拗らせ弁護士、地蔵になる

神崎千里子は四五才の独身弁護士だ。千里子はある日、耳に入ってきたロックバンドの甘ったるい理想を歌った曲が妙に気になり、そのバンドのライブに行く。しかし、アイドルの追っかけをしている妹のアドバイスに従ったため、散々な目に遭う。再起を誓う千里子は、ライブ強者の事務員、海東に教えを乞い、野外フェスへ行くことを決める。フェスに向けての準備を整える千里子は、前日に残酷な事実に直面する。千里子は極度のリズム音痴だった。千里子は人生初の挫折を味わう。結局、リズム音痴は改善しなかったが、フェスで一切動かない地蔵と化した千里子は、存分にフェスを楽しむ。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

 神崎千里子は、酸欠に喘いでいた。

千里子は大阪某所にあるライブ会場にいた。思わず耳をふさぎたくなる暴力的な爆音が鼓膜を突き刺す。会場はすし詰めになっていて、身じろぎすらできない超満員状態だった。それでも音楽に酔い痴れた聴衆は、奇声を上げながらぶつかり合うように手拍子とジャンプを繰り返している。小柄な千里子がいくら見上げても、ステージ上は毛ほども見えず、視界にあるのは大柄な男性陣の汗ばんだ背中ばかりだった。不意に、千里子の耳のすぐ脇を、誰かの踵が掠めていく。見れば、頭の上を、人ががりながら前方へ泳いでいた。支える人も支えられている人も、皆一様に楽し気な奇声を上げている。狂気の沙汰だわ、千里子は心中で呟いた。

 最早、前後左右どこにも逃げ場などないにも関わらず、後ろからすさまじい力で押され、肺を圧迫される。そもそも狭い場所に、どう考えてもキャパシティーオーバーの人員が詰め込まれているのだから、極端に酸素が薄い。そのうえ、この仕打ちとあって、千里子はもう失神寸前だった。どうしてこんなところに来てしまったんだろう。

 薄れゆく意識のなか、千里子は、今日この場に来ようと思い立ったその瞬を思い出していた。

 

 二週間ほど前、千里子は大阪梅田駅の中央改札口を出て、一階に向かうエスカレーターに乗っていた。芦屋の顧問先からの帰りのことだった。事務員に指示を出すため、スマホを片手にカツカツとパンプスの音を響かせる千里子は、どこからどう見ても熱心に仕事に励むキャリアウーマンだった。

「芦屋の斎藤修さん亡くなったから、以前に作った遺言公正証書を私の机の上に出しておいて。各方面への通知文案は私が自分で書くから。財産目録はさっき送った最新のデータで今週中には作って。」

 遺言執行は、実入りのいい仕事だ。自然と千里子の口角もあがる。しかし、電話口の事務員は、はあ、とやる気のなさそうな、間の抜けた返事を返してきた。

 千里子は、今年四十五歳になる、キャリア二十年目の中堅弁護士だった。千里子の職場は弁護士八名、事務員十名が所属する中規模の法律事務所だ。オフィスは古いビルのワンフロアを使用していて、人数の割に広々としている。マスコミが騒ぐような大きな事件に関わることは少ないが、民事・刑事どちらも満遍なく確実にこなす、安定感ある弁護士というのが、同僚から聞く千里子の評価だった。

 しかし、事務員からの評判はまた別だろう、と千里子は思う。世代の違いに起因しているのか、それとも千里子の性格のためか、若い事務員から千里子は仕事に細かい、お局様的な扱いを受けていることは薄々肌感覚で感じている。

入所した時は若手だった千里子は今や、年の順で上から数えた方が断然早年齢になっていた。二十年も弁護士をやっていれば様々な事務員と組む機会も多い。今、電話にでている事務員、海東理沙は、最近になって経験者枠で入所してきた二十七歳の人物だった。正直なところ、千里子はこの海東理沙に少し苦手意識を持っていた。とにかく、仕事が雑で、細々としたミスが多い。不注意というよりは、端からやる気がないように千里子には見受けられた。27歳という若さで、仕事への情熱が一切感じられない態度はいかがなものかと、常々小さな苛立ちを感じていたのだった。

(折角だから、ここはひとつ、仕事の遣り甲斐と意義を説いておこう)

千里子は発破をかけるつもりで、この案件のメリットを並べる。

「あのね、斎藤さんの総資産は10億はくだらないのよ。その遺産相続の報酬だから、軽く見積もっても一千万にはなるわ。今日、お話を伺った感じ、相続人の間に諍いもなさそうだし、迅速に正確に決められたことをこなすだけで一千万よ。そしたら、臨時ボーナスだってあなたに払えるかもしれないわ」

