第1回 有賀恒夫さん(前編)

有賀さん

村井邦彦は1970年に川添象郎やミッキー・カーチスらとともに立ち上げた「マッシュルーム・レコード」をより発展させた形で、1972年に原盤制作会社「アルファ&アソシエイツ」を立ち上げる。設立間もないアルファは、三田東急アパートの一室に事務所を設け、その後山手線の線路を挟んだ反対側の芝浦にスタジオを作った。
この時期のアルファにはまだ所属アーティストも少なく、原盤制作のディレクターもたった1人。その人物が今回ご登場いただく有賀恒夫である。
有賀恒夫は暁星中学~高校、そして慶応大学のライトミュージックソサエティに進むまで、一貫して村井邦彦と同じ道をたどっている。村井の直系の後輩として、アルファ&アソシエイツに入社したのが1973年のこと。アルファのカラーは大別すると有賀が手がけてきた自作自演系ヴォーカルやコーラスグループの作品と、YMOやカシオペアといったインストゥルメンタル系のグループに大別されるが、もともとコーラスやヴォーカルの音程に鋭い感性をもっていた有賀は、アルファの中でも主に「歌もの」を担当していくことになる。荒井由実、ハイ・ファイ・セット、サーカス、ブレッド&バターといったアーティストたちのディレクションを行い、幾多の名曲、名盤を世に送り出していった。そして常に村井邦彦の片腕としてアルファの音楽に大きな足跡を残してきた有賀の仕事を、今回から3回に渡ってご本人のインタビューという形で紹介していこう。
第1回は音楽の魅力に目覚め、村井邦彦と出会った中学時代から初期のアルファ作品でのディレクターとしての活躍について。赤い鳥のラスト・アルバム『書簡集』、そして今や日本のポップスのスタンダードとなった荒井由実の名盤『ひこうき雲』のレコーディングについて伺った。

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ーーーーー子どもの頃は、どんな形で音楽と出会い、その魅力に触れていったのでしょうか。

「僕が小学校4年の時、母親がクラシック・ギターを習わせたんです。その後、暁星中学でブラスバンドに入った時、2年上の先輩が村井さんでした。ほかにもアルトサックス奏者になった大友義雄さんが先輩でした。高校に上がってからは、もちろんクラシックも聴いていたけれど、他にはカウント・ベイシーなどジャズ系も好んでいました」

ーーーーーそして慶応大学に進学されて、名門のライト・ミュージック・ソサエティに入部されるわけですが。

「ライトミュージックは、高校の頃に村井さんが僕を連れて行って練習風景を見せてくれていたので、このバンドに入りたい、という一心で慶応を受けたんです。当時の村井さんはオシャレでね、その頃、大学生でモーリスのミニクーパーを乗り回してました(笑)」

ーーーーーライト・ミュージック・ソサエティでの活動はどのようなものでしたか。

「ビッグ・バンドですからパーティやコンサートへの出演が多く、夏は全国ツアーもやるんです。それで、岡山で必ず早稲田のハイソサエティ・オーケストラと一緒になるの。2つのバンドが同時に舞台に乗って、1曲ずつ交互に演奏したり、同じ曲を合同でやったり。お互い負けないぞって意識はもっているけど、仲は良かったですよ。その頃、僕はアルトサックス担当で、村井さんは最初クラリネットをやっていたけれど、途中からピアノに変わりました。なので、村井さんはたぶんクラシック・ピアノの教育は受けていないと思いますよ。独学で弾けるようになったんです。他にも先輩としてはテナーサックスの西条孝之介さんや、大野雄二さん、佐藤允彦さんがいらっしゃいました」

ーーーーーでは、将来は音楽で身を立てようとその頃からお考えでしたか。

「いえ、毎日が音楽漬けで楽しくて、先のことなんか何も考えてなかった(笑)。まあ何とかなるだろう、ぐらいの考え方で、就職活動もしていなかったんです。実家が焼き鳥屋だったので、半年ぐらい板前修業をしたんです。将来は店を継げばいいか…ぐらいの考えで。その頃、僕の後輩が日音にいて、彼から『ビクターで人を探している』という話を聞いて、ビクターのMCAレーベルに、見習いというか小僧さんで入ったんです。当時ビクターの青山スタジオが出来たばかりで、そこにマスターテープを持って行ったり、まあ雑用係ですね。その頃、青山スタジオの1階にはずらっと編集室が並んでいたんです。ある時、届け物に行ったら編集室から音楽が聞こえてきて、入って聴いていたんですが、その時僕が『何か音程が悪いな』って言ったらしく、僕が帰った後、『あいつは誰なんだ』って大騒ぎになったらしい(笑)。まあそうやって小僧を1年ぐらいやってたんだけど。正社員にしてくれそうもないので辞めました」

ーーーーーもうその頃から、ヴォーカルの音程に言及するなど、耳が素晴らしく肥えていたと言うことがわかるエピソードですね。歌やコーラスに興味がわくようになったのはいつ頃からなのですか。

