第7回 吉沢典夫さん(前編)

吉沢典夫氏_small

 1967年にヴィッキー・レアンドロスに「待ちくたびれた日曜日」を提供し作曲家としてデビューした村井邦彦。同時期に活躍した東海林修やミシェル・ルグランに学んだという音楽性は、国内の作曲家では、いち早くテンション・コードなどを取り入れ、圧倒的に洗練された楽曲を生み出していた。
 69年に、音楽出版社であるアルファミュージック(初代)を設立した村井邦彦は、70年に、川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹とともに原版制作会社のマッシュルーム・レコードを設立。すぐれた作品を生み出すには、すぐれたレコーディング・エンジニアの必要性を感じた村井邦彦は、日本のアル・シュミットともいえる洗練されたセンスを持った吉沢典夫を起用する。吉沢は当時、日本ビクターに所属しており、荒木一郎、フラワー・トラヴェリン・バンド、山本邦山、ミッキー・カーチスとサムライ、長谷川きよし、森山良子などを担当していたが、その洋楽的センスをもったエンジニアリングで、成田賢、GARO、小坂忠、アラン・メリルなど、ほとんどのマッシュルーム・レコード作品を担当。村井邦彦に請われて、71年に彼が立ち上げた原盤制作会社のアルファ&アソシエイツに移籍することになる。移籍後は、荒井由実、吉田美奈子、GARO、タモリ、細野晴臣、YMO、カシオペアらの名盤の録音を担当した。それまで歌謡曲的センスが強かった日本の音響界に、洋楽的センスを吹き込んだのは、まぎれもなく吉沢典夫によるもの。そんな国内の音響に多大な影響をもたらしたレコーディング・エンジニア、吉沢典夫のアルファ時代の回想を今回から3回に渡ってご本人のインタビューという形で紹介していく。
 第1回は、日本ビクターに入社。そして村井邦彦との出会いからアルファ&アソシエイツへの移籍、自社スタジオのスタジオAをオープンするまでのエピソードを伺った。

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ーーーーー幼少の頃はどんな音楽を聴いていたのでしょう。また初めて買ったレコードは何でしたか。

 最初は音楽ファンというわけじゃなくて、ハードの方に興味があったんですけど、初めて買ったレコードはフランク永井さんのEPだったかな。まさか、そのフランク永井さんを出しているビクターに入ることになるとは思わなかったんだけど(笑)。ビクターに入ったのは、昭和34年くらいだと思うけど、「ミキサー募集」というのを見たのがきっかけ。ミキサーという仕事を良くわからないまま受けに行って(笑)。とにかく入ってね。だから、最初の志は音楽じゃなかったんだけど、ビクターに受かってから初めて音楽を意識したんです。

ーーーーービクターでは、フランク永井さんも担当されていたんですか。

 ぼくが退職するときの最後のレコードが、フランク永井さんのレコードで京都のべラミでのライブ『フランク永井 at BELAMI』(72年)。ビクターって大きい会社だから、ジャンルは広くて、すべてやりました。純邦楽もやったし、ジャズもやったし、クラシックもやったし、童謡まで、それこそなんでもやっています。

ーーーーー当時も今の青山のスタジオですか。

 当時のビクターは築地にスタジオがあったんですよ。周りでちんとんしゃんが聞こえるような場所で、今の日刊スポーツ本社の駐車場のところにビクターがあって。そこで試験を受けたんだけど、そのあとあまりに採用の電話が無いものだから、こっちから電話してみたら、受かっているんだけど、スタジオが火事になっちゃったって言うんですよ。なのでスタジオに呼ばれて、まずやったのはスタジオの配線工事。入った日から徹夜ですよ。両親も、そんな会社勤まるのかって心配してくれて。でも、配線も好きだったから自分で作り上げていくっていうのが楽しかったですけどね。そのあとは3年間くらいアシスタントとしてずっと厳しく教育されました。ぼくのような新人はコンソールの前なんか座れなくて、毎日テープの編集とか。そのころのビクターは、𠮷田(正)さんの𠮷田メロディ全盛期で。アシスタントでは、橋幸夫さんの「潮来笠」(60年)が最後のアシスタントだったかな。そのあと、本城(和治)さんが担当していたフィリップスを担当することになって。その中にはミッキー・カーチスさんもいて、ミッキーさんのバンドのミッキー・カーチスとサムライ『河童』(71年)やミッキーさんの『耳』(72年)もぼくが担当しました。ミッキーさんとは、そのころからの長い関係ですね。

ーーーーー村井邦彦さんともそのころ出会われたんですか。

 それはテンプターズの「エメラルドの伝説」(68年)。その曲の作曲を村井さんがやっていて、それもぼくが担当していたんですよ。テンプターズもほとんどやっていますね。そのあと、ぼくがまだビクター在籍中にアルバイトでアルファのマッシュルームレーベルのGAROや小坂忠さんの録音に他のスタジオで行っていました。なので、マッシュルームのレコーディングは、ほとんどぼくがやっています。ただ、マッシュルームはコロムビア・レコードが発売先だから、まだビクター在籍時なので吉沢典夫っていう名前を出すのはまずいってことになって。そのときのディレクターが黒田さんだったので、彼の苗字をもらって“黒田典夫”っていう名前でクレジットされています。だから、黒田典夫ってエンジニアもいると思っている人もいるけど、実はぼくのことなの(笑)。

