ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所

第一回「50年後のLAから」

Text:松永良平

あれは、そう。まだあの日から一年も経っていない。2019年6月12日、渋谷のライブハウス〈WWW〉で、LA出身の若きシンガー・ソングライター、ジェリー・ペーパーのライブを見ていた。

マイナー・レーベルから宅録的な作品をリリースしていた頃からすでに来日を重ねてきた知る人ぞ知るアーティストだったジェリーは、2018年にリリースしたアルバム『Like A Baby』が、マニアックな再発や現代的なダンス・ミュージックをリリースしているシカゴのレーベル〈ストーンズ・スロウ〉からリリースされ、一躍ちょっとした時の人となった。この日の東京公演も、アジア・ツアーの一環として組まれたものだった。

ライブの中盤、ジェリーは「日本のみんなのためにこの曲をプレイするよ」とMCした。バンドが演奏を始めた曲は、なんと佐藤博の「Say Goodbye」。

佐藤博_Awakening

佐藤博『awakening』(1982年発表)

同曲が収録された『awakening』は、1982年6月にリリースされた、佐藤にとって4枚目のソロ・アルバムであり、アルファレコードと契約しての第一弾でもある。数年前からインターネットを中心に、このアルバムへの関心が世界的に高まっているという事実は知っていた。そのモダンかつ未来的なシティ・ポップ・サウンドは今でこそ再評価やソフトの再発(アナログ盤でも再リリースされた)が進んでいるが、当時の日本ではほとんど話題にならなかったというのも事実だった。

折しも、シアトルとLAに拠点を持つアメリカのリイシュー・レーベル〈ライト・イン・ジ・アティック〉から、ジャパニーズ・シティ・ポップのコンピレーション・アルバム『Pacific Breeze』がこの年の5月にワールドワイドでリリースされたばかりだった。ジェリーがあのコンピレーションをきっかけにその曲を知ったばかりで、日本に行く興奮も相まって選曲したと考えるのは不思議じゃない。

しかし、この日の客席は「Say Goodbye」のカバーで、ドッと盛り上がったわけではなかった。原曲も英語詞のため、佐藤のバージョンを知らない客層にとっては「これは誰の曲?」という大きな疑問符が浮かんでいたと思う。韓国や台湾、タイへと続いたアジア・ツアーでもジェリーは「Say Goodbye」を演奏し続けたんだろうか?それとも、その国ならではのシティ・ポップをカバーしていたんだろうか?

その答えは、半年後にアメリカで出た。2019年10月13日、LAから車で2時間ほど内陸に向かったレイク・ペリス保養地で行われた音楽フェス〈Desert Daze〉に居合わせたぼくは、再びジェリー・ペーパーのライブを見た。来日時とおなじメンバーで50分ほどのセット。その中盤だった。バンドが「Say Goodbye」のイントロを演奏し始めた。ジェリーは、この曲について特別に説明するMCもしていない。なのに、観客からは「わー!」という歓喜の声が上がったのだった。

世界的に有名な超巨大フェスに比べればマニアックな顔ぶれが集まっているフェスだが(台風のため出演キャンセルとなったが、日本から坂本慎太郎の出演も予定されていた)、とりわけジェリーの熱心なファンが集まっているというような環境ではない。おそらく、ここにいる彼らは当たり前のようにこの曲を知っているのだ。

その反応が日本で見たときよりもはるかにダイレクトだったことは、しばらくぼくに強い印象として残っていた。

この連載『ALFA RIGHT NOW』を始めるにあたって、自分には何ができるだろうと考えた。アルファの50年のヒストリーや、ここから生まれた素晴らしい作品、活動をしたアーティスト、スタッフなどについての掘り下げは、たぶん、ふさわしい方々がやったほうがいい。自分にできることは、カタログの全世界配信が始まる流れを受けた「これから」の話じゃないかと思う。

