第3回 有賀恒夫さん(後編)

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 3回に渡ってお送りした、アルファミュージックのディレクター・有賀恒夫へのインタビューもこの後編が最終回となる。今回は70年代後半のアルファを彩ったサーカスとブレッド&バターの2組のアーティストについて、また村井邦彦と有賀のタッグによる、妥協なきレコーディングへの姿勢など、数々のエピソードを交えてお届けする。

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ーーーーー70年代後半に有賀さんが手がけた、2つの象徴的なグループであるサーカスとブレッド&バターについてお伺いします。まず、サーカスですが、もともとは77年に徳間で1枚シングルを出していますが、翌年アルファに移籍して、いきなり「Mr.サマータイム」でチャート1位の大ヒットを飛ばしました。同じアルファのコーラスグループでもあるハイ・ファイ・セットとの棲み分けはどのようにお考えでしたか。

「ハイ・ファイ・セットは赤い鳥の時代から連綿と活動していて、3人になってからも地道に全国ツアーなどを回り、だんだん売れてきたグループですが、サーカスはいきなり一発目で売れてしまった。まだファンの開拓も進んでいないし、人気が盛り上がって出てきたわけじゃない、土壌のないところにいきなりビルが建ったみたいなものでした。そうなると、アルバムを作る際に、彼らのアイデンティティとなるものが存在していないんです。それでどうやってその先を進めていくのか、苦労しましたが、そこはメロディーの良さなどで、持って行きました」

ーーーーーサーカスは、ハイ・ファイ・セットに比べると少し色っぽさがあるというか、特に叶正子さん、卯月節子さんの女性ヴォーカルお2人にそういうニュアンスを感じます。

「それはありますね、「Mr.サマータイム」なんて不倫の歌だしね。ハイ・ファイ・セットはセクシーという感じではないから。なかにし礼さんの詞で「フィーリング」にちょっとそういう匂いも出てきたけれど」

ーーーーーその「Mr.サマータイム」はミシェル・フュギャン&ル・ビッグ・バザールの「愛の歴史」に日本語詞を乗せたカヴァー曲でした。彼らの2曲目「愛で殺したい」もやはりミッシェル・フュガンの曲です。こちらは先にしばたはつみさんが「私の彼」というタイトルでカヴァーしています。

「ああ、そうでしたか。しばたさんのほうは知らなかったけど、ミシェル・フュギャンは僕が見つけてきたんです。アルファミュージックの権利楽曲で何かないかな?と探してね。ハイ・ファイ・セットが歌った「海辺の避暑地に」もミシェルのカヴァーで、これは僕が決めました」

ーーーーー「Mr.サマータイム」は原曲を聴くと、かなりけだるいロック調で、サーカスのヴァージョンとはずいぶん印象が異なりますね。

「そういえば、編曲の前田憲男さんが、レコーディングの際に『けだるく行って』と言っていたのを思い出した。前田さんの起用は村井邦彦さんが決めました」

ーーーーーファースト・アルバム『サーカス1』は「夢で逢えたら」や辺見マリの「経験」など、ユニークなカヴァーが目を惹きますが、これらの選曲はどなたでしたか。

「『夢で逢えたら』は村井さんと、ギョロナベさんと呼ばれていた、TBSの音楽番組プロデューサーの渡辺正文さんが決めたと思います。サーカスはTBSの『サウンド・イン・S』によく出演していたから、その流れもあったのかもしれません。『経験』は村井さんが決めました。村井さんは何かと自分の曲を突っ込んでくるんです(笑)。でもあのアレンジも面白くできましたね」

ーーーーーサーカス4人のハーモニーに関しては、どうお考えですか。

「節子ちゃんは、主張が強く前に出るタイプで、正子ちゃんはそうでもなく、引っ込むタイプ。それでメインを正子ちゃんにして、節子ちゃんをサブにした。男性2人も、人柄もいいし、そういう形でまとまるとグループは強いですね。それに全員血縁者のグループって珍しいよね。とにかく上手いし、4声だし、申し分ないですよ。その後彼らがファンハウスに移ってからも僕がプロデュースをしています」