 仕事には全力の努力を。そして達成感と相応の報酬を。それが、千里子の仕事におけるモットーだった。

 しかし、千里子の熱のこもった弁舌も空しく、スマホは暫しの沈黙の後、

「先生、人が亡くなったのに、嬉しそうにお金の話をするんですね」

と、宣う。その穏当な言動の割に、その声には些かの批難の色もなかった。それはただの相打ちに近い、無関心な傍観者の感想だった。その突き放したような物言いに、千里子は、まるで、自分の仕事観を否定された心持になった。一瞬頭に血が上る。しかし、自分は大人だ。少なくとも、この雑でやる気も覇気も責任感もない小娘より上の立場なのだ。立場が上の人間が簡単に怒りを露わにしてはいけない。千里子は冷静に、冷静にと自分に言い聞かせ、なるべく穏やかに聞こえるよう細心の注意を払って話を続けた。

「プロが仕事をするのよ。然るべき報酬はもらって当然でしょう」

 しかし理沙は、また、さも面倒くさそうに、そういうもんですかね、と適当な相槌を打つ。今度こそ怒鳴りつけてやろうと息を吸った千里子より一瞬早く、理沙が口を開いた。

「私は、人が死んだらまずは真っ当に悼む派ですけど」

髪の枝毛でも気にしながら話している姿が眼裏に浮かんできそうなやる気のない声だった。しかし、千里子は、一瞬だけ反論に手間取る。何か異物を飲み込んだような違和感があった。

その時だった。頭上の大モニターから爆音が降ってきた。

 

 キミに歌いたいんだ キミに送りたいんだ

 世界はこんなにも美しいよ

 嘘じゃないんだ キミに信じて欲しいんだ

 たとえば、足もとの汚泥がどんなに深くたって

 たとえば、両の手いっぱいに不純物まみれの石ころを抱えていたって

 キミに、 真っ赤な真っ赤な真っ赤あの花を

 最果てに ひっそり咲いてるあの花を キミに捧げたい

 世界はまだこんなにも美しい

  

画面には、派手な格好をしたボーカルが、金髪の長い髪をかき上げながら、健気なほど青臭い歌を歌っている。十代や二十代の若者が好みそうな希望と情熱で彩られた青臭い歌。普段の千里子であればそう断じた後、一顧だにしなかっただろう。しかし、今、千里子はその曲を前に、一歩も動けずにいる。この曲の何がそんなにも千里子を惹きつけたのか、千里子自身にもわからなかった。ただ、最早、雑踏は消え去り、世界には千里子とその音楽しかなかった。千里子の脳裏にいつまでもその音は響き続けた。

 

その日の夜、千里子は自宅の小さな炬燵に突っ伏していた。

「買ってしまった」

炬燵の上にはスマホが置いてあり、その画面には「チケット購入完了のお知らせ」という文字が表示されている。千里子は帰宅した後、耳について離れないあの曲名を検索してみた。そうすると、あのバンドが二週間後に大阪でライブをするという情報にたどり着いてしまった。これは神の啓示に違いない。普段は無宗教のくせに、こんな時ばかりはどこのものとも知れぬ神の御威光を借りて、千里子は勢いのままにライブチケットを購入したのだった。

「買ってしまった!」

誰に告げるでもなくそう叫んで、千里子は勢いよく立ち上がった。その拍子に、床に踵を強か打ち付けてしまい無言で数秒悶絶する。階下から、苛立たし気に、棒のようなもので床を突かれた。千里子の家は、床も壁も薄い。築四十五年八畳一kお家賃六万円のボロアパートだ。千里子の収入からすれば、もっといい物件はいくらでもあり、実際、同期や同僚からは頻りに引っ越しを促されていた。しかし、それでも転居しないのは、千里子が特にこのボロアパートを気に入っている、と、いうわけでない。ただ単に寝るためだけの場所にお金をかける意味を見いだせずにいるだけだ。千里子はお金が好きなのではない。仕事をして、その対価として報酬を得るという行為自体が好きなのだ。そのため、家具は十八歳の時から使っている小さな炬燵と、ワードロープに箪笥、それに必要最低限の電化製品ぐらいしかない。しかし、質素なその並びのなかにあるベットマットだけは日本人メジャーリーガー御用達の超高級品だった。千里子は寝具には糸目をつけない主義だった。

隣人の誰かがトイレを流す流水音が響く。千里子はベットマットの上に乗って、暫しの思案の後、スマホに手を伸ばした。

「もしもし、お姉ちゃん?どうしたの。電話なんて珍しいじゃない」

 電話の相手は、二歳年下の妹、美和子だ。美和子には夫と中学生の娘がおり、今は専業主婦をしている。

「あんたさ、なんとかってアイドルグループのコンサートによく行ってるじゃない。コンサートってどんな格好していくもんなの」

「何よ急に。押しでもできたの」

 推し。千里子は、その言葉を心の中で繰り返す。この感情が、誰かを「推す」ということなのだろうか。

「推しかどうかはわからない。でもライブにいくの」

 美和子は、きゃあ、と華やいだ声を上げた。

「ええ、誰よ。どのグループ?誰担なの?」

 詳らかに聞かれ、急に気恥ずかしくなった千里子は言葉を濁す。

「誰だったいいじゃない。ねえ、どんな格好でいけばいいの」

「そんなの決まってるじゃない。とびきりオシャレしていくのよ。いい?コンサートってある意味、推しとのデートなんだから。お姉ちゃん、間違ってもスーツでなんていかないでよね」

