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番外編「細野晴臣のアメリカを探す旅はまだまだ続いている~ライブ・アルバム『あめりか』からの連想」

Text:松永良平

あれからもう2年が経とうとしているんだな、と手元のスマホに映し出された映像をじっと眺めてしまった。2019年6月3日、ロサンゼルス、車の窓から撮影した長い長い行列。コロナ禍以降のアメリカでは、こうやって密になって列をなすことすら、もはや幻の出来事だ。神話の世界を描いた絵巻物を見ているような気分にすらなる。

2021年2月10日、ソロ・アーティスト細野晴臣にとって初のライブ・アルバム『あめりか』がリリースされた。内容は、ぼくがあの行列を目撃したLAのマヤン・シアターでの演奏を収録したもの。新型コロナウィルスの影響がなければ、もっと早くに(2020年のうちに)出るべき作品だったのかもしれないが、結果的に1年半以上のスパンが空いたことで、記憶の鮮明さよりも断片的なコラージュ性が優っていった気がする。本来、ライブ作品とは「ある時間」のドキュメンタリー的な性格をどうしたって帯びるものだが、この『あめりか』はいろんな意味でフィクショナルな香りも漂わせる。ジャケットで右手に煙草を持ち、煙のような光のような白いもやで顔を隠した細野の姿は、「煙に巻く」という表現が似合うようにも思える。

そもそも「ライブ盤」という作品自体が、昨今はあまり見かけないものになりつつある。映像メディアの簡易性がこれほど高まってきているのだから、過去の貴重な記録音源を蔵出しするのならともかく、現在の技術なら映像も絡めて多角的な表現が可能だ。わざわざ「音だけ」に限定した状態でライブ作品をリリースしようとするミュージシャンは、どうしたって減っている。この『あめりか』だって、YouTubeで公開されたトレイラーには当夜のライブ映像がしっかりと使われているのだから、そのうちまとまった映像作品としての発表の可能性もあるのかも。

だが、現時点では、この音像だけの作品『あめりか』が、ぼくはとても好きだ。あの夜の細野の演奏とあの場の空気が経由地になって、自分の記憶/想像を自由にモンタージュさせてくれる。

マヤン・シアター


開演前、2階のゲストゾーンに座るヴァン・ダイク・パークスを見つけた(ぼくはLA公演のレポートを書く仕事があったので、このエリアで見ることを許可してもらっていた)。かつて日本で企画してCD化されたサウンドトラック盤『ポパイ』(1981年)で自宅取材をしたことが縁で、ぼくとヴァン・ダイクは不思議な縁を得た。2010年に〈De La FANTASIA 2010 -ポップ・ レジェンド-〉(2010年11月21日)出演のために来日したときは、細野との対談の進行を担当させてもらった。実際に会うのは、彼がパフォーマーとしての引退を宣言してウェスト・ハリウッドのLARGOで二晩のショーを行ったとき(2015年5月)以来だから、約4年ぶりになる。

76歳(当時)を迎えても相変わらず多弁で元気なヴァン・ダイクにあいさつした。「細野さんのソロ・パフォーマンスをあなたは日本でも見ているけど、こうしたアメリカで初めて公演できるのはドキドキしますよね」と伝えた。アメリカン・ルーツ・ミュージックと長いキャリアから選ばれた自作曲が同居した現在の細野さんのライブ・セットは、細野晴臣にとっての“Discover America”の現在形でもある。ヴァン・ダイクが1972年3月に発表したセカンド・アルバム『Discover America』の影響を大きく受けた細野による、いわば“初めてなのに凱旋公演”みたいなものだ。ヴァン・ダイクはどんな気持ちで今夜のショーを見るんだろう。親の気持ち? それともポップのメインストリームとは違う場所でしっかりと続いてきた水路を担う同志として?

「Stay Strong!」と言って、ヴァン・ダイクは別れ際に力強いグーパンチをくれた。しばらくすると、彼のもとを村井邦彦氏が訪れる姿が見えた。あとで知ったが、村井氏とヴァン・ダイクがじかに会ったのは、あの夜が初めてだったそうだ。

細野の人生の岐路に存在し、アメリカへの道を切り開くきっかけとなった二人。今はおなじLAに住んでいる。二人はいったいどんな会話を交わしたんだろうか。

細野晴臣とアメリカ、というテーマは、長いキャリアのあちこちについてまわる。それこそはっぴいえんどのレコーディング、YMOでのワールドツアーなどは、細野が志向した音楽がアメリカの地で直面した重要な場面だ。

