万華鏡のような世界が広がる赤い鳥の魅力と普遍性

Text:北中正和

 赤い鳥の「竹田の子守唄/翼をください」は、50年あまり前の1971年2月に発売され、何年にもわたってロングセラーを記録した。後者は言うまでもなく、教科書に掲載され、合唱曲として広まり、スポーツ競技のアンセムにも採用された曲だ。聞いたことがない人はいないだろう。被差別部落への配慮から放送自粛された時期もあった前者も、いまでは普遍的な力を持つ民謡として評価が定着している。
 彼らが活躍していた70年から74年にかけては、上条恒彦+六文銭の「出発の詩」、吉田拓郎の「結婚しようよ」、あがた森魚の「赤色エレジー」、GAROの「学生街の喫茶店」、井上陽水の「心もよう」、かぐや姫の「神田川」など、新しいタイプのアーティストのヒット曲が相次いで、歌謡曲中心だった日本のポピュラー音楽の構造が大きく変わろうとしていた時期だった。
 これらのアーティストは音楽的な背景もサウンドも異なっていた。しかしステージでアコースティック・ギターを手にうたう人が多かったことから、世間ではこの現象はフォーク・ブームとみなされ、赤い鳥もまずは代表的なフォーク・グループとして知られるようになった。いまもフォークの番組や通販のフォーク全集に赤い鳥の歌は欠かせない存在だ。とはいえこの2曲を含めて赤い鳥が残した作品をフォークという枠だけにとじこめることはできない。

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     赤い鳥『竹田の子守唄/翼をください』(1971年発表)


 赤い鳥は学生時代にピーター・ポール&マリーに憧れてフォーク・ソングをうたっていた後藤悦治郎が、尼崎市で「赤い屋根の家コンサート」を開催していたころに結成したグループだ。ピーター・ポール&マリーは伝統的な民謡やメッセージ・ソングを現代的に洗練されたコーラスに編曲して聞かせるグループだった。赤い鳥はそんな音楽の延長線上に構想された。
 グループは当初からコンビを組んでいた平山泰代に、ヒルビリー・シンガーズにいた山本俊彦、新居潤子、そして松田幸一を加えた5人組としてスタートし、ハーモニカ奏者として活動する松田が抜けた後、大川茂が加わってデビューした。
 グループ名は鈴木三重吉が1918年から36年まで刊行していた童謡と童話の雑誌にあやかって赤い鳥とした。この雑誌による「からたち」や「かなりや」などの童謡づくりの運動は、国民をひとつにまとめることを目的とした政府主導の学校唱歌とは異なり、子供たちの歌の文学的な深みや音楽的な可能性を広げる役割を果たした。その図式は60年代末の定型的な歌謡曲とフォークとの関係に重なっていたと言えなくもない。
 彼らは69年11月にヤマハがアマチュアを対象に開催していたライトミュージック・コンテストで「竹田の子守唄」をうたってグランプリを受賞。このコンテストでは3人組で出場していたオフコースが2位に入り、チューリップを結成する前の財津和夫も別のバンドで出場していた。
 赤い鳥が注目されたのは、メンバー5人全員がリード・ヴォーカルをとり、しかも洗練されたコーラスを聞かせるグループだったところだ。それまでの京阪神には高石友也や岡林信康を筆頭にメッセージ色の強い歌をうたう一群のアーティストがいて、60年代後半の東京中心のカレッジ・フォークに対して、関西フォークと総称されていた。しかし赤い鳥の音楽はそれまでの関西フォークともカレッジ・フォークともちがっていた。
 ライトミュージック・コンテストに出場する前の月に彼らは関西フォークを推進してきたインディーズのURCレーベルから「お父帰れや/竹田の子守唄」のシングルを発表している。「お父帰れや」は、60年代の経済成長期、一家の主が農村から都会に単身で出稼ぎに行くことが社会問題化したことを背景に白井道夫と鈴木きよしが作った歌。「竹田の子守唄」は京都民謡とだけクレジットされているが、20世紀前半まで、貧しい境遇の少女が子守として働きに出されることが珍しくなかった時代の、少女の嘆きの歌だ。
 テーマ的には関西フォークそのもののこの2曲を、赤い鳥は女性ヴォーカルを中心にしたきれいなコーラスに編曲していた。ソロもしくは斉唱や簡単なハーモニーだけの歌がほとんどだったこの時期のフォーク・コンサートでこんな複雑なコーラスを聞けば誰もが仰天したにちがいない。