ーーーーー2年目の大ヒット「アメリカン・フィーリング」ですが、作曲の小田裕一郎さん、編曲の坂本龍一さんの起用はどなたでしたか。

「坂本君は、自然に決まっていた感じでしたね。この曲はJALのCMソングとして作られたもので、当初は小田さんの曲がサビだけで、Aメロがなかったんです。それで、1曲にするのでAメロを作ろうと言うことになり、小田さんにお願いして。ただ、最初にできた曲が良くないので書き直してもらったら、2度目も良くなかった。小田さんは『僕はこれでいいと思います』と言うけれど、僕は認めなかった。それで3回目に書いてきたものが良くて、それが今、皆さんご存知の『アメリカン・フィーリング』です。曲を作る時は、僕が相当手を突っ込んでいることが多いです。ブレッド&バターの時もそうでした。彼らも自作の曲を持ってくるんですが、サビはいいけれどAメロが良くないとか、そういったことが多かった」

ーーーーーそのブレッド&バターは、75年末から音楽活動を休止していましたが、復帰第一弾となったのが、79年、アルファに移籍しての4枚目のアルバム『Late Late Summer』でした。彼らはどなたがアルファに呼んだのでしょうか。

「当時、アルファミュージックのスタッフに田原君という人がいて、彼が推薦してきて、僕も彼らの歌い方が好きだったので手がけることになりました。ハイトーンで。少年のような澄んだ声質で、当時ああいうタイプのデュオはいなかったから。それで僕がやることになって細野(晴臣)さんにアレンジを依頼しようと相談に行ったら、『ああ、彼らならやりたいね』と言ってくれたことも、きっかけの1つです。その中で、ユーミンに依頼してあがってきた曲が良かったので、それをシングルにしました」

ーーーーーそれが「あの頃のまま」ですね。

「そうです。彼らは自分たちで書いた曲でやりたかったようだけど、そこは強引に押し通した。出会った当初は、まだブレッド&バターの2人は僕のことを信用していなかったんですよ」

ーーーーーそのあたりは、どのようにしてアーティストとの信頼関係を築いていったんですか。

「彼らは譜面を読まないから、僕が考えていたものを全部彼らに口伝えで教えたんです。音の付け方は、例えばコードがCと書いてあると、僕はミソシレ、と付ける。それがジャズ的な作り方なんです。それを彼らに1回目はこの部分だけ歌って、2回目はこの部分だけ歌う、という形で教えて。本人たちはイメージが湧かないけれど、それを同時に鳴らしたときに、きれいにハーモニーが決まる。それから僕のことを信用してくれて、楽曲の直しも良くやってくれるようになりました。プロデューサーはそうやってアーティストのいいところをどれだけ引き出すかが勝負で、それには信頼関係がないと上手くいかない」

ーーーーー「あの頃のまま」はユーミンが呉田軽穂名義で作詞・作曲をしていますが、この曲はどのようにして作られていったのでしょう。

「サーファーの主人公と社会人になった友達との友情を歌った曲ですが、当初、ユーミンが書いてきた詞は、サーファーのほうがネクタイの友達をうらやむようなニュアンスがあったんです。この2人は同等の関係性にしてほしい、とお願いしたら『有賀さん、わかった』と言って、あくる日持ってきたのが、今の形の詞でした。サーファーの主人公は、言うなればブレッド&バターの2人の人生そのものなので、ネクタイの男をうらやむ内容だと、彼らの生き方を否定するみたいになってしまうから。でも、僕はユーミンの作品に文句を言ったことはなかった。毎回、よくできた曲を作るしね。そういう形で直してもらったのはこれ1回だけかな」

ーーーーーブレッド&バターはアルファでその後『MONDAY MORNING』『Pacific』と通算3枚のアルバムを発表していますが、いずれも現在は名盤として愛されています。