「推し、との、デート」

 食べなれない珍味を味わうように、千里子は一言一言を噛んで含んで飲み込んだ。その後も美和子のレクチャーは続き、千里子は講義内容を几帳面にスケジュール帳に書きこんでいった。

 

 翌日、早めに仕事を切り上げた千里子は梅田阪急百貨店本店の婦人服売り場にいた。昨夜、自分のワードローブをひっくり返してみたが、中には仕事用のダークトーンのスーツと部屋着しか見つからなかった。隣の箪笥には、若いころ趣味にしていた登山服とその用具一式が詰め込まれており、とてもデートに着ていけるような代物ではない。それで千里子は何年かぶりに仕事着以外の服を買いにきたのだった。普段なら絶対に足を踏み入れない、甘めなスタイルが人気のブランドの前で千里子は立ち尽くす。

(デートの服。デートの服?最後にデートに行ったのっていったい何年前だったかしら)

 自分が、干物どころか化石と化している事実に絶望していると、やたら甲高い声の店員に声をかけられる。

「いらっしゃいませぇ。何かお探しですかぁ」

「ええと、派手じゃないワンピースを」

「ワンピースいいですよねぇ、春ですしぃ。どういったご用向きですかぁ」

千里子は一瞬言葉に詰まるが、意を決して口を開いた。

「デート用のワンピースを」

 

その夜、千里子は炬燵に向かって、団扇の制作に励んでいた。百均で買った造花とリボンは、思いのほか豪華に団扇を彩ってくれる。

「扇の真ん中にはして欲しいファンサを書くのよ。ハート作ってとか、投げキッスしてとかね」

 美和子のありがたい教えを思い返しながら考える。自分はどんなファンサをして欲しいだろうか。投げキッス、と千里子は呟いた。千里子の眉間に皺はよる。どんなに想像力を駆使しても、あのバンドのメンバーが投げキッスしている姿が、千里子の脳裏に像を結ぶことはなかった。そもそも自分は投げキッスしてもらいたいのだろうか。よくわからなくなってきた千里子は、無難に「頑張って」とだけ書くことにした。一K八畳の狭い部屋には、小ぶりな花柄のワンピースが吊るされており、その下には爪先が少しだけ開いたヌードベージュのミュールが鎮座していた。

 

 ライブ当日、千里子は買ったばかりのワンピースにミュールを履いて、ばっちりメイクの上、美容院に赴いた。デコった団扇は、不格好にならない程度の大きさのカバンに仕込む。千里子は勝利を確信した法廷に臨むように、意気揚々とライブ会場に向かった。準備は万端だ。万端のはずだった。

 会場前で千里子は凍り付く。会場周辺に屯していたのは、バンドのロゴが入ったくたくたのライブTシャツを身に着け、首にバンドロゴ入りのタオルを巻いている小汚い若者の集団だった。誰も彼も軽装で、カバンすら持っていない人も多い。妙齢の女性たちでさえも動きやすさを最重要課題とした装いで、足元は皆スニーカーだった。ミュールを履いているのは千里子だけだ。美和子、話が違うじゃない、と千里子は心の中で絶叫した。

 そんな千里子をしり目に、会場のアナウンスが始まる。一斉に入場ゲートに向かう人波に流され、千里子は会場内に吸い込まれていった。

「すみません。当会場では団扇の使用は禁止されております。こちらでお預かりして、お帰りの際に受付でお返しする形になりますがよろしいでしょうか」

 チケット確認のスタッフが申し訳なさそうに、千里子のカバンから微かに見える団扇を指さす。隣の列に並んでいた若い女の子が心底不思議そうに、団扇?と呟く声が聞こえた。千里子は耳まで真っ赤になった。

「ああ、いいです。いいです。捨てちゃってください」

 千里子は早口にそう告げると、足早にその場を立ち去った。

 ウェイティングスペースでは、皆ビール片手にそこここで談笑していた。隅のほうで喫煙している不届き者や、Tシャツの裾からタトゥーが見え隠れしている人もいる。それは千里子が接したことのない世界で、全くの異文化だった。

完全なるアウェイだ。千里子が隅で身を潜めていると、開演直前のアナウンスが始まる。酒気を帯びて開放的になった一部が、高い声を上げながら会場になだれ込んだ。不幸なことに、千里子はこの一部の若者たちのすぐ隣にいたため、一緒に流される羽目になった。スタンディングエリア最前列という、理性を放棄した者が集う祭りの最深部へと、千里子は足を踏み入れた。

 

