード』の終結に聴こえてくるのは、「エロイカ」葬送行進曲の余韻である。

原田がどの程度、それを意識的に行ったのかは想像もつかないが、2つの曲のハイブリッドとして、この演奏を解釈することの意義は小さくない。これは指揮者(原田)の、オーケストラや、ノット監督に対するリスペクトを示すだけではなくて、リムスキー・コルサコフら、ロシア・ロマン派の古典趣味(リスペクト)の深さを改めて物語るものでもあろう。

なお、この作品では、命をかけ、天にも捧げる気持ちで音楽を紡ぐ当事者に対して、傲慢に次へ次へと音楽を求める聴き手への風刺も含まれている。作曲家にとって、オーディエンスや、批評家は、生殺与奪をわける相手であり得る。しかしながら、原田とオーケストラはこの関係を反転して、目下のような事情のなかで聴き手があることへの喜びに形を変えている。

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自分の思い出のなかの演奏と比較すれば、第3楽章以降は1:1の関係へと焦点が絞らえているように思われる。集団の動きのなかで、毅然としたリーダーとして輝く王子のカリスマ性を描くというよりは、美しく舞う王女の官能美と、それに反応する素朴な仲間たちの視点がゆったりと描かれている。そのため、第3楽章は全体的に解像度を抑え、穏やかな間奏的な舞曲の風采となっているのである。

第3楽章から第4楽章にかけて、今回の演奏は巨大なダンス・ヴァリエーションとしても窺われた。M.フォーキンがこの作品から多大なインスピレイションを受け、作品としたように、原田の後半の解釈はきわめて大掴みで、難破船の場面でさえ、仕上げの踊りを盛り立てるもののようにしか聴こえないのだ。いわば、巨人の踊りである。彼女の前では大波も、怪物も、水しぶきのようなものであり、音楽的なポエジーの中心を占めることはない。

フォーキン

そのせいか、終楽章はきわめて簡潔なものに感じられたのだが、もちろん、それは迫力がないとか、物足りなさを意味するわけではない。ルノワールのような印象派の絵描きたちが徐々に細部を省略することによって、描写したいものの印象を強調し、表現の奥深さと、構図の大胆さを獲得したのと似ている。

ライトモティーフ的といったが、リムスキー・コルサコフがロシアで、初めてワーグナーの『リング』に接するのは、この作品の作曲よりも後のことである。しかし、彼がそれ以前に、ワーグナーの作品について深く知っていたことは疑えない。そして、ワーグナー体験を機に、リムスキー・コルサコフは最後の作品『金鶏』にまで至る、オペラ作曲家の道を切り拓いていくのであった。

『シェヘラザード』と、フランクの有名なニ短調の『交響曲』は、ほぼ同時期に書かれた。循環的な書法になっており、ここにも通底するものがある。もっとも、循環形式自体はフランク、並びに、その弟子の「フランキスト」による独創ではなく、古い時代から受け継がれた、いわば擬古典的な様式である。セザール・フランクの循環主題は古典音楽に対する尊敬と、べートーヴェンの主題労作などから構成された、復古的な考え方である。しかし、フランキストはこれをさらに発展させ、新しい時代に生まれ変わらせたのである。

リムスキー・コルサコフもロシアにあって、西欧文化の中心にちかいフランドルやパリから伝播した時代的風潮を共有している。ベルリオーズのロシアへの演奏旅行も、多くの作曲家に影響を得たようであり、その代表曲『幻想交響曲』などから学んだものも多いにちがいない。

こうした要素に加え、帝政ロシア末期の権力者に対する風刺が、『シェヘラザード』には詰まっているというわけだ。シャリアール王のような暴君とまではいかないが、急進的な革命派に暗殺されたアレクサンドルⅡと、つづくアレクサンドルⅢの治世では近代化と引き換えに、王朝は末期的な症状を示し、そのあとのニコライⅡの代で幕を閉じたのはよく知られている。

ナロードニキ

リムスキー・コルサコフ自身は「ナロードニキ」といわれる革命運動に理解を示していたとされるが、同時に貴族階級出身として、たとえ絶望的だとしても、皇帝がより正しい道を歩むことも期待していたにちがいない。ある種の無常観を、この作品のなかから読み取ることも可能だ。逆にいえば、そのことが悲劇のふかさを物語っているともいえる。

原田慶太楼と東響のメンバーたちは、大掴みには、この作品を愉悦的で、ダンサブルなバレエ音楽のような方法で捉えた。一方で、このような世紀末的な闇に、堂々と立ち向かっているのである。

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