「自分ではよくわからないのですが、ビクターを辞めた後、半年ぐらいアメリカに渡り、ロサンゼルスで英語の学校に通っていたんです。72年頃でしたが、その頃グリークシアターにカーペンターズのコンサートを見に行って。ちょうど『ア・ソング・フォー・ユー』をリリースした時期で、アルバムを全曲演奏したんです。野外コンサートなので余計な反響もないし、1つ1つの音が凄くクリアに届いてきました。彼らのレコーディングは、多重録音で2人の声を重ねていくんですが、ステージではコーラスを入れている。でもレコードと全く同じ音を出すので、それは感動しましたね。コーラスの美しさから全体のバランスまで、何の文句のつけようもない出来。レコードと同じ状態で演奏できるって凄い、と感じて、またコーラスの魅力は大変なものだと思いました。その頃からコーラス好きになりましたね」

ーーーーーその後アルファに入ることになるわけですが、どういうきっかけだったのですか。

「村井さんから電話があって、アルファ&アソシエイツっていう原盤制作の会社を立ち上げるので、良かったら来てよ、と言われたんです。73年のことでした。入ったばかりの頃は、三田の東急アパートにオフィスがあって、でもまだ何の仕事もないから毎日何をするわけでもなく、芝浦にスタジオができるのをずっと見ていましたね」

ーーーーー初期の頃の有賀さんのお仕事ですと、まず赤い鳥のラスト・アルバム『書簡集』があります。

「赤い鳥はもうその頃、活動が二手に分かれていて、『書簡集』を最後のアルバムにしよう、というのは決まっていました。その後ハイ・ファイ・セットと紙ふうせんに分かれるのですが、僕は最初は両方担当していて、紙ふうせんのほうは、もう東京に居たくないというので、地元の関西に帰ってしまって、その後ハイ・ファイ・セットをそのまま僕が担当するようになった。というか、あの頃は制作が僕しかいなかったんですよ。ディレクター1人だけ(笑)。そのうちに後輩で宮住(俊介)が入ってきて、僕はコーラスとか歌もの、宮住はインストゥルメンタル関係、という風に自然と振り分けが決まっていきました。でも、吉田美奈子だけはなぜか最初は呼ばれませんでしたね。たぶん、僕と美奈子だと主張がぶつかってろくなことにならないだろうという配慮でしょう(笑)」

書簡集

書簡集

ーーーーーそして、初期の有賀さんのお仕事で名高いのが、荒井由実の『ひこうき雲』ですが、ユーミンとの出会いはどういう形でしたか。

「ユーミンは村井さんが連れてきたんです。その頃、彼女はアルファに自分の作品を持ち込んできていて、72年にはムッシュかまやつさんのプロデュースで『返事はいらない』のシングルを出しています。その時は、僕は全く知らないのですが。出会ったときからユーミンは『自分は作家になりたい』としきりに言っていた。彼女が19歳、僕が27歳の時です。それで作品を聴かせてもらったら、これが素晴らしい、今までの日本にはないような音楽だった。でも、いくら作家でやっていくにしても、誰がこの作品を歌えるのか思いつかなかった」

ーーーーー従来の歌謡曲やフォークのような日本の音楽とは、明らかにかけ離れたものがあった。

「そうです。そうしたら村井さんが、雪村いづみさんに歌わせようって言い出して、僕は『ええっ!?』となったんだけど、村井さんの命令は絶対ですから(笑)。それで『ひこうき雲』をレコ―ディングしたんですが、上手いんだけど、どうもテイストが合わない。これはユーミン自身が歌うのがいいんじゃないか、と思って、『ひこうき雲』と『雨の街を』『紙ヒコーキ』の3曲を弾き語りで歌ってもらいました」

ーーーーーユーミン自身も、『自分で歌う気はさらさらなかった』とよく発言されていますが、あの独特のヴォーカルはどのようにして生まれたのでしょうか。有賀さんが関わる前のシングル『返事はいらない』で聴く彼女のヴォーカルは、『ひこうき雲』以降のものと違って、まだビブラートが明確に残っていますね。

「彼女はずっとビブラートが問題だったんです。山本潤子さんみたいに、綺麗にビブラートがかからない、声が震えているかのような、ちりめんビブラートと呼ばれる歌い方だったんです。僕はそれを取り除こうと思って、彼女も一生懸命練習したんでしょうね。でもビブラートを取って歌うのは、難しいです。最初からその音に、正確な音程でヒットしないといけないわけだから。でもやらなければしょうがない。確かいちど、岡崎広志さんのところにヴォーカル・レッスンに行ったかもしれない…ちょっと記憶は曖昧ですが」

ーーーーー歌い方を変えることに、ユーミン自身は抵抗はなかったのですか。

「彼女は、少しぐらい音程が悪くても、雰囲気が大事だと言う考え方だった。僕はそれではダメで、歌う当人にはその雰囲気はわかるけれど、聴き手には関係ない。聴き手が勝手に感じ取るもののほうが大事なので、そこは僕は妥協しなかった。とにかく歌入れには時間がかかったので、最後はスタジオの隅で彼女が泣き出しちゃったんです」