 こういった経緯で、千里子は今、瀕死の状態で人ごみに揉みくちゃにされているのである。群衆は、地響きのような歓声あげながら拳をつきあげている。千里子は、餌を求める鯉のように、頭をあげてどうにか酸素を吸おうと試みる。しかし、身長152センチし満たない千里子の頭上は、すでに誰かが吐いた二酸化炭素で満たされてるのか、一向に肺に酸素が回らない。何のために、誰のせいでこうなってしまったのか。それは最早、些末なことだった。このままでは本当に死んでしまう。千里子は、人の足の間を縫うように、這う這うの体で、後方まで下がることができた。

 しかし、何とか後方エリアに逃げ込んだ千里子の眼前に、また別の狂気が現れる。奇声を発しながら、激しく全身をくねらせ、ジャンプし、身体の限界に挑むような謎のダンスを踊っている集団。暴れ狂うその様は、どこか遠い国の部族の祭りのようだった。その中でも一際目を引く人物がいた。常人の三倍はあろうかとういう巨漢女子。もちもちとしたその丸い生き物が、バスケットボールが撓むように、軽快に、楽し気にリズムに合わせて跳ね転がっていた。それはまさしく、無駄に洗練された恐ろしく無駄のない無駄な動き。古のネットミームが千里子の脳裏に過ったその時、そのもちもちが千里子を指差し、神崎先生、と言った。よくよく見れば、もちもちは、千里子をイラつかせる新人事務員、海東理沙だった。千里子は唖然となって、いつものは打って変わって精気に満ちた表情を浮かべる理沙を眺めた。

「そこ、危ないですよ」

理沙がそう言うと同時に、ステージの方向から、ボーカルの声が響く。

「お前ら、走れー!!」

それを契機にして、千里子の周りの人間が、なぜか皆右回りに円を描いて全力疾走し始めた。

「なに。これは何」

意味不明な行動に混乱する千里子を他所に、走る狂人たちはどんどん速度を上げていく。

「サークルモッシュです。危ないから先生も走って!」

走りながら、千里子は声を張り上げた。

「なんで走るのっ」

「サークルモッシュだからです。走らないと周りに撥ねられますよ」

「だからなんで皆走るの」

「サークルモッシュだからです」

「答えになってないっ」

十数年ぶりに全力ダッシュをする千里子の足にはすでに、真新しいミュールはない。千里子は裸足で唯々意味もなく走り続けた。

 

 その日の晩、足を痛めた千里子は、理沙の逞しくも太ましい腕に支えられて帰宅した。

「私、神崎先生って、タワマンの最上階に住んでいて、お風呂上りにはバスローブ姿で夜景見ながら赤ワイン飲んでるって聞いてたのに」

 部屋に入って開口一番、理沙はそう言いながらベットマットに千里子を座らせた。

「寝るためだけの場所にお金をかける意味ってなに」

「その割に、このベットマット、めっちゃいいやつですよね」

言いながら、肩にかけたサコッシュの中から湿布薬を取り出す。

「寝るためだけの場所で、寝具にお金かけない理由ってなに」

赤く腫れた千里子の足に、理沙は湿布を貼ってくれた。

「靴は諦めてください。どうせ今頃皆に踏みしめられて原型を留めてないです」

 千里子のワンピースは解れて、一部破けていた。折角セットした髪も無茶苦茶になり、メイクもどろどろだ。弓折れ矢つきるとはこのことかというほど、惨憺たる有様だった。

「それにしても、驚きました。まさか先生がライブに参戦とか。今日がライブのデビュー戦だったんですか」  

千里子は頷く。

「ひどすぎる。初めてだったのに」

「気色悪い言い方やめてください。四十五歳の初めてにいかほどの価値があるとお思いで」

 理沙は、口をへの字に曲げて不快感を露わにする。

 言われてみれば確かにその通りだと思い至り、千里子は話題を変えた。 

「貴方は、よくああいうところによく行くの?」

「学生の頃ほどではないですけど。気に入ったバンドの単独ライブとか、あと、フェスとか」

「フェス……」

「色んなバンドが4,5曲づつステージに立つイベントです。色んなバンドが見られてお得感ありますよ。そういえば今日の、バンドも……」

 言いながら理沙は、自分のスマホで何かを検索する。

「ああ、あった。来週、京都であるフェスに、今日のバンド出ますよ。ほら」

理沙が見せてよこした画面には、確かに例のバンドの名前があった。千里子は目を輝かせた。次こそ、次こそは楽しんで見せる。強い決意を胸に、千里子は理沙に向き直る。

「海東さん」

「はい、なんでしょう。ちょっと距離近いんで離れてもらっていいですか」

千里子が身を乗りだす分、理沙は同じだけ後退する。しかし、必死な千里子はそんなことには気づかない。四十五歳独身女弁護士が恥を忍んで理沙に頭を下げる。

「私にフェスを楽しむための「お作法」を教えてください」

「え、普通に嫌ですけど」

理沙は面倒くさそうに眉を顰めた。

 

