ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所

第四回「北沢洋祐に聞く / 50年後のLAから:エピローグ」

Text:松永良平

2017年からリリースを開始した米〈ライト・イン・ジ・アティック〉のジャパン・アーカイヴ・シリーズのなかでも突出した人気を得たジャパニーズ・シティ・ポップ・コンピレーション『Pacific Breeze』のVol.1(2019年5月)、Vol.2(2020年5月)。その編集に中心的に関わってきた人物たちへのインタビューを行ってきた、この連載。ひとまず第1章は今回で最終回となる。

最後は、やはり〈ライト・イン・ジ・アティック〉のスタッフとして、選曲、構成、ライセンスと全体をプロデュースした北沢洋祐に話をもう一度聞いておくことにしたい。アンディ・ケイビック(ヴェティヴァー)、マーク・“フロスティ”・マクニール(dublab)への取材を仲介してもらったり、何度となくやりとりを続けてきた。連載中にも触れてきたが、新型コロナウィルスが及ぼす影響が日米ともに大きくなるなか(北沢の住むアメリカ西海岸もいまや被害が甚大)での取材は、単なる趣味嗜好の範疇を超えて、音楽を届けるということに対する姿勢をお互いに考えている時間でもあったように思う。

ひとまずの区切りとなる今回の取材で、まずは本来ならインタビューをしたかったが諸事情で叶わなかった『Pacific Breeze』プロジェクトでのもうひとりの重要人物、ザック・カウウィについての話を聞いた。

──ザック・カウウィは、『Pacific Breeze』プロジェクトにとってどんな存在でしたか?

「ザックは、LAのミュージック・スーパーバイザー/DJで、いろんなことをしてます。村井さんとマークがトーク・イベントをやったLAのカフェ〈イン・シープス・クロージング〉も、彼がアーティスティック・ディレクターとして最初のコンセプト作りとかオーディオ装置の選定とかをやったんです。お店は、日本のレコード・バーみたいなところをイメージした感じ。そこではあくまで音楽が中心で、話を大きい声でしちゃいけなくて、アルバムを聴くイベントとかもやってたりしてました。

日本の音楽がすごく好きだし、DJとしても越美晴とか、テクノポップっぽい曲をよく流してました。日本の音楽をまだみんながあんまり聴いたことがないころからDJでかけていて、コンピレーションになる前から日本の音楽のこと話したりしてたから、ぼくらの企画に関わっていったのも自然な感じでしたね。それにもともとザックは以前から〈ライト・イン・ジ・アティック〉ではいくつかプロジェクトをやってました。『Country Funk 1969-1975』(2012年7月)と『 II 1967-1974』(2014年7月)もザックのプロダクションだったんです」

──あらためて、その力強いスタッフのなかでジャパン・アーカイヴ・シリーズでの北沢さんの役割は、どういうものだったと思います?

「いちばんの役割は曲のライセンスを取ること。それができなかったらただのミックステープとかSoundcloudで公開されているミックスと変わらないですから。日本のレコード会社と交渉して実現させることが重要だったし、そういうビジネスサイドが僕の担当。外から見たらあんまりおもしろくないところなんですけどね(笑)。あんまり気にしないで勝手に音源を使ってるようなレコードも世の中にはあるけど、ちゃんとやるとなると大変なんです。

やり方としては、最初に曲のリストをだいたい30曲以上くらい作って、そこからライセンス可能かどうかを調べて、リストを少しずつタイトにしていくんです。プロデューサーとしては、曲順がレコードのA面B面として音楽的にも意味がある並びになっているかどうかは結構気にしました。最後のほうになって、やっぱりライセンスできない曲が出てきて、この曲なら簡単にライセンスできるから変えたらどうか、みたいな局面もありましたけど」

──その苦労はつきまといますよね。

「山下達郎の曲も何曲かリストにありました。シティ・ポップにとっては重要な人物だし、外したくないからずっとリストに入れたままにしておいて交渉を頑張ったんですけど、やっぱりダメだった。ブレッド&バターの〈ピンク・シャドウ〉もVol.1に入れたかったんだけど、最初はダメだと言われていて。でもVol.2のときに再度打診したらOKが出たんです。ライセンスにまつわるエピソードは『Kankyō Ongaku』でも結構いろいろありましたね」

図1

図2


──『Pacific Breeze』へのアメリカでのリアクションについては、どういうものがありました?

「『Pacific Breeze』は、いちばんいまの時代の気分に合うようなアルバムになったと思います。音楽的にも、永井博さんのカヴァーアートも、いまクールと思われるようなオブジェクトとして話題になったし、みんなが欲しがるようなものになったかな。ニューエイジの『Kankyō Ongaku』もフォークロックの『Even a Tree Can Shed Tears』も結構話題にはなったけど、それと比べても『Pacific Breeze』はリアクションもはっきりしてました。もっと若い人やいまのインディー・ミュージック好きにも入りやすいものになったと思います。YouTubeでもシティ・ポップが流行ってたから、それとのつながりもあったし。

ピッチフォークとか音楽メディアの評価もありましたけど、むしろ最近はSNSでみんなが広げていくことのほうが大きかったと思います。特に『Pacific Breeze』だと、あのカヴァー・アートがあるからインスタグラムでシェアしたりしてもらったのも広がりとしては影響があったかな」

──『Pacific Breeze』リリース後のアメリカで、目に見えるかたちでシティ・ポップの理解も浸透したと思いますか?

