第6回深町純さん

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 1970年代の日本のクロスオーヴァー・シーンをけん引していた深町純。早くから海外の大物ミュージシャンたちとコラボレーションを積極果敢に行い、海外の作品と比べても全く遜色の無い作品を生み出してきた。自然と作品の質も底上げされ、国内フュージョンのレヴェルが上がってきたといえる。現在、国内のフュージョンが海外でも高い評価を得ているのは、黎明期に深町純が良質な作品を次々とリリースしてきたことも大きい。

 深町純は、46年5月21日に東京都渋谷区原宿で生まれた。2歳にして、すでに聴いた曲をピアノで再現できたという。3歳から本格的にピアノを習い始め、一流教師のもとに音楽教育を受けた。高校生時代にはオペラの指揮や演出を手掛けるまでになる。そして、東京芸術大学音楽部作曲家入学。在学中からプロとして音楽家の道を歩むが、卒業直前に中退をする。

 69年には、日生劇場で公演されたドフトエフスキー原作『白痴』の音楽監督を担当。70年には、初の楽譜集『ジャズ・ピアノで弾くビートルズ』をシンコーミュージックより上梓(針生正男と共著)。71年よりスタジオ・キーボーディストとしての活動を開始。浅川マキ「涙の彼岸花」(71年)、ジローズ『新しい歌/ジローズ2』(71年)にピアニストとして参加。同年には、日本初のピアノ弾き語りシンガーソングライターとしてポリドールレコードよりアルバム『ある若者の肖像』でデビュー。神谷重徳(g)、寺川正興(b)、日野元彦(ds)がバックを担当、自ら作詞・作曲・編曲・ヴォーカル・ピアノ・オルガンを担当した意欲作。また、初提供曲として、尾崎紀世彦のアルバム『アルバム No.4』に収録楽曲「おまえと夕日」の作詞と作曲を担当した。

 72年には、前作同様のシンガーソングライター路線のセカンド・アルバム『Hello ! 深町純 Ⅱ』と、ピアノ・ソロ・アルバム『ピアノ・ソロ/ベスト・オブ・ビートルズ』をリリース。シンセサイザーが日本に入ってきたころにスタジオ・ワークを始めた深町純は、アープ2600に接し興味を持ち、国内最初期にミニモーグを入手している。早くからシンセサイザーを使いこなしていたことから、その第一人者となり、同年より仕事量も急激に増加。わずか数年の間にスタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこになる。主なスタジオ・ワークに、森山良子『旅立ち/森山良子1972~RYOKO NOW』(72年)、りりィ『たまねぎ』(72年)、井上陽水『断絶』(72年)、『陽水Ⅱ センチメンタル』(72年)、『陽水ライブ もどり道』(73年)、『氷の世界』(編曲も担当/73年)、小椋桂『帰っちゃおうかな』(72年)、杉田二郎『旅立つ彼(ひと)』(作曲・編曲も担当/73年)、都倉俊一『This is my Song 都倉俊一の世界』(73年)、由紀さおり『ルームライト』(作曲・編曲も担当/73年)、赤い鳥『ミリオン・ピープル 赤い鳥コンサート実況録音盤』(73年)、『書簡集』(74年)、ガロ『サーカス』(レコードにクレジットは無し。編曲も担当/74年)、『三叉路』(75年)、遠藤賢司『KENJI』(74年)、モップス『EXIT』(74年)、石川晶・ジャッキー吉川『ドラム・ドラム』(75年)、カルメンマキ&OZ『カルメンマキ&OZ』(75年)、コマーシャル・ソング「ライオン アクロン(拝啓ボクは編)」(歌も担当/73年)など、枚挙にいとまがない。ほか音楽担当作品に、映画『蒼ざめた日曜日』(72年)、ドラマ『おはよう』(72年)、ドラマ『同棲時代』(73年)、『愛子』(73年)、ミュージカル 劇団四季『ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター(ジーザス・クライスト・スーパースター)』(73年)、ドラマ『ヨイショ』(74年)、ドラマ『6羽のかもめ』(74年)、ミュージカル 劇団四季『エクウス』(75年)、ドラマ『裏切りの明日』(75年)などがある。

 74年には、マイティ・サラダ・シンジケート名義で『SOUL ON!』をリリース。これは、松木恒秀(g)、江藤勲(b)、岡沢章(b)、石川晶(ds)、村上“ポンタ”秀一(ds)などのスタジオ・ミュージシャンによる企画盤ではあるが、近年和モノ・レア・アルバムとして再評価されている。

 そして、75年にいよいよクロスオーヴァー・スタイルのリーダー・アルバム『Introducing Jun Fukamachi』をリリース。東芝EMIのプロユース・シリーズ第一弾として制作され、彼の代表曲のひとつ「バンブー・ボング」が収録。大村憲司(g)、小原礼(b)、村上“ポンタ”秀一らが参加して、深町純の代表曲のひとつ「バンブー・ボング」が収録された。行方洋一による高音質なエンジニアリングで、DJのみならず、オーディオ・ファンにも人気が高い。余韻を尽かせぬまま、同年に、前作の参加メンバーを中心に深町純&21stセンチュリーバンド名義で『六喩』をリリース。和モノ・ジャズ・ロックやクロスオーヴァーの最初期の作品で、のちのフュージョン・ブームへとつながるマイルストーン的作品だ。