ヴァン・ダイク・パークスは細野との対談に、72年10月に行われたレコーディングを振り返った、こんなシーンがある。

ヴァン・ダイク:当時、彼ら(はっぴいえんど)はこう言ったんだ。「僕たちはカリフォルニア・サウンドを求めて来たんです」と。私は周りのみんなを見渡して、「カリフォルニア・サウンド? そりゃ何だ?って思った。私たちにもわかってなかったんだから。

細野:だって、その当時は本当にアメリカとの距離感はすごいものがありましたからね。今はあんまりないんですが(笑)、当時は憧れの国でした。

(『レコード・コレクターズ』2011年2月号より)

細野が口にした「アメリカへの憧れ」という言葉がとても率直な響きだったことに、話を聞きながらちょっと驚いた記憶がある。

その“憧れ”という言葉を補完するような写真集が2冊、ぼくの手元にある。一冊は紙の本ではなくiPadアプリで2014年に発売された『野上眞宏のSNAPSHOT DIARY』。写真集『はっぴいな日々』などではっぴいえんど/細野ファンにはすっかりおなじみの野上だが、このアプリのすごいところは彼がまだ十代の頃に撮っていた写真もふんだんに収められていることだった。

なかでも1965年に短期交換留学として夏休みにアメリカに向かった野上が撮影したカラー写真の数々がすごい。立教高校の同級生だった細野は当時、高校三年生。すでにバンド活動を熱心に始めていたし、この渡米には参加していない。だが、カラープリントされた景色に感じた憧れと思春期特有の反骨を、なんとなく想像してしまう。

もう一冊の写真集は、そこからさらに10年さかのぼる。写真家・林忠彦の『AMERICA 1955』(徳間書店)。林が渡米時に撮影していながら未発表だった写真を2015年に一冊にまとめたものだ。報道写真やアート写真では映らないアメリカの市井の人々の姿や何気なく目に止まった景色がどうしようもなく愛おしい。敗戦国にとって輝く海の向こうの国だったアメリカにも「普通」があったと実感させてくれるようなポートフォリオだった。

当時、細野はまだ8歳だが、この写真集に収められているような光景を実感できる素質はすでにあった。門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』(文藝春秋)では細野家の人々や近くに住む叔父叔母たちがアメリカの音楽や映画に親しんでいた様子が活写されている。細野の叔母はパラマウント映画の日本支社で秘書として働いており、その縁で叔母の家を名優ジェームズ・スチュアートが訪れたという。

同書で、細野は母と姉に連れられて見た映画『ホワイト・クリスマス』(1954年12月に日本公開)で、(アーヴィング・バーリンが作詞作曲し、ビング・クロスビーが歌った)同名のテーマ曲に強く魅了されたことを語っている。

画像2


細野が大きく動かされた「ホワイト・クリスマス」という曲は、はっぴいえんどの成り立ちにも、じつは大きな意味を持っているかもしれない。

雪のクリスマスの光景がもたらすキラキラしたアメリカに魅せられたのと同時に、ビング・クロスビーの深みのある歌声は、細野にとってアメリカ音楽の深淵を覗く入り口になってはいなかっただろうか。幼き日に聴いたポピュラー・ソングの記憶が入り口になり、古いジャズ、ブルース、フォーク、ポピュラー・ソング、エキゾチカへの扉が開きやすくなったのではないかと考えてしまう。

そして、このクリスマス・シーズンを飾る稀代の名曲は、1963年にフィル・スペクターがフィレス・レコードのオールスターを集めて制作したアルバム『A Christmas Gift For You From Phil Spector』のオープニング・ナンバーでもある。ダーレン・ラヴの力強い歌唱でポップ・ソングとして生まれ変わったこの曲を、大滝詠一少年はレコードが擦り切れるほど聴いていたはず。

二人の性格も音楽性も異なるミュージシャンが、違う視点、違うヴァージョンで聴いていたおなじ曲が「ホワイト・クリスマス」だった。すでに「ホワイト・クリスマス」が、本人たちが出会う前に、接点も、その後の分岐点も決めていたんじゃないか。

まあ、ぼくがそういうパラレルワールドを考えるのが好きなだけかもしれない。でも、『あめりか』というタイトルは、じつは「はっぴいえんど」というバンド名の成り立ち(カタカナではなく、あえてひらがな)と一緒だとも思っている。ぐるっと回って完結、という意味ではない。細野晴臣のアメリカを探す旅はまだまだ続いている。