「海の三部作って言うらしいです(笑)。湘南サウンドとも言われるけれど、そういう気持ちは僕にはまったくなくて、彼らのアイデンティティを大事にした結果だと思っています。湘南というサングラスをかけて見ると、何でもそこに集約できてしまうからね」

ーーーーーその中でも「MONDAY MORNING」という曲では、山上路夫さんが詞を書いていますね。

「これは曲が先にできていました。それを持って僕が山上さんのところに行って、『学生時代から延々と続くヨットの集まりがあって、でもいつの間にか1人だけ、結婚して集まりに来なくなった。でもある時戻ってきて、なぜ戻ってきたのかと聞くと、実は離婚したんだ…』と、そういう話を歌にしてくれって頼んだんです。そうしたら『有賀くん、それは1曲には収まらないよ』(笑)。それで途中までの歌になったんだけど、でもいい詞を書いてくださいました」

ーーーーーところで、このアルファ移籍時に、ブレッド&バターにスティーヴィー・ワンダーからの提供曲をアルバムに入れる予定だったとか。

「『特別な気持ちで』ですね。あれは幸ちゃん(岩沢幸矢)がアメリカでスティーヴィーに会った時にもらった曲だ、と言っていて、凄くいい曲だから、ユーミンに詞を頼んで、細野さんのアレンジで録音したんです、ちょうど『Late Late Summer』と同時期だったと思います。それで出そうという時にスティーヴィー側から待ったがかかって、オクラになったんです。スティーヴィーが『心の愛』として自身でリリースしたのち、84年にファンハウスで同じメンバーでレコーディングしたものが『特別な気持ちで』ですが、あれは詞が違っていたと思う。アルファで録音した完パケ版が、今も倉庫にあるはずですよ。それも本当にいい録音なんです」

ーーーーーブレッド&バターとはとてもいい関係を築けたのですね。

「最近、コロナ禍になる前に、彼らのステージに僕が呼ばれて、サックスを吹いたり、練習も付き合って、ああだこうだと言いながら楽しくやりました。今でも付き合いがあるんです」

ーーーーーほかに有賀さんが手がけたアーティストでは、ルネ・シマールはいかがでしたか?

「ああ、彼は本当に小さくて可愛かったね。詞もメロディーも良かったし、歌も上手いしね。僕はその後、ラスベガスで彼のショーを偶然見たことがあるんだけど、小型のベンツのオープンカーに乗って出てきたので、びっくりしました。僕には小さい頃のイメージしかなかったから、ずいぶん大人になったなあと思いましたよ」

ーーーーーいしだあゆみさんも、アルファで1枚だけ『いしだあゆみ』というアルバムを作られていますね。

「これもギョロナベさん経由で来た話で、僕は凄くいいアルバムだと思います。当時、アルファ周辺にいた佐藤健や滝沢洋一、あとユーミンにも作曲を依頼して、作詞も岩谷時子さんにお願いして、アレンジは井上鑑さん。あゆみさんも一所懸命やってくれました」

ーーーーーいしだあゆみさんの歌い方は、「ブルー・ライト・ヨコハマ」の頃とは違って、ウィスパー・ヴォイスでまた違った魅力を感じます。

「そういう歌い方にしたから、リップノイズが凄くて、それを消すのに苦労しました」

ーーーーーアルファの初期の頃は、岡崎広志さんもコーラス指導などで関わられていたそうですが。

「岡崎さんはコーラスに関しては凄い、完璧な人でした。岡崎さんにはハイ・ファイ・セットの『中央フリーウェイ』で、サビに行く前にスペースがあるので、そこでアルトサックスを吹いてもらっているんですが、抜群にいいんです」

