見出し画像

2回目のシンガポール

初回のシンガポールは記憶のある程度しっかり残っているが、2回目、それ以降何度か来た時の記憶はあまり残っていない。

恐らくトランジットも含めると4回ぐらい、そのうち2-3回は宿泊していたはずである。

大学3年生でアメリカに行かずにシンガポールに行った僕は、その後もアメリカ行きのチャンスを狙っていた。今から思うと何を考えてそういう行動を取ったのかよくわからないが、大学4年生になり周囲の文系メンバーが就職活動に勤しみ、どこどこから内定をもらった、いくつもらったと言っている時に一切就職活動をしていなかった。なぜだか思い出せないのだが、工学部だった僕の周りはほとんどが大学院に進む。そのため大学院試験の勉強に明け暮れているメンバーと、それ以外は僕の周りに多かったのは留年確定でまだ1年余裕があったメンバーだった。僕は父親との約束でもあった教員免許の取得のために母校で教育実習をしており、教師という職業は自分にとって天職に近いような感覚もあったりと、様々な選択や人生があると感じていた。しかし具体的に自分が何になりたいのか、何をしたいのかは全く見えておらずイメージもできていない状態だったのだと思います。そんな環境で僕は大学4年生の夏休みは1年前に実現できなかったアメリカへのホームステイを選択しました。就職はいつでもできるという自信もあったと思いますし、それよりも何をしたいのかをこの期間ではっきりさせたいという思いも強かったんだと思います。

この選択は自分にとって、とても影響が大きいものでした。父の高校時代からの友人のホストファミリーからアメリカでのビジネスや経済環境など毎日教えてもらいましたし、高校生だった息子さんとも行動をともにするなかでアメリカの高校生がどういう生活をしてどういう知識や経験を身に着けて大学に進み社会に出ていくのかを知りました。

さらに大きかったのが、ホストファミリーが経営するIT企業で働かせてもらったことです。ここには自分と同い年のプログラマーが働いており、VBやCをつかってバリバリプログラミングを書いている。3Dのカーナビシステムの開発を日系の自動車企業とUCLAと共同で行っていた。UCLAの研究室では僕の全く知らないソフトを使いながらLAダウンタウンのジオデータを更新しており、それをカーナビと組み合わせる。GPSを受信してその位置情報をベースに3Dでナビ上の位置を更新していくアプリケーションでした。今であれば中学生でもスマートデバイスのGPSからデータを取得してアプリを作ることができるが、当時はGPSとは?3Dのデータをどうやって作るの?そして取り込むの?動かすの?ゲームが好きだった僕はゲームを作るような感覚にのめり込み、こういったビジネスに強い興味を覚えた。一方で、バリバリ働く同い年プログラマーと比べると自分は何も技術を持っていないことに強烈な劣等感と焦燥感を感じ、加えてグローバルで戦うための語学力の無さもあり、今のままでは就職して社会で活躍するのは無理だと感じるようになった。海外で語学と技術を学ぶ必要がある。やりたいことはなんとなく見えてきてはいたものの、そのための準備が必要、まだまだ学校で勉強しないといけない、当時はそう考えていました。

そんな時、ホストファミリーのビジネスパートナーの常務取締役の方を現地でご紹介してもらいました。その会社はUS進出をしてきたばかりでホストファミリーにお世話になって立ち上げをしていました。自分の担当分野でもある常務としては、この事業の成功のためにはグローバル人材の育成が急務であり、優秀で将来のある若手の採用にはとても積極的でした。そういった人材を教育する戦略も固めており、現地にあるCalifornia State Of University, Pomona校と提携し、会社からこの学校への留学を準備していました。さらにこの学校にはオブジェクト指向でのソフトウェア開発の第一人者であられるDr. Koichiro Isshikiという日本人の教授いらっしゃり、ソフトウェアの道に進みたく、しかもこれからのソフトウェアのあり方の第一線の技術を英語の環境で習得できるというのは、僕にとってこの上ない魅力でした。

帰国後早速コンタクトを取り、常務に社内を案内していただきました。当時の僕は正直なところ、来年4月から自分がどうしていくのかというところに少し不安を持っていたのかもしれません。就職活動も出遅れてしまい、今から正攻法でやっても仕方がない、そもそも自分にはスキルがないから通用しない、そう考えていたんだと思いますし、何よりも海外への道が開けるということが自分にとって魅力だったのだと記憶しています。

案内していただいた愛知県にあるオフィス環境は広大で、とても広い敷地内に新しく斬新なオフィスが建てられており、穏やかで人柄の良い常務自ら会社の説明をしてくれました。当時は両親が岐阜県に住んでいたこともあり、私の中ではここに決めようと考えていました。両親にもその意向を伝え、あとになって聞いた話ですが、両親もそのオフィスを視察しに行き、素晴らしい企業だという印象を持ったとのことでした。