 翌日、オフィスで 理沙は昨日のことなどおくびにもださず、いつも通りやる気のない態度でPCに向かっている。千里子が遺言執行の件で声をかけると、どうぞ、と資料を手渡された。渡された資料は改行が読み難く、表の作りも荒いうえに、用紙が揃わない状態でホッチキス止めされている。

「そのうえ、計算も間違えてる」

相変わらずの適当な仕事ぶりに、思わず眉間に皺を寄せる千里子だったが、書類の山の中に、何か硬い感触を覚えて、書類をめくる手を止めた。  

それは、DVD三枚と、手書きで殴り書かれた説明書のような紙の束だ。付箋でメモが貼ってあり、参考にしてくださいと、理沙の汚い文字で書いてあった。よくよくみれば、それはフェスのDVDだった。

 

その日は、仕事も早々に切り上げ、千里子は早々に帰宅の途についた。す

れ違う同僚が珍しそうに声をかける。

「どうしたの、もう帰るなんて珍しいね。自宅で起案でもするの?」

「うん。そうなの。お先」

適当な返事をしながら足早に退所する千里子のカバンの中には、しっかりあ

のDVDと指南書が入っていた。

自宅のテレビにフェスの映像を映し、千里子は食い入る様に、その画面を

視する。その様は、まるで事件資料の映像を精査している時のそれだった。

抜けるような晴天の下、見るだけでじんわりと汗が出てきそうな酷暑の日に、そのフェスは敢行されていた。聴衆は一様にバスタオルサイズのフェス用タオルを頭から被っている。理沙の指南書によれば、野外フェス会場では日傘やパラソルの類は一切禁止されている。そのため、身を焼くよう様な太陽から己を守るべく皆フェス用大判タオルを身に纏うとのことだ。また、太いペンで、熱中症対対策は必須!、との殴り書きがある。経口補水液は二リットルから四リットルは必要になるらしい。日差しを遮るもののない野外公演で、真夏の直射日光を浴びながら耐える姿は、どこかの国の難民キャンプの出来事のように見える。

また別のDVDでは、逆に豪雨のなかでの開催の模様が記録されていた。踏み荒らされた芝生が泥になり最後には沼地になって、聴衆の靴を飲み込んでいる。泥に靴を持っていかれた群衆が裸足になって踊り狂う様は、何度見ても異様な風景だった。もしや野外フェスとは、ライブよりもっとずっと過酷な代物ではなかろうか。千里子の背中を冷たい汗が伝う。

DVDを見た限り、フェスというものは、大雨警報中であろうと熱中症アラート下であろうと敢行されるものらしい。参加する若者たちは唯々酷暑に耐え、雨に震えていた。しかしである。千里子はそこではたと気づく。自然災害級の環境下で楽しむには、彼らの装備はあまりに頼りない。暑さ対策なら、速乾性の高い布地のアンダーシャツを着るべきだ。Tシャツを脱いで、不用意に紫外線に身を晒すよりも、バスタオルを被るよりも、気化冷却で体温を下げるほうが断然効率がいい。雨天時にしたって、ちょっといいレインウェアを着れば、山頂並みの大雨に耐えられる。トレッキングシューズがあれば、泥に靴を持っていかれることもないだろう。

千里子は、DVDを止めて立ち上がり、タンスを漁り始める。引きずり出したのは夏用の登山服とトレッキングシューズだった。

「これ、完璧じゃない」
使い古した登山服、それが千里子には、宝の山に見えた。

 翌日、千里子がデスクでPCに向かっていると、理沙がカバンを抱えてバタバタとデスクの隣を走っていった。大方、また書類か何かが足りないと裁判所から連絡がきたのだろう。

「どうして行動する前に一回確認しないのかしら」

走り去る丸いフォルムを見送りながら、千里子は何百回と注意してきた言葉を呟く。不意に、絶妙なバランスで積み上げていた、千里子の机のファイルの山が、理沙の起こした振動に耐え兼ね、ついに崩れ落ちる。床にファイルと中身の書類が散乱し、千里子は深いため息をもらした。

「どうしてっ、行動する前にっ、一回確認できないのっ」

重たいファイルを拾いあげながら、今度こそ千里子は口に出して怒りをぶちける。拾い上げたファイルの中は、斎藤さんの書類も含まれていた。資料の散逸を防ぐため、パラパラと中身のチェックをしていると、ファイルの一番最後のページに写真が張り付けてある。そこには、車椅子に座った初老の男性、斎藤さんと、若き日の千里子の姿があった。

 斎藤さんは、千里子は初めて顧問を担当した会社の社長だった。慣れない仕事に四苦八苦しながらも、それでも仕事に打ち込む千里子を見て、自分の遺言公正証書の執行人は神崎弁護士にお願いしたいと、千里子を指名してくれた。千里子はその時、斎藤さんが自分の死後を千里子に託してくれたような気がして、心底嬉しかった。闘病生活が長引き、息子さんに代替わりしてからは、ほとんど会う機会もなかったが、あの時、千里子は斎藤さんの信頼が本当に励みになっていた。どうして忘れていたのだろう。