ーーーーーそういうミュージシャンの起用は、有賀さんが決めることも多かったですか。

「ほとんどは僕が決めていました。ユーミンの場合も、間奏部分などは僕が決めたこともあります」

ーーーーーところで、アルファではアルバムが完成した際には、視聴会のようなことはやっていたんでしょうか。

「村井さんも含め、スタジオにみんなを集めて、何かとやりましたね」

ーーーーーそういう時の村井さんの反応は、どんな感じなんですか。

「反応はないんですよ(笑)。褒められたことは1回もない。ダメ、というのはいっぱいあるよ(笑)。ミックスをやり直すよう言われたことは何回かありました。『何か違うな』というのではなく、例えばベースが足りないとか、具体的に言われます。でも、村井さんの言う通りに直したら、本当に良くなるんですよ。僕も反発するでもなく素直に言うことを聞きました。先輩・後輩っていうのはそういうものなんです、いまだに(笑)。でも一度だけ、サーカスの曲で、洋楽のカヴァーですが、だんだんと半音ずつ転調していく楽曲があるんです。竜真知子さんに詞を書いてもらって、ニューヨーク録音で、Mike Mainieriがアレンジしているんですが」

ーーーーー「去りゆく夏」という曲ですね。

「そうです。歌は日本で録音しているんだけど、上手くいかないとそこからやり直す、というやり方をしょっちゅうしていたんです。でもその曲は別れを前にだんだんと気持ちが高ぶっていくような歌で、(叶)高君が『有賀さん、これは止めないで最後まで行きましょう』というので、僕もああ、そうかと思い一気に歌ってもらったら、正子ちゃんが気持ちが入り過ぎて、涙でいっぱいになってしまって。その録音を村井さんに聴かせたら『歌が良くないからもう1回やったら?』と言われたんです。僕は『でも村井さん、これはだんだんと感情が高ぶっていく歌の、重要なシーンなんですよ!』って説明したら『ああ、そうなの?』ってちょっと不満そうだった(笑)。でもそれはやり直さなかったです。村井さんも認めてくれたから良かったんですが、そんなこともありました」

ーーーーーアルファにはいつまで在籍していらしたのでしょうか。

「12年いました。村井さんが辞められて、しばらくしてから辞めました」

ーーーーー有賀さんが思う、アルファの社風というか、会社の雰囲気はどんなものでしたか。

「学生の延長というか、部活のノリに近い面白さがありました。当時、日本のレコード会社で、音楽家が社長というケースはなかったでしょう。そういう意味では、音楽的にはやりたいことがやれる会社でした。僕の立場では音楽のことだけ考えていれば良くて、売れるとか売れないという基準で考えていなかった。それがいいとか、悪いかはわからないけど、とにかく楽しかったです。辛いと思ったことがあまりないですね」

ーーーーー村井さんとのアルファでの12年間を振り返って、どんな思いがありますか。

「中学の頃からずっと先輩・後輩の関係で来ているので、もちろん逆らえないというのはありますが、音楽的にはプロデューサーとして、作曲家としての両方の面で尊敬しています。アルファの時代は、スタジオの使用時間が長いので、しょっちゅう怒られていました。ミックスのやり直しでスケジュールが延びてしまうこともありましたが、その分、音楽面では妥協なく作っていました」

ーーーーー現在、アルファの作品が長い年月を経て未だに聴かれているのは、そういった妥協なき制作姿勢にあるのではないかと思います。

「音楽は後に残るものだから、妥協などしてはいけないんです。時間がないとか予算が足りないとか、そういう面で妥協しないよう制作できたのが、結果として今も多くの人に聴かれる作品になったのだと思います。どの作品にも1曲、1曲、アーティストの気持ちが入っていますから」

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荒井由実、ハイ・ファイ・セット、サーカス、ブレッド&バターetc.彼らの音楽が一様に、現在ではシティ・ポップの文脈で若者たちにも愛され、未だに聴かれ続けているのは、プロデューサー・村井邦彦とディレクター・有賀恒夫の、音楽への妥協なき姿勢あってのものである。それは3回に渡ってお送りしたこのインタビューの中で、随所に登場する制作現場のエピソードからもお分かりの通り。比類なき才能をもつアルファのアーティストたちを影で支え続けた有賀の尽力がなければ、日本の音楽シーンは全く違う形になっていたかもしれない。

Text:馬飼野元宏