第4回 江藤勲さん

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写真提供:江藤優作

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 1970年代の日本の音楽シーンでは、幾人かの実力派プレイヤーたちが演奏を担当していた。例えば、ベーシストでは30~40名ほどのプレイヤーでほとんどの楽曲の演奏がまかなえていた。中でも、寺川正興、鈴木淳、荒川康男、山内テツ、武部秀明、岡沢章、細野晴臣、高中正義、高水健司、長岡道夫、富倉安生、小原礼、後藤次利、田中章弘、平野融、高橋ゲタ夫、岡沢茂などはトップ・ベーシストとして多くの録音に参加していた。

 今回紹介する日本のスタジオ・ベーシストの元祖とも称される江藤勲は、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」(68年)、ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」(69年)、南沙織「17才」(71年)、ちあきなおみ「喝采」(72年)、 麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」(73年)など、当時の代表曲に多数参加。亡くなった2015年にはその功績がたたえられ、第57回日本レコード大賞特別功労賞が授与された。当時のレコードにはクレジットが記載されていない作品も多く、コンプリートなディスコグラフィの作成は難しいが、アルファレコード関連の楽曲にも多く参加していたことを村井邦彦が述べている。

 江藤勲は、43年10月16日生まれ。17歳のときにポス宮崎とコニー・アイランダーズの弟バンド、時田よしゆきとグリーン・アイランダーズのギタリストとしてプロとして活動を開始。当初はフルアコ・ギターを弾いていたが、ある日ベースが欠場したのをきっかけにベーシストに転向。その後、克美しげるとロックメッセンジャーズ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、津々美洋とオールスターズ・ワゴンなどを経て独立。ギタリスト出身の江藤勲は自然とピックで弾き始め、日本人離れしたリズム感と自ら編み出した独特のトーンで、浜口庫之助、森岡賢一郎、小林亜星、筒美京平、川口真、鈴木邦彦、村井邦彦、都倉俊一などのヒット曲作曲家たちのファースト・コール・ミュージシャンとして活躍、トップ・スタジオ・プレイヤーとなった。

 その傍ら、石川晶とザ・ゲンチャーズ、石川晶とカウント・バッファローズ、ジミー竹内とエキサイターズ、杉本喜代志クワルテット(表記ママ)などにもレギュラー参加、数多くの作品に参加した。

 主なレコーディング参加アーティストは、美空ひばり、ザ・ピーナッツ、いしだあゆみ、弘田三枝子、伊東ゆかり、寺内タケシ、尾藤イサオ、布施明、水前寺清子、黛ジュン、中村晃子、奥村チヨ、由紀さおり、山本リンダ、堺正章、井上順之(井上順)、ザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズ、ザ・ジャガーズ、オックス、ザ・キングトーンズ、ヒデとロザンナ、ザ・ドリフターズ、内山田洋とクールファイブ、ピンキーとキラーズ、辺見マリ、ちあきなおみ、和田アキ子、野口五郎、南沙織、麻丘めぐみなど。ほかに、『サザエさん』(69年)や『海のトリトン』(72年)などのアニメ・ソング、ストロベリー・パスやザ・エムほかのニュー・ロック、かぐや姫やりりィほかのフォーク/ニュー・ミュージック、ギル・エヴァンスやディジー・ガレスピーらのジャズ、児童番組のNHK『ワンツー・どん』(77年)への出演など、ジャンルレスに幅広くプレイしている。また、江藤勲とザ・ブラック・パンサーズ、江藤勲とピックアップ・セブン、江藤勲とケニー・ウッド楽団などの名義で、国内のスタジオ・ベーシストとしては初のソロ・アルバムを2年間の間に10枚リリースした。

 スタジオ・ワークでは、国内で最初期に本格的にエレクトリック・ベースを使用したベーシストと言われている。60年前後から使用していた石田智(ダニー飯田とパラダイス・キング)など、江藤勲より早くエレクトリック・ベースを使用していた例はあるとはいえ、ウッド・ベースに対する副次的な使用方法であり、メイン楽器として本格的に使用したという点では、江藤勲こそが国内エレクトリック・ベーシストの元祖と言ってもいいだろう。

 また、60年代中ごろには、レコーディング・ディレクターにエレベは信用されていなかった。そのためレコーディングではウッド・ベースとエレクトリック・ベースの2人のベーシストが呼ばれ同じフレーズを弾かされたと言う。しかし、江藤勲は次第に信用を得て、ウッド・ベーシストたちをしのぐほどになり、エレクトリック・ベース・プレイヤーとして江藤勲の一人勝ち状態になってしまう。江藤勲の独占となってしまった音楽業界では、ウッド・ベーシストたちから不満の声が上がり、江藤勲が先輩ベーシストたちなどにエレベの弾き方を指南することになる。しかし自分のスキルに昇華できたのは、寺川正興や武部秀明などごく僅かのベーシストだけだった。

 江藤勲の独特のトーンは、アンプのトレブルとベースを上げて、しなりが強く薄い鋼製のピックで、ロント・ピック・アップ上部を叩きつけるようにピッキングして出している。ジェームス・ジェマーソンやドナルド・ダック・ダンなど、海外のスタジオ・ベーシストの多くは指弾きで、全体のサウンドになじむような丸みをおびたトーンで演奏されているのに対し、正反対のトーンを生み出していた。70年代初頭からは、ウィリー・ウィークスの影響から指弾き中心のプレイ・スタイルに変化した。