「そうか、斎藤さん、お亡くなりになったのね」

 千里子は、その写真を、自分のデスクの一番見えやすいところにそっと飾った。

 

週末、千里子はフェスが開催される予定の野外公園に赴いた。会場の下見をするためだ。休日の公園には、ランナーや親子連れがまばらに散見出来る程度で、ひっそりとしている。ここに数万人の聴衆が詰めかけるとどうなるのか。千里子は、すり鉢状の会場の一番高いところから会場を見下ろした。手にはオペラグラス、もう片方の手には、パンフレットに載っていたフェス当日の舞台予定図を持っている。

「舞台の設置場所はあそことあそこの二か所なのね」

千里子がパンプレットとオペラグラスを交互に見ながら確認すると、あからさまに不満げな理沙が面倒くさそうに頷く。理沙は、折角の休日をフェス会場の下見などという謎行動に潰されて、大層ご立腹な様子だ。キビキビと動きまわる千里子をしり目に、ベンチに座ったきり動こうとしない。

「で、私のお目当ては、こっちの大きい方のステージだから。うん、ここからでも十分見える」

 春とはいえ、天気のいい昼間は、少し汗ばむほどの陽気だった

「先生、仕事に趣味に、精力的に生きてますね」

 千里子はハムスターのようにちょろちょろと動き続ける。最早、苛立ちを通り越して呆れの域に達したらしい理沙が、珍種の生き物を見るような目で千里子を眺めていた。

「私、失敗って嫌い。だから、必要な準備は万全にしておきたいの」

へえ、理沙は適当な返事をする。

「貴方は大きいからいいでしょうけど、私くらいチビだと、フラットな会場だと何も見えないのよ」

でもよかった、と千里子は言葉を繋ぐ。

「ここって、会場がすり鉢状でしょ。これなら、かなり遠くになるけど、しっかりステージが見える」

 千里子は、法廷での勝利を決定づける会心の証拠を手に入れたように、満足げな微笑みを浮かべた。

「何でもいいですけど、叙々苑、忘れないでくださいよ。弁当じゃなくて、ホテルニューオータニの游玄亭ですよ」

 理沙が同行を承諾したのは、まさしく高級焼肉というこの一点に尽きた。いつの時代も若者は肉で釣るものだ。

「はいはい、付き合ってくれてありがとう。」

千里子は生返事をしながら、熱心にオペラグラスを見ながら、ベストポジションを探し続けた。

 月曜日の朝、千里子のデスクの上には、いつものように大量の郵便物が乗っていた。PCのメールを確認しながら、その郵便物の内容を確認するのが、千里子の朝のルーティンだ。郵便物があらかじめ事務員が開封して見やすいように広げてあるので、千里子は目を通すだけでいい。その郵便物の中に一通の内容証明を見つけ、千里子は手を止める。差出人は斎藤洋子とあった。
 代理人の名前はない。どうやら弁護士をたてず、自分でない内容証明をだしたようだ。斎藤洋子は、亡くなった斎藤さんの娘の名前だったはずだ。長男の斎藤隆氏は、斎藤さんが引退した後の代表取締役を継いでいたので、仕事上の面識があったが。しかし、長女の洋子氏は、この間、遺言公正証書の説明のため芦屋に行った際に初めて会った人物だ。
「斎藤さんの子供って、たしか一男一女だったわよね」
 千里子は斎藤さんの資料を取り出し、戸籍を確認する。斎藤さんは結婚後後、一男一女をもうけ、奥さんもご存命なので相続人はこの三人とうことになる。離婚、再婚、養子縁組等なにもない、いたってシンプルな相続人関係だった。通常の法廷相続であれば、それぞれの取り分は、配偶者が二分の一、残りの半分をそれぞれ子供が分ける。この場合、四分の一づつを子供が相続することになる。しかし、公正遺言証書には、自宅の土地家屋と預貯金の一部を配偶者に、会社関係の不動産と株式を長男隆氏に、そして残りの現金・預貯金を長女の洋子氏に残したいという斎藤さんの生前の考えが反映されていた。
 内容証明には、亡き斎藤修の相続人の一人である斎藤洋子は、遺言公正証書の相続分は不当に低く見積もられているため、改めて相続額について話し合いたい。これに応じられない、また、話し合いが成立しなかった場合、遺留分請求事件を申し立てる準備があるとの旨が記載されていた。
 先日、芦屋の斎藤邸であった洋子は、千里子と同年代ではあったが、千里子とは正反対に、おっとりとした大人し気な女性だった。専業主婦をしていると聞いたが、明らかに身なりもよく、夫も高収入であろうことがわかった。金銭的に逼迫したことがない人間が持つ、世間知らずと紙一重の鷹揚と寛容が醸し出された人物で、いいところのお嬢さんがいいところに嫁いで、感じのマダムになったのだろう、と千里子は判断した。泣きはらした目には、色濃い憔悴があったが、それでも懸命に年老いた母を労わり、兄を支える姿は、健気とも言えた。誰もが自分以外の誰かを気遣って、気にかけている様子が、斎藤家の仲の良さを物語っており、誰も遺言の内容に異を唱えなかった。それが、故人の遺志なら、と皆受け入れていたのだ。それで千里子は、この案件が楽勝だと判断したのだった。
 それが、ここに至ってこの内容証明だ。
「なんでまた、こんなことに」
 千里子が独り言ちると、ちょうど通りかかった理沙がひょいっと千里子の手元の内容証明を覗いた。
「ああ、それ、今朝、届いてました」
「洋子さん、どうしちゃったのかしら。こんなこと言ってくる感じの人にみえなかったのに」
「旦那が口を挟んだんじゃないですか」
 理沙は、どうでもよさそうに応える。
「私の経験則ですけど、相続案件で相続に関係ない配偶者が口出ししてきた時の揉める確率って、九割超えてます。体感ですが」
「決めつけるのはよくないわ。まずは話をきいてみましょう」
 千里子は、上司らしく理沙を窘めながら、洋子に電話するため、受話器に手をのばした。