 その後も、村上“ポンタ”秀一との双頭名義(ポンタ村上&深町純)による『驚異のパーカッションサウンド!! ポンタ村上~深町純』(76年)、『スパイラル・ステップス』(76年)、ピアノ・ソロ作品『アット・スタンウェイ』(76年)、ピアノ・ソロ作品第二弾『アット・ザ・スタンウェイ テイク2』(76年)、『セカンド・フェイズ』(77年)、『トライアングル・セッション』(77年)、一人多重録音作品『サージェントペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(77年)、ピアノ・ソロ作品『ピアノの世界』(77年)、『ディラックの海』(77年)、『イブニング・スター』(77年)、『Jun Fukamachi』(77年)と、わずか2年間の間に東芝EMI、ポリドール、キティレコードから11枚ものオリジナル・アルバムをリリース。『スパイラル・ステップス』、『トライアングル・セッション』、『ディラックの海』、『イブニング・スター』では、ブレッカー・ブラザーズやスタッフのメンバーとコラボレーションを行っており、アメリカのトップ・ミュージシャンが日本人の作品に参加するのは、当時としては画期的なことだった。

 78年にはアルファレコードに移籍。移籍第一弾アルバムとして『オン・ザ・ムーヴ』をリリース。本作品でも、深町純が単身でニューヨークに乗り込み、ブレッカー・ブラザーズ、デヴィッド・サンボーン(as)、リチャード・ティー(kbd)、アンソニー・ジャクソン(b)、ウィル・リー(b)、スティーヴ・ガッド(ds)、マイク・マイニエリ(vib)など、東海岸のトップ・プレイヤーたちと制作した作品。親しみやすいメロディと剛腕ミュージシャンたちの素晴らしい演奏で、当時を代表するクロスオーヴァー作品として現在でも人気。まだ日本ではそれほど知名度が高くなかったマイク・マイニエリを本作で初めて知ったファンも多かったのでは。続いて、深町純&ニューヨーク・オールスターズ名義でリリースされたのが『深町純&ニューヨーク・オールスターズ・ライブ』。東京・郵便貯金ホールと後楽園ホールでのライブ実況盤で、前作『オン・ザ・ムーヴ』のレコーディング時にランディ・ブレッカーから「日本でコンサートをやりたいのだけれど、なんとかならないか」と問い合わせがあり、それならばと深町純のコーディネイトによりアルファがライブ盤のレコーディングを条件に応じたもの。前作に参加していたメンバーに加えて、スティーヴ・カーン(g)も参加している。まだ、日本では知名度が高くなかったせいか、飛行機では全員エコノミー・クラスで来日したそう。『オン・ザ・ムーヴ』同様に、剛腕ミュージシャンたちの緊張感あふれるプレイが聴きどころで、深町純は一歩引いて、本場の強者プレイヤーたちの緊張感あふれるプレイを見事にまとめている。

 その後、東芝EMIからリリースされた「平家物語を主題とした電子音楽による幻想的組曲」の副題がついた一人多重録音作品『春の夜の夢』(78年)、日本コロムビアからジュン・ノルシア・ストリングス名義でリリースされたイージーリスニング作品『BELOVED SCREEN MUSIC』(79年)などをリリース後、80年にアルファから『クオーク』をリリース。アルファでの最終作となり、深町純のアープ2600とピアノによる一人多重録音作品で、APIのコンソールを使用した最初期の盤となっている。

 81年には、プリズムの和田アキラ(g)、元トランザムの富倉安生(b)、マライアの山木秀夫(ds)とキープを結成。『DG-581』(81年)ほか3枚のアルバムをリリース。85年にはプリズムに参加、『Nothin' Unusual』(85年)ほか4枚のアルバムをリリース後に脱退。89年には洗足学園大学音楽部教授に就任、日本初のシンセサイザー科を設立する。同大学では、音楽工学研究所長にも就任。音楽と科学の文化的融合を目指す研究機関を発足させ、後身への育成に尽力を尽くした。95年に、メタ変奏曲による山木英夫とのデュオ作品『ヴァリエーション・オブ「ヴァリエーション」』をリリース後、96年に洗足学園大学音楽部教授退職。ピアノ即興演奏を主眼に演奏活動を再開する。『春夏秋冬』4部作(00年)、童謡集『カルム』(02年)、ピアノ・ソロ『花鳥風月』シリーズ(05年~06年)など、“日本の音楽”の創造を目指して演奏活動を続けた。2001年からは、定期的なソロ・ライブを開始。元G-クレフの渡辺剛(vln)と元山下洋輔ニュートリオの堀越彰(ds)とのTHE WILL、元BARBEE BOYSのKONTA(ss)と元美狂乱の佐藤正治(per, voice)による僕らのしぜんの冒険、和田アキラとのTHE DUOなどでも活躍した。2010年11月22日に、ソロ・ライブ予定日の直前に、64歳で急逝。遺作は、僕らのしぜんの冒険『gate』(11年)となった。

 クラシックからロックまで多岐に渡る活動で、その全貌は見えにくいが、彼の音楽は玄妙であり秀麗である。楽器を演奏するプレイヤーやDJはもちろん、そして音楽にはあまり縁の無いような一般の人にも心に響く“日本の音楽”を創造してきた。彼こそが、真のアーティスト(芸術家)と呼ぶにふさわしいミュージシャンといえるのではないだろうか。

Text:ガモウユウイチ