 70年代の多忙なスタジオ・ワークの時代を経て、40歳になった80年代前半からはウッド・ベースを始め、ジャズやハワイアンを中心に活躍した。85年からは、ハナ肇&オーバー・ザ・レインボーに参加、ハナ肇が93年に亡くなる1カ月前までライヴ活動をしていた。近年では、プロになったきっかけの時田よしゆきとグリーン・アイランダーズの兄的バンドの、ジョージ松下&コニー・アイランダーズに参加。60代の江藤勲が最年少メンバーとなって頻繁にライヴを行っていたが、15年4月25日に虚血性心不全のため急逝。享年71歳。亡くなる前日の24日、コニー・アイランダーズのベーシストとして横浜サムズアップに出演。本番はもちろん、打ち上げでも元気な姿を見せていたが、25日に行われる予定だった“噂の昭和歌謡バンド”のライヴのリハーサルに姿を見せず、自宅で倒れていたのを発見された。

 生涯レコーディング曲数は1万曲前後とも言われ、本人も把握していないほど。晩年ではウッド・ベースが中心ながら、エレクトリック・ベースでも円熟味を増したプレイを披露していた。前日までステージに立っており、まさに生涯ベーシストだった。

 前述のとおり、当時のレコードにはクレジットが記載されていない作品も多く、参加楽曲の全容は不詳。その中でも、江藤勲の参加が明らかになっている作品を紹介してみたい。

 フィフィ・ザ・フリーは、アルファ・レーベル第一弾リリースに選ばれたバンド。67年に大阪芸大軽音楽部で結成され、69年に「おやじのロック/ひとりぼっちのバラード」でテイチクレコードのユニオンレコードからデビュー。2枚のシングルをリリースするが、セールス的には振るわなかったが、アルファに移籍。そこで再デビュー・シングルとしてリリースされたのが「栄光の朝/戦争は知らない」(69年)だった。日本のソフト・ロックの金字塔ともいうべきすばらしい楽曲で、メンバーのうつみ伸一ではなく江藤勲がベースを担当。前述のとおり、ピックのしなりが伝わってくる江藤勲独特のトーンで躍動感たっぷりのベースをプレイしている。続いてリリースした「ワイト・イズ・ワイト/イエスタデイ・トゥデイ」(70年)でも江藤勲がベースを担当。

 宮間利之とニュー・ハードを経て独立したドラマーの石川晶。60年代末よりゲンチャーズを率いてジャズ・シーンで活躍。70年前後からは、カウント・バファファロー(ズ)の名称で活躍。その石川晶のソロ・シングルが「土曜の夜に何が起こったか/恋の朝焼」(70年)で、アルファの第2弾リリースとしてリリースされた。ここでも、ゲンチャーズやカウント・バッファローのベースを担っていた江藤勲がベースを担当。リズムは8ビートだが、石川晶のドラムスは16ビートのノリ。江藤勲もそれに呼応して16分音符を中心とした細かいパッセージをプレイ。遊び感覚でリリースしたかのようなシングルだが、完成度はかなり高い。

 初期のアルファを支えたグループで代表的なのが赤い鳥だ。世間的には、「翼をください」(71年)の印象が強く、フォーク・グループのイメージが大きいかもしれないが、『WHAT A BEUTIFUL WORLD』 (71年)や『美しい星』 (73年)など、フィフス・ディメンションやセルジオ・メンデスにも通じるかのようなソフト・ロック・サウンドを多数生み出している。彼らの4枚目のアルバム『竹田の子守唄』(71年)では、メロディを弾きたてながらも存在感のあるベースをプレイ。寺川正興とメンバーの大川茂と弾き分けている。翌年リリースの彼ら9枚目のシングル「二人/鳥のように」(72年)や、アルバム『パーティ』(72年)にも参加した。

 同年には、元ビーバーズで、 R&Bフィーリングを持ったヴォーカリストである成田賢のファースト・アルバム『眠りからさめて』(71年)にも参加。ミッキー・カーティスのプロデュースの下、ベースを教示した武部秀明とミッキー・カーティス&サムライの山内テツとともに参加。半数以上の楽曲でプレイしている。カントリー・ナンバー「地球最後の日」のグルーヴ感が素晴らしい。

 「学生街の喫茶店」(72年)が大ヒットしたためフォーク・グループの印象が強いが、実際にはソフト・ロックや和製クロスビー・スティルス&ナッシュの影響下にあったガロ。彼らの4枚目のオリジナル・アルバム『GARO 4』(73年)にも参加。彼らしいスウィンギーなシャッフル・ビートを生み出す「君の肖像」と、シンプルな8ビートながら絶妙の音価を聴かせる「憶えているかい」の2曲をプレイ。

 タモリのファースト・アルバム『タモリ』(77年)は、A面を「タモリの大放送」、B面を「タモリのバラエティー・ショー」と題した疑似放送番組を模した構成。バックは、江藤勲が在籍していた石川晶&カウント・バッファローのメンバーが参加して、タモリの高度なギャグをサポート。翌年リリースのセカンド・アルバム『タモリ2』(78年)にも参加した。

 その卓越したプレイで、1万曲にも及ぶ多数のレコーディングに携わってきた江藤勲。海外のプレイヤーにも劣らないスキルで、海外からの昭和歌謡の再評価にも貢献している。 「いつかセンターで演奏したい」というスタジオ・プレイヤーたちが多かった中、彼にはその思いは無かったという。さまざまなジャンルの音楽をプレイしてきたからこそ、サイドマンとしての奥の深さを知り、常日頃からそうそうたる作曲家やプレイヤーと仕事をしてきたことに感謝の念を語っていた。プレイのみならず、その人懐っこい性格で多くのミュージシャンから慕われており、「江藤勲さんを囲む会」という懇親会も定期的に行われていた。元祖スタジオ・ベーシストとして、今後さらなる評価がされることを期待したい。

Text:ガモウユウイチ