「斎藤修氏遺言執行者の弁護士神崎です。斎藤洋子さんでしょうか」
「洋子です。あの、内容証明ですが、届いてますか」
「はい、先ほど拝読しました。公正遺言証書の内容に同意できないというでしょうか」
「はい、あの、相続の件で、私、やっぱりおかしいと思うんです」
「おかしいとは、どういうことでしょう」
 電話口の洋子は、か細い声ながらも、早口でしゃべり始めた。
「自宅を母へというのはわかるんです。でも、不動産と会社の株を全て兄へというのは納得できません。確かに会社を継いでいるのは兄ですが、私にだって父の財産の相続権をあるんです」
「洋子さん、これは生前に、お父様がおっしゃっていたことなんです。娘は、会社に経営に入っていないから、会社関係のものをもっていてもしょうがない。それなら、管理の簡単な現金の形で娘に残したいと」
「でも、会社関係の株と不動産を現金化したときの金額を考えると、絶対私の相続額って安すぎませんか。自宅、会社関係、現金でわけるんじゃなくて、もっと別の分け方があると思うんです」
「別の分け方ですか」
「そうです。たとえば、自宅も含めた不動産と株を現金化した時の金額を算出して、それを母が二分の一とって、残りを私と兄でわけるとか」
会社関連株と不動産を売る気なのかと、千里子は肝を冷やす。それは、斎藤家が会社を手放すということであり、数百人の従業員が路頭に迷うとういことだ。
「ちょっと待ってください。不動産と株を現金化するんですか」
いいえ、そうではなくて、と洋子が応えたので、千里子は内心ほっとする。さすがにそこまで、世間知らずではないらしい。
「あくまで現金化した場合の金額を算出して、私の取り分に足りない分を、母と兄から私に支払ってもらえばいいと思うんです。私、どうしてもこれを神崎先生に言いたくて」
そして、洋子は滔々としゃべり始めた。
「だって、おかしいじゃないですか。確かに兄は会社を継いでいるかもしれませんが、父の介護をなに一つやっていないんですよ。入院中も、家に帰ってきてからの介護も全部私がやったんです。母はもう年ですし、兄の奥さんなんて全く手伝ってくれなかったんですよ。親の介護は実子の義務だってなんて言って、父を老人ホームにいれろとまで言ったんです。もちろん、父は最後まで私が責任持って最後まで面倒を見ました。兄嫁をうちの財産だけが目的だったんです。いいようにされてる兄だって同罪です。あんな血も涙のない人たちに家の財産のほとんどを持っていかれるなんて、私、悔しくて頭がおかしくなりそう。先生なんとかなりませんか」
 電話口で千里子は頭を抱える。これでは相続の問題ではなく、身内の愚痴だ。しかし、と、千里子は気を取りなおす。こんなこと、よくあることではあった。世の人は、感情的な縺れから対立し、どうしようもなくなって法律事務所に駆け込む。相続問題のみならず、大概の案件は感情的に縺れきってから千里子の手元にやってくるのだった。千里子は、大きく息を吐き、できるだけゆっくり話しはじめた。
「洋子さん、心中はお察しいたします。悔しい思いも確かにおありでしょう。ただ、私は公正遺言証書の執行者ですので、遺言書に記載がある事項を執行するのが仕事です。もし、遺言書の内容に不同意であれば、一度相続人全員でお話合いをされることをお勧めします。相続人全員の同意があれば、公正遺言証書を廃棄して、御三方で納得できる分配方法を新たに決めることが可能です」
「先生は私の味方になってくださらないんですか」
 洋子は震える声音で縋るようにそう言った。相手の心に罪悪感を植え付けるような、無垢な声だった。この人は本当に一点の曇りもなく、自分はもっともらうべきで、権利を侵害されていると信じているのだろう。
「私は立場上、洋子さんの側に立つことはできません」
 千里子がはっきり宣言すると、電話は挨拶もなく静かに切れた。ガチャ切りよりも後味の悪い終わり方だった。
「三人の話し合いで解決できるわけないですよ。体感ですけど」
 電話を聞いていたらしい理沙が、珍しく気を利かせて冷たいお茶を持ってくる。
「私もそう思う」
 これは当初の見立てを誤った。千里子はお茶で喉を潤しながら、深い溜息をついた。