ーーーーー確かにGARO『GARO 3』では、吉沢さんと黒田典夫さんの2人がエンジニアでクレジットされています。そのころのマッシュルームのレコーディングではどこのスタジオを使っていたんですか。

 そのころはモウリスタジオ(注:中目黒にあったレコーディング・スタジオで、創設者は徳山藩13代目の当主毛利就擧。現在は、後継スタジオとして当時から少し場所を移してモウリアートワークススタジオとして運営)がほとんどだったかな。ただ、村井さんが「吉さん、ぼくのやっている音楽は、ミュージシャンの環境が良くないといい音は出せない。いい環境から出てきたいい音を忠実に録ればいい作品が生まれる」って言うんです。要するに、それまでは、音に関しては追及しているけど、スタジオの雰囲気は二の次だった。それで、村井さんが「吉さん、会社(ビクター)をやめて、こっち(アルファ)に来てくれないかな」っていう話になっちゃって。実は、まだビクターに相談する場合があると思い、出入り禁止は嫌だなと思って、村井さんに「スタジオを作りたいので、どうしても吉沢君が必要なんです。それでアメリカへ8月につれて行きます」とビクターの部長に直接説得してもらいました。まだビクターに退職届出す前です。

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          GARO『GARO3』(1972年発表)

ーーーーーそしてアメリカへ行くんですね。

 アメリカへは村井さんと秘書と私、ティアックの阿部常務の4人で出発。アメリカでは村井さんたちと別行動、向こうのティアック(TEAC CORPORATION OF AMERICA)にコーディネートしてもらいました。そこで、コンソールやテープレコーダーなど、いろんなメーカーのものを見たんだけど、最後にアメリカの機材コーディネーターが「もう一か所面白い会社があるから紹介するよ」って勧めてくれたのが、ブッシュネルっていう会社。10人くらいしかいない小さな会社で、その工場に行ったら、みんな立ち上がってメモを取り出したりして、スタッフがすごくやる気でね。その姿勢に感動して、カスタムでコンソールを作ってもらうことにしたんです。中身はAPI(注:ミキシング・コンソールの老舗メーカー。当時はパーツメーカーで、コンソールは無かった)のモジュールを使用して作ってほしいと依頼して。でも、結局スタジオのオープンの期日に完成品が間に合わなくて、半壊品で入ってきてね。そんな時もティアックさんがバックアップしてくれて、徹夜で完成させてくれました。

ーーーーーティアックが協力していたんですね。

 そのころのアルファは機械関係をティアックさんが全面的に協力してくれていたので本当に助かりましたね。スタジオ・システムをいろいろ注文してカスタムで作ってもらいました。そのあとも、機材はティアックさん経由でオーダーしてもらって。当時『Recording & Engineer』っていうアメリカの雑誌があって毎月輸入して買っていて、そこに新しい機材が載ると、買いたいんだけれど日本のどこの代理店でも輸入していなかった。そんな時に、ティアックさんのアメリカ法人経由で輸入してもらいました。ティアックさんにはすごくお世話になりましたね。

ーーーーー機材を輸入して、英語の説明書ですぐに使えるものなんですか。

 何の録音か忘れたんだけど、キーペックスのエフェクターの使い方がわからなくて、ミッキーさんと録音を今日は中止しますと、二人で徹夜して使い方を模索したことがありました。今までの機材の要領でさわっていてもどうしてもうまくいかなくて、ミッキーさんが英語の説明書を訳してくれたんだけど、要するにあなたたちの好きにやってくださいっていう感じで。ボリュームをいっぱいにすれば子音が取れるかと思ったら、逆だった。日本人の感覚とはちょっと違っていたから最初はつかめなかったんです。

ーーーーーそのスタジオというのが、港区芝浦にあった田町のスタジオAですか。

 そうですね。みんなAスタって呼んでいたんだけど、5階と6階に録音部があって、次のアルファ社長の大橋(一恵。注:大橋一枝名義で作詞家・訳詞家としても活躍)さんの時、ヤナセと三年間のビル使用を得ていましたが、新会社を南青山に移動。大橋さんから、「吉さん、あと一年契約が残っているから使用していいよ」と言われ、二年くらい5、6階をスタジオとして使用していました。お客さんも結構来てくれて捨てがたくて出られなかった。今ぼくの会社もASTって書きますが、Aスタっていうんですよ。Aスタとして、いろんな人に親しまれましたからね。愛着ある名スタジオでした。

 今回は、ビクターでの活躍からマッシュルーム・レコードを担当することになり、その腕を請われアルファ&アソシエイツに移籍することになった経緯を伺った。理想のスタジオを作り上げるためにアメリカまで視察に行って生まれたスタジオA。次回は、そのスタジオAで生まれた荒井由実、吉田美奈子、GAROなどの作品などについてお聞きする。

             Text:ガモウユウイチ