東京と南カリフォルニアで見たジェリー・ペーパーの「Say Goodbye」のカバーは、その起点のひとつになると思えた。ジェリー自身が日本びいきとはいえ、特別にアルファから生まれた作品について詳しいとは思わない。だが、もともと60年代のサイケデリック・ポップやケヴィン・エアーズなどを愛する宅録青年であった彼の耳をとらえた佐藤博の曲は、間違いなくアルファから生まれたものだ。それが、どういう経緯があって、誰がバトンのリレーに関わって、さらに「これから」誰にアルファの音楽とその精神を手渡していくのかを知りたいし、糸口を探したい。

まずは、その話のふりだしを、「アルファ」が生まれた50年前の東京ではなく、現在の「LA」に置いて話を進めていきたいと考えた。

ロサンゼルスには、アルファの創設者である村井邦彦が移住し、長く暮らしている。そして、先述した『Pacific Breeze』のリリースに深く関わった若いスタッフやコラボレーターたちもLA在住だ。

2018年10月に刊行された村井の著書『村井邦彦のLA日記』に、興味深い箇所がある。

濱田髙志主宰のフリーペーパー『月刊てりとりぃ』に連載された文章を時系列で収録したこの本の「2016年」にある「アルファレコードを“掘る”アメリカの若者たち」という一章だ。

その冒頭の一文を引用する。

今朝、息子のヒロ・ムライの紹介でマークとマットとヨースケが僕に会いにきた。

マークはラジオ局をやっていて、先端的なアートや音楽を取り上げている。ヒロのミュージックビデオを観る会や彼の描いた絵の展覧会などを一緒にやっているそうだ。

マットとヨースケは「Light in the Attic(屋根裏部屋の灯)」という1970~80年代の米・欧・日の埋もれたレコードの復刻版を発売する会社をやっている。(『村井邦彦のLA日記』270ページより)

図版②

村井邦彦『村井邦彦のLA日記』(立東舎刊)

この冒頭の短い文章に、重要な人物が何人も登場している。

まず、「ヒロ・ムライ」。この当時はまだLAを拠点にテレビやミュージックビデオの製作を行なっている新進気鋭の映像作家だった。現在では2019年のグラミー賞で最優秀レコード賞、楽曲賞を受賞したチャイルディッシュ・ガンビーノ(ドナルド・グローヴァー)「This Is America」のディレクターとして世界的な知名度を手にしている(「This Is America」も最優秀短編ミュージックビデオ賞を受賞している)。村井の文中にもあるように、マークとヒロ・ムライにもともと交友があったことが、この訪問のきっかけだった。ヒロ・ムライの父親が村井邦彦であるという事実の判明は、大変な驚きだったそうだ。

「マーク」とは、マーク・マクニール。彼がやっているラジオ局とは、インディペンデントのネット・ラジオ局〈dublab〉のこと。2018年末、細野晴臣の過去タイトルから5作品の全米リリースがライト・イン・ジ・アティックで実現した際には、村井が出演して細野との出会いや作品がアルファから生まれていった背景についてインタビューに答えている(現在もアーカイブが残されていて聴取可能)。

「マット」は、2002年にシアトルで誕生したライト・イン・ジ・アティックを設立した共同創設者、マット・サリヴァン。

そして「ヨースケ」は、ライト・イン・ジ・アティックで2018年以降に実現する日本関連のリリースのディレクションにあたって、もっとも重要な役割を果たした日本人スタッフ、北沢洋祐。1979年生まれで、日本人の両親のもとでカリフォルニアで育った北沢だが、日本の音楽に興味を持ち始めたのは90年代の後半だったという。もともと60年代や70年代の音楽が好きだったという彼にとって、日本の音楽を深く知るきっかけとなった入り口は、60年代のグループ・サウンズ。やがて時代を追ってはっぴいえんどを知り、細野晴臣の重要性を知り、その後に細野を中心としたジャパニーズ・シティ・ポップの系譜へと探索の対象を広げていった。

ただし、ライト・イン・ジ・アティックに入社した時点で、すぐにジャパニーズ・ポップの仕事に取り掛かったわけではなかった。当初はアメリカのテレビや映画の権利をライセンスする仕事をしていたそうだ。