ーーーーー録音はどういう形で行われたのでしょう。

「当時はマルチ録音で16チャンネルだから、その中でヴォーカルに3トラックを当てて、パンチ・イン(マルチチャンネル録音で、テープを走行させたまま再生状態から瞬時に録音状態に移行させること。演奏の一部を修正したい場合に有効な方法)しながら作っていくんです。2トラック目も3トラック目もそうやって作り、上手く歌えたところは、ここからここまで、とスイッチャーで切替えて、良く歌えているところを選ぶ作業をしました。
スイッチングで息継ぎが切れたり間違えたりしたら、最初からやり直す。
本当の真剣ライブミックスです。この方法にはユーミンが反対しました。『感情がつながらない』というのが彼女の理屈です。
僕はしかし、「レコードはずーっと残るものだから」と言って、聞き入れなかったのを覚えています。
そのうちにもう1トラック開けてもらってそこに歌のOKテークを作るようになると、作業はずっと楽になりました。
何しろテープを回して録音していたのですから、良くも悪くも全てがアナログの時代でした。」

ーーーーーレコーディングには1年かかったと聞いています。

「そのくらいかかったかもしれませんね。一番苦労したのは何の曲だったかな…『ひこうき雲』かもしれない。後半の高い部分(リフの「空をかけてゆく」の個所)がなかなか大変だった。バンド(キャラメル・ママ)のほうは2~3か月で終わったけれど。でもバンドも細野晴臣さんが中心でしたが、細野さんがコードネームをメモにしてメンバーに渡して、セッションで1曲録るなんてやり方だったから、当然譜面もない。最初はアルファのスタジオAでずっとやっていたけど、あまりに時間がかかり過ぎて、村井さんから『いい加減にしろ』って怒られて、新宿の安いスタジオを借りて練習して、出来上がった形でアルファのスタジオで録る、というやり方に改善されました(笑)」

ひこうき雲

ひこうき雲

ーーーーーアルバムの中で「空と海の輝きに向けて」という曲がありますが、あれはユーミン自身が高い部分と低い部分をダブルレコーディングしています。最初からああいう形でしたか。

「あれは、最初からあの形になっていました。自分で上と下の両方歌うというのも彼女が決めていました」

ーーーーー「きっと言える」という曲も、当時の日本のポップスとしては異例の作品でした。

「あれはよくできた曲ですね。どんどん転調していく、それも半分転調してまた戻る、という繰り返し、あれは凄いと本当に思いました。その時、間奏をどうしようかと思って、先ほどお話したライトミュージックの先輩の西条孝之介さんにサックスをお願いしたんです。西城さんは日本のスタン・ゲッツと呼ばれていて、ボサノバ関係のテナー・サックスの第一人者ですから。スタジオに来てもらったとき、『僕は演歌や歌謡曲はやらないよ』というので、まあとりあえずは聴いてください、と言って聴かせたら『これは僕にぴったりだ!』と言って、1テイクでOKでした」

ーーーーー第一級のジャズ・プレイヤーを興奮させる出来だったと。

「やはりあの転調にあるんです。ジャズで転調は日常茶飯事だし、『ツー・ファイブ・ワン』というコード進行を使えば、どこにでも転調できる。でもユーミンは『ツー・ファイブ・ワン』の技術はもっていないのに、感覚でそれを構築できる天性の才能があるんです。技術や学問で作ったわけじゃない、だけどジャズ的に考えると合点の行くコード進行になっているので、西条さんも一発で吹けたんです。感性だけでそういったことができるのが、彼女の天才たるゆえんでしょうね」

ーーーーー転調といえば、のちの「中央フリーウェイ」も凄い転調の繰り返しでした。

「あれも凄いよねえ。『中央フリーウェイ』の転調に関しては、彼女は徹底して感性を磨いて、あの曲を生んだのだと思う。そこが素晴らしいよね。彼女はもう本当に天才でした」

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 荒井由実の『ひこうき雲』がいかに凄いアルバムであったかは、例えば『日本の名盤100選』といった企画で未だに必ず名前が挙がること、発売から40年の時を経て、宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』の主題歌に起用されたことなど、幾多のエピソードでもお分かりの通り。2020年現在でリリースから47年を迎えるが、47年前に録音された音源が、今も普通に「現在の音」として通用する楽曲が、日本のポップ・ミュージックの中で一体どのくらい存在するだろうか。発表当時、その洗練された画期的な作風は一部の音楽ファンの間で話題となったが、一方でその古びない、耐久力の高さもまた驚異的である。
 そこには、有賀のヴォーカルへの徹底した拘りがあった。一過性のものでない作品づくり、あまりにも鋭すぎる感性に見合う、ハイクオリティなアルバム制作への執念があってこその名盤誕生なのである。
 次回はその後の荒井由実作品について、またユーミンとこの時期活動を共にしていたハイ・ファイ・セットの諸作について、貴重なエピソードを開陳していきたい。

Text:馬飼野元宏