「こっちだと、シティ・ポップのことを『Pacific Breeze』で知ったという人が多いから、まだそんなに定義がはっきりしてないんです。アートワークの雰囲気もあるし、ファンクとかブギーっぽい音楽だと“シティ・ポップ”と言われるし、みんな細かい定義はあんまり気にしないで聴いてる感じ。でも、変わったと思うのは、昔はレコード屋に行っても日本の音楽は“ワールドミュージック”のセクションに入っていたんですよ。そこにあるのは、だいたいは尺八とかだけど、ときどきそのなかにグループサウンズとかがあったり。覚えてるのは金延幸子さんの『み空』が最初にスペインのレーベルからリイシューされたとき(2008年)も、こっちではワールドミュージックのコーナーに入ってました。でもいまだったらジャパニーズ・シティ・ポップは“ワールドミュージック”とはラベリングされなくなってきてる。日本の音楽でもポップ・ミュージックなんだからそんなに別々にする必要はない、って感じになりつつあるかも。

それに関していうと、日本のレコード屋でも“ブラック・ミュージック”ってセクションがあるけど、それも「ブラック・ミュージックってなんなのか?」って話だと思うんです。国籍とか人種とかでジャンルになるのもちょっと変だなと思うし。それは日本の音楽でもおなじですよ。ボアダムスとか、こっちで以前から知られている日本の音楽は、“ジャパニーズ・ミュージック”に入らなくて、ロックとかエクスペリメンタルのセクションに入ってるから。そういうことといまシティ・ポップが聴かれていることのつながりがあるのかどうかは難しいけど、そういうジャンル分けからリリースしていく流れになっているのかもしれません」

──今後、手がけてみたいジャパニーズ・プロジェクトはありますか?

「ジャパン・アーカイヴ・シリーズは4枚出してきて、こういうのはどうかというアイデアを送ってくる人は結構います。次にぼくがやりたいと思ってるのは、日本のカントリーとカントリー・ロックかな。日本版の『Country Funk』みたいなアルバムができたらおもしろいと思ってます。なぜ日本でカントリー・ミュージックが戦後に流行ったのか、みたいなカルチャーの話も興味がすごくあるし。

ストレート・リイシューとしては、久保田麻琴さんの仕事がリリースできたらおもしろいかな。久保田さんはすごくたくさんの仕事をしてるでしょ? 民謡のリミックスみたいなこともしているし。あとは、こっちでも少しずつ知られてきてるFISHMANSも、ちゃんとリリースしたら結構流行ると思います」

──その“ちゃんと”が日本からの発信としてはなかなかできてない印象はありますね。

「全世界でストリーミングできるようになるとか、プレイリストを作って公開するのも大事だけど、こんなにいい音源がここにあるということをどうにかして知らせないと、海外で暮らしている普通の人にはわからないですよね。アメリカにいるシティ・ポップのファンでも、吉田美奈子のアルバムがあんなにたくさんサブスクリプションで聴けると知ってる人はあんまりいないと思います。結構有名な日本のアーティストでも、Spotifyで調べると海外での再生回数がすごく少なかったりする。でも、もしちゃんと知られていたら、もっと絶対に聴く人がいる。そこには、アーティストの表記が漢字だったり、カタカナでだったり、ローマ字だったりで、あんまりオーガナイズされていないという問題もあります。それだと、探してる人でも見つからなかったりする。自力でこういう音楽を見つけられる人は、もともとそういうのを探すタイプの人だから。記事を英語で出すとか、ソーシャルメディアのキャンペーンを考えてやるとか、マークのやってる〈dublab〉で特集を組んでもらうとか、まだまだいろんなところに力を入れないと届かないと思います」

──そういう意味でも、アメリカで〈アルファアメリカ〉を立ち上げた村井邦彦さんという存在は先駆的だったんですね。

「村井さんがアルファミュージックでアメリカに日本の音楽を紹介したいと思っていたのに似たような考え方が、ぼくらのやっているこのジャパン・アーカイヴ・シリーズにあると思うんです。ぼくらがやっている仕事が、村井さんにとってもうれしいことだったというのはご本人からも聞きました。ぼくらも、かつて村井さんが始めた仕事をいまになってやっと成功できたという気持ちがあるんです」

最後に北沢がくれた日本の音楽を海外に届けるにあたっての意見は、正直、国内の音楽関係者には耳が痛い話かもしれない。「シティ・ポップが海外で受けている」という記事はよく見かけるし、「なぜ?」という問い合わせはぼくのところにも少なくない。だけど、そのいっぽうで、地道な努力が見過ごされていると感じてもいる。北沢は自分のライセンス仕事を「外から見たらあんまりおもしろくないところ」と語っていたが、本当はそこがスムーズになり、よりひらかれたものになることで解決され、先に進むビジネスがたくさんある。そこから生まれる新しいカルチャーが必ずあるはずなのに、まだまだその前に横たわる障壁は低くないのが現実だ。

〈ライト・イン・ジ・アティック〉のジャパン・アーカイヴ・シリーズは、その問題に対してかなりの解決法を粘り強く導き出した、すばらしい仕事だと思う。そして彼らの近くに村井邦彦がいて、アルファが送り出してきた音楽とそれを生み出してきた姿勢がそのエンジンの一部として動いていることが頼もしい。

まだまだ北沢たちはおもしろいことを考え続けている。この連載が続いていくのなら、またいつか彼らの物語の続きを聞きたい。