常務に返事をしようと思っていたところ、アメリカから電話がかかってきました。ホームステイでお世話になったホストからでした。彼は開口一番こう言いました。

「あそこに就職しようとしているって聞いたよ。でも、君はカーナビが作りたいの?」

シンプルなメッセージでしたが、僕ににとって、とても強烈な問いかけでした。自分の思いとしては、留学のチャンスがある、オフィス環境も悪くない、ただそれだけで、他の企業は1つも調査することも見ることもなく進路を決めようとしていたのです。しかも、その事業は自分にとって魅力的なのかどうかすらも考えずに、です。

この質問を受けて、初めて「この会社に本当に入りたいのか」、という僕の思考回路が働き始めました。それよりも何よりも、この会社の主事業はカーナビの開発あり、入社したらカーナビを作るということに携わるわけであるあり、「カーナビが作りたいのか?」という質問を自分にすることができた。目先の留学というのはある種「研修」という手段なのであり、その先にあるのは当然主事業であるカーナビ作り、これに興味があるのか?と。

私の答えははっきりしていました。電話口で僕が返答するまでの間じっと待ってくれていたホストに返答しました。

「いえ、カーナビには興味がありません」

すると、ホストは、

「そうだよね。わかった。じゃあ僕から常務に連絡入れておくからね。」

それだけ言ってアメリカらかの国際電話は切れたのです。

40歳を過ぎて経営者の経験もしている今の僕にとっては、自分のことを自分で書きながら、「これって本当に自分か?」と思ってしまうところだらけのお恥ずかしい内容なのですが、脚色もせずに当時の感情と記憶を文字にするとこんな状態だったようです。

当時の常務の立場やミッションを察するに、それを遂行するための人材を集めるためのプレゼンテーションだったであろうこと。それに対して自分が下してきた1つ1つの判断の思慮の浅さ、またその自分のアクションによって多くの人々にご迷惑をおかけしてきたであろうことを、書きながら改めて反省しています。さらに、あの時あのタイミングでホストから連絡が来ていなければ、どうなっていたのだろうか、自分の人生は全く違うものになっていただろうなと恐ろしくもなります。

結局僕は就職どころか就職活動もせず、卒業と同時に新設される大学院の研究過程を受験するという名目で大学院試験の勉強をすることにし、周囲にいる大学院に通いたいと本当に思っている仲間たちと同じ路線を歩もうとしました。当然そんな志なので勉強も身に入らず、結局試験には合格せず、大学を4年で卒業するも無職になりました。

その頃もまだ海外へのチャレンジをしたいという気持ちは持っており、じゃあ9月に向けて海外の大学の留学を考えるかと思っていたところ、4年間ラグビーを通じた友人だった1人(文系で三菱重工からあっさり内定)からこう言われました。

「日本は、技術や実力が無くても就職はできる。即戦力ではなく育成して将来性がある人材を採用してくれる。」

そんな趣旨のアドバイスをもらい、頑なに「今のままでは就職できない」、「そのためには海外で勉強しないといけないだ」と思い続けていた自分の肩の荷がスッと降りたのを覚えています。

これも今思えば、1度たりとも試したり挑戦してみてもないのに、「就職できない」ことを何故決めつけていたのだろうかと不思議でしょうがないですが、きっと当時はそういうコンディションだったのでしょう。それぐらいアメリカで同い年との実力の違いのインパクトが大きかったんだと感じています。

さて、身軽になって視界が開けた僕はアクションが早いです。住むところがないので、千葉県の柏市にある両親の一軒家に妹が1人で住んでいるので転がり込みます。妹は働いていましたが僕は無職。就職活動期間中は食べさせてもらっていました。就職活動もインターネットでできる時代になってきていたので、近くに住む大学院に通う友人を頼って大学院のパソコンルームで就職活動をしていました。

「カーナビが作りたいの?」と言われて、そうではないと答えながらも、「じゃあ何がしたいのか?」という解が見えていなかった僕にもやりたいことははっきりと見えてきていました。ソフトウェアという視点は変わっておらず、ただ、

「自分が作ったソフトウェアを使ってもらえるたくさんの人に使ってもらうビジネス。そして自分がそれを作ったことを自慢できるビジネスがいい。」

という視点は定まっていました。当時はまだスマートフォンアプリ、WEBアプリというビジネスは一般的ではなく、ソフトといえばWindowsなどのPC周りのソフトが主流でした。しかし調べてみるとコンシューマー用のソフトウェア開発をしていそうな企業は皆外国資本で、国内のソフトウェア開発チームの仕事は、海外の本社で作ったソフトを自国向けに言語や操作性のカスタマイズをするローカライズという作業程度のところがほとんどでした。