 彼らをたまたまテレビで見て注目していた人が東京にいた。村井邦彦である。その彼のもとにヤマハから「グランプリの赤い鳥にプロとして活動してほしいのだが断られた、口説いてくれないか」と相談があった。彼らの可能性を強く感じていた村井はさっそくその依頼に応じた。
 寡占状態の大手レコード会社とアーティストの関係では、レコード会社が圧倒的な力を持っていた時代である。「お父帰れや/竹田の子守唄」のようなシングルをインディーズで出したくらいだから、赤い鳥は既成の音楽業界とは異なる価値観を持っていた。音楽業界に対する不信感だけでなく、プロに転じたとしても、レコーディングの経験やアレンジの知識の乏しい自分たちが、どこまで自由に音楽を作っていけるのか、不安もあったのだろう。村井はポルシェをとばして尼崎市の後藤の家まで訪ねて行ったが、メンバーは首を縦に振らなかった。
 しかしライトミュージック・コンテストのグランプリ受賞者にはヨーロッパ周遊旅行という豪華なおまけがついていた。そこで村井はせっかく行くのなら、一生の記念にとりあえずロンドンでアルバムをレコーディングしてみないかと提案し、それだったらとメンバーも了解。スタジオはビートルズも使ったことがあるトライデント、一流のソングライターやプロデューサーに曲作りや現場を任せ、村井も曲を提供した。
 そこから先は関係者がくり返し語っている有名なエピソードだ。
レコーディング中も、プロ入りをためらっているグループに、村井は最後の説得を試みた。「こうしよう。みんな目をつぶってくれ。そしてプロになってもいい人は手をあげる。手を上げた人が上げなかった人より多かったらプロになろう。少なかったら説得はあきらめる」
 そしてメンバーが目をつむって一呼吸置くと、村井はメンバーに宣言した。「よし。決まった。3人が手をあげたから、プロだ」
真実は村井のみぞ知る、である。

赤い鳥_FLY FITH THE RED BIRDS

赤い鳥『FLY WITH THE RED BIRDS』(1970年発表)

赤い鳥は74年に解散するまでに次のアルバムを残した。
『FLY WITH THE RED BIRDS』
『RED BIRDS』
『WHAT A BEUTIFUL WORLD』
『竹田の子守唄』
『スタジオ・ライヴ』
『パーティー』
『美しい星』
『祈り』
『ミリオン・ピープル~赤い鳥コンサート実況録音盤』
『書簡集~ラスト・アルバム』

これらのアルバムの音楽の幅は非常に広い。

「竹田の子守唄」のコーラスは、歌詞とタイトルを変えた同じ曲「人生」も含めて、基本的には民謡に合唱曲的なハーモニーをつけて現代化したもので、演奏にも洋楽ポップスの要素は少ない。当初はこの方法から少しずつ音楽を広げていくつもりだったのかもしれない。たとえば深町純や渡辺貞夫も参加したライヴ・アルバム『ミリオン・ピープル~赤い鳥コンサート実況録音盤』の20分を越える民謡「もうっこ」ではほとんどジャズのような演奏が続くが、歌とコーラスは「竹田の子守唄」の発展形だ。
 赤い鳥が村井邦彦と契約してプロ・デビューを決めたとき、両者の間で音楽的な方向性についてどんな意見が交わされたのだろう。いや、その前に山本、新居が加入した段階で、赤い鳥の音楽の未来はどこまで考えられていたのだろう。
 初期の赤い鳥は、ピアノを弾くメンバーもいたが、基本的にはアコースティック・ギターとベースを弾きながらうたうコーラス・グループだった。当時のテレビ番組の映像を見ると、楽器を持たずにコーラスだけで出演しているときもある。だからレコーディングではスタジオ・ミュージシャンを起用した。ロンドンやロサンゼルスのミュージシャンも参加している。演奏が曲ごとに、アルバムごとにちがうのは当然だった。
 「基本的には赤い鳥は民謡とフィフス・ディメンションみたいなコーラスものの両方をレパートリーにしてました」と山本潤子は後に語っている(『日本のポピュラー史を語る 時代を映した51人の証言』P205)。
 フィフス・ディメンションは「アクエリアス/レット・ザ・サンシャイン・イン」「ウェディング・ベル・ブルース」などのヒットで知られるアメリカの黒人コーラス・グループで、R&Bというより洗練されたポップなコーラスで人気があった。赤い鳥がデビューした69年には「アクエリアス/レット・ザ・サンシャイン・イン」が全米ナンバー・ヒットを記録、日本でもよく聞かれていた。赤い鳥は『美しい星』ではフィフス・ディメンションの編曲家ボブ・アルシヴァーも起用している。ギターの大村憲司(72年から73年)、ドラムの村上”ポンタ”秀一(72年から73年)、キーボードの渡辺俊幸(73年から74年)がメンバーに加わった時期もある。
 『FLY WITH THE RED BIRDS』『RED BIRDS』『WHAT A BEUTIFUL WORLD』などでの英語曲のカヴァーやオリジナル、洋楽色の強い編曲は村井の提案だったのかもしれない。もちろんメンバーも了解した上でのことだろうが、デビュー前の赤い鳥からすると、そこには明らかな飛躍があった。メンバーの中でも意見が一致するとはかぎらず、ポンタは『美しい星』のLAレコーディング中に赤い鳥が解散するしないでもめていたのを目撃している。「やめちまえ」と言ったら、メンバーが怒った反動で解散を保留したとも語っている(『自暴自伝』P33)。サービスで盛ってしゃべるのが得意な人なので、話半分と思ったほうがいいだろうが、グループは結局74年を境にハイ・ファイ・セットと紙ふうせんの二つのグループに分かれる。
 とにかく「竹田の子守唄/翼をください」しか知らない人には『パーティー』や『祈り』や『書簡集』を聞いてほしい。そこにはビートルズやフェアポート・コンヴェンションからカントリー・ロックやブルース・ロックやプログレッシヴ・ロックまで、万華鏡のような世界が広がっている。人気に比して音楽的文脈で語られることがあまりにも少なかったグループだが、英語の歌も含め、ソフト・ロックやシティ・ポップの文脈から見ても赤い鳥の評価は今後もっともっと高まっていくはずだ。

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         赤い鳥『パーティー』(1972年発表)

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          赤い鳥『書簡集』(1974年発表)