やがて、自身も後追いで知られざる過去の日本の音楽を紐解いていく興奮と、日本語が堪能で英語圏の人たちよりも一次情報にアクセスしやすいという利点、その両方が手伝って、日本の音楽の紹介が彼にとって大きなプロジェクトになっていった。

他にも、サンフランシスコを拠点とするインディー・フォーク・バンド、ヴェティヴァーを率いるアンディ・ケイビック、LAのラジオDJでミュージック・スーパーバイザーであるザック・カウウィーといった重要な人物がいるが(この連載でものちに登場することになるだろう)、2016年に村井邦彦家を訪れたのは、マーク、マット、ヨースケの3人だった。

そして、その訪問がひとつの転機となり、結実していったリリース・プロジェクトは以下の通り。

V.A.『Even a Tree Can Shed Tears : Japanese Folk & Rock 1969-1973』(2017年10月)

V.A.『Kankyō Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』(2019年2月)

V.A.『Pacific Breeze: Japanese City Pop, AOR & Boogie 1976-1986』(2019年5月)

V.A.『Pacific Breeze: Japanese City Pop, AOR & Boogie 1972-1986』(2020年5月)

このうち、『Kankyō Ongaku』が2020年のグラミー賞で優秀ヒストリカル・アルバム部門にノミネートされた。惜しくも最優秀賞の受賞はならなかったが、そもそもこの部門で日本の作品が対象となったことも、80年代の音楽が対象となったことも、史上初の快挙だったという。

また、前述したように2018年の細野晴臣過去作品5タイトルや、昨年実現した金延幸子『み空』のCD、アナログでの北米リリースも、このチームによる重要な仕事だった。

とりわけ、日本のフォーク、環境音楽、シティ・ポップという順番で発売されたことも、世界のリスナーの関心の変化を絶妙にとらえたタイミングだった。

その見極めの良さに感心したことを、昨年、北沢にぼくが行った取材(ミュージック・マガジン増刊『シティ・ポップ 1973-2019』に掲載)で伝えると、彼の答えは意外なものだった。

「じつは3枚のコンピレーションは全部同時に進行していました」(北沢)

つまり、村井宅を訪問した時点で彼らはこのすべてのアイデアを持っていたことになる。だが、日本のレコード会社との交渉の難航など、いくつかの問題を抱えていたのも事実だった。

日本のフォーク・ロック(ソフト・ロック)、シティ・ポップ、環境音楽(エレクトリック・ミュージック)のすべてにまたがってカタログを残し続けていたのが、アルファレコードだった。そして、細野晴臣を「プロデューサー」として初めて契約した人物が村井邦彦だ。

この訪問によって、いくつかの運命の鍵が開いたことは間違いない。次回からは、ライト・イン・ジ・アティックのリリースに関わった人々の証言を記しつつ、アルファレコードのカタログや精神がそのなかでどう受け止められていたかをたどっていきたい。21世紀アルファの旅とでもいったところか。

今回の連載にあたって、北沢にもあらためて取材を申し込んだ(その内容は次回以降にあらためて掲載していきたい)。そのなかで彼が言った印象的なひとことがある。

シティ・ポップという言葉は英語では意味が通じない言葉だったが、今では海外でもひとつのジャンルを指す言葉として成立しているが、という僕の発言に対して

「『Pacific Breeze』にはシティ・ポップとは(曲単位では)思えないような曲も入ってるけど、これもシティ・ポップだと言われればまあそうかなと思えてくる。F.O.E.の『In My Jungle』みたいな曲は僕はちょっと違うかなとも思うけど、86年のあの曲を入れることでシティ・ポップのエヴォリューション(進化)も示せてるとも思う。サウンドのプロダクションやドラムのサウンドとかは時代によって変わっていくけど、そこに共通したものがあればシティ・ポップとしてOKかな」

サウンドは時代によって変わっていっても、そこを貫く「何か」があればいい。その「何か」は、アルファレコードのカタログについても言えることだろう。それをいろんな人たちと話して考えていくことが、この連載の主眼になるし、美学のバトンの継承にもなるはずだ。