「これじゃあ、自分が作ったとはいえないな・・・。」

そう考えた私にとって選択肢は1つしかありませんでした。それはゲーム業界です。当時ゲームと言えば日本がナンバーワンでした。世界でシェアを広げているゲーム機やソフトはほとんど日本製で、日本で作ったものを海外の現地の開発者が自国向けにローカライズをするという、PCの世界と真逆になっていました。今のようにクラウドベースで世界中どこからでも世界向けのサービスが開発できるというようなグローバルな開発体制がない時代ですので、僕はゲーム業界に絞って活動を行いました。

ゲーム人気もあり「ゲーム業界就職読本」という業界本が出ていたので、気になるところを片っ端から応募していきました。友達が通う大学院のパソコンから。お金もなかったので郵送で送る必要があったところは除外したりもしました。100社以上はエントリーしたように思います。

来年の4月入社の採用をしているところに、僕は4月の時点で既卒者というイレギュラーだったものの、成長業界だったゲーム業界では「だったらすぐに入社できるじゃない」ということでむしろポジティブでした。大学にブランド力もあったので、書類選考はすぐに通過し、面接に進みます。ある程度感触と自信を得てきた僕は、その中でも有望企業に絞って選考を進め、最終的に3社で決断をすることになりました。ところがそれぞれ職種が違いました。1社は希望通りゲームプログラマ、1社はゲーム機本体を制御するソフトやゲームを作るためのソフト開発、もう1社は人事またはハードということでした。関西でたのしい学生時代を過ごし当時の彼女も京都にいた僕は、大阪のゲーム制作会社でのゲームプログラマ職に傾いていましたが、周囲も父親も100人いたら100人が勧めたゲーム機のOSやゲーム用のSDKを開発する企業に就職をしました。

当時PlayStationが爆発的に売れていて人気企業だったソニー・コンピュータエンタテインメントは初めて本格的に新卒のソフトウェアエンジニアを採用し始めたところでした。全世界で5,000万台以上のハードウェアの販売実績と多数のソフトウェア販売の実績があった企業でしたが、純粋なソフトウェア開発チームはマネジメントを含めて10名程度。ほとんどが30歳を超えた人々でした。

入社して1ヶ月経った頃、来年以降で次世代のハードを世界に展開するということで、サンフランシスコとロンドンにある海外拠点で現地の技術者向けに技術支援をするプロジェクトが発足されることになり、赴任するメンバーを募集するということになった。入社してまだ1ヶ月。その名の通り右も左もわからないし、技術力がないどころかまともにプログラムもかけない、英語だって話せない。当時の募集の責任者だった本部長に恐る恐る質問をメールでなげてみました。すると、

「資格は十分にあります。」

という返信が帰ってきた。僕は当時の課長をランチに誘い、応募してみたいことを伝えた。一方で赴任は1年以上先になるが、英語も技術もまだまだのレベル。課長からは無理と言われることも視野に入れて質問した。すると、

「いいじゃん。まだ時間あるし、やってみたら。」

という返答。お墨付きをもらった気持ちになり応募したところ、無事に合格し、1年後にロンドン、その後サンフランシスコというスケジュールが組まれた。後日談だが、この時背中を押してくれた課長が僕がロンドン赴任中に出張で来てくれたことがあり、当時の話をしたところ、

「実は絶対無理だって思ったんだよねー。」

とのこと(笑)。ただ、現地に行くまでの1年でしっかりと語学と技術を学び、結果的に現地に貢献して戻ってくることができたことは、僕にとって非常に大きな成長になったのです。

ということで、狙っていた海外での経験を自分のしたい仕事で、しかも学校に通うのではなく実際のビジネスの場で身につけることができたという、なんとも急がば回れを実現できたかのような展開で、その後のサンフランシスコ赴任もそうですし、赴任が終わって帰国してからも、シリコンバレー、テキサスといった様々な拠点のエンジニアと時には長期出張で、時にはオンラインで密度濃くやり取りすることが続き、グローバル環境でのエンジニアリングに関しては、かなりの経験を積めることになった。

そんな僕だったので、今の妻と結婚する前も時間を見つけては海外旅行によく行っていた。東南アジアのリゾート地が多く、セブやプーケット、ランカウイ、新婚旅行はアフリカのモーリシャス島。ランカウイはシンガポールでトランジットだったので、1, 2泊したり、モーリシャスはシンガポールのHISでチケットを手配することで節約したりしていたので、何度かシンガポールに来ていたことがある。

とはいえ、あまり記憶が残っていない。ランカウイのトランジットの際はインスラムかインド人街のホテルであまり出歩かなかった記憶があるし、モーリシャスのときはメインがモーリシャスだったので、シンガポールでは当時あったメリディアンホテルでHISからチケットを受けとり、モーリシャスに向かい、戻りの際はオーチャードを歩いて汗だくになって火鍋を食べに行き、あまりの辛さに食べきれないという苦戦を強いられた記憶だけが残っていたりする。

そんな印象のシンガポール。やはり1回目の印象から大きく変わった感じはしなくて、東南アジアの1つの都市ということしか僕の頭には残っていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?