 ある晩、理沙が急に千里子の自宅を訪れた。
「どうしたの、急に」
驚く千里子に、理沙はニヤッと笑って言った。

「先生、お作法の最終特訓です。その代わり、フェスを楽しんだら、リッツカールトンのラ・べでフレンチのフルコースをお願いします」
「このもちもち、ちゃっかりを味をしめてる」

 千里子は、この丸い食欲魔人に、下手に高級料理の味を覚えさせたことを心の底から後悔した。部屋に入った理沙は、座卓に座る千里子の前で仁王立ちになる。

「では先生、簡単な「お作法」です。たとえばクラップ」

言いながら早いテンポで手拍子を始める。。

「あとは、音楽に合わせて拳を突き上げ、好きなように踊ればいいだけです。簡単でしょう。では、DVDの映像にあわせてやってみましょう」

 千里子が言われるままにDVDを再生する。映像が始まると、理沙は千里子の隣に座った。音楽に合わせて理沙が手拍子を始める。DVDのなかのギタリストが演奏の合間に拳を突き上げ、ボーカルは「もっと声出せ!!」と聴衆を煽った。興が乗ってきたのか、、理沙の巨体がリズミカルに揺れ始める。頭上で大きく手を広げてクラップすると、お前もやれと目で千里子を促した。 仕方なく千里子は、見よう見まねでクラップを始める。
しばらくノリノリでクラップしていた理沙が、怪訝そうに隣を見る。隣では千里子が必死にクラッブを頑張っている。頑張っているが明らかにリズムがおかしい。音楽と全く合っていない。理沙が、珍しくばつが悪そうな顔をして、小さい手拍子をしてみせる。
「大きく腕を広げるのがしんどかったから、別に手元で拍手してもいいでよ」

 千里子は大まじめに頷いて、手元でクラップしてみる。しかし、合わない。絶妙に気持ち悪いタイミングでどんどんずれていく。ズレが焦りを呼び、焦ればさらにズレていく。音楽と千里子のクラップがきれいに重なる瞬間は、永遠に訪れなかった。暫しの沈黙が二人の間に落ちる
さすがに焦った様子の理沙が続けざまに改善案を提案する。

「ドラムかベースの音を聞くと、リズムがとりやすいです」

「16ビートが難しいなら、8ビートにしましょう。それならいけますよ」

「今の曲、早すぎましたか。ミディアムバラードでやってみましょうか」

曲を変えるも、結果は同じだった。

千里子は絶望的なリズム音痴だったのである。


 翌日のお昼過ぎ、オフィスで千里子が昼食のサンドイッチを片手に起案していると、理沙からの内線が鳴った。
「神崎先生、三番に斎藤隆さんからお電話です」
千里子はげんなりしながら、電話をとる。
「はい、神崎です」
「先生、どういうことですか!」
受話器から、怒り心頭といった態の斎藤隆氏の声が千里子の鼓膜を突き刺す。
「妹から、先生が遺言証書を破棄するよう勧めたと聞きました。いったいどういうことなんですか」
 隆は気炎を吐きながら捲し立てる。ああ、そう変換されたか、と千里子は心中で舌打ちをし、斎藤家の家族会議に同席しなかったことを心底後悔した。
「お勧めしたわけではありません。洋子さんが、公正遺言証書の内容に同意できないと仰るので、その場合の解決方法の一つとしてご提案したまでです」
 隆の様子から察するに、話し合いは全くの失敗に終わったようだ。
「ああ、やっぱりそうか。あいつは、いつもああなんです。何でも、自分のいいように勝手に解釈して話を拗らせるんです。遺留分減殺請求するとか言い出して。ほとほと手を焼いています」
 遺留分減殺請求とは、法廷相続分以下の遺産しかもらえなかった相続人が、足りない分の遺産を請求する手続きのことだ。
 隆は憤懣やるかたない様子で、矢継ぎ早に話続ける。
「あいつは、自分の取り分が現金だけで少なすぎるって言ってますけど、そもそもあいつの家族が今住んでいる家の建築費用は父が出しているんですよ。これって生前贈与ですよね。車だって、子供の大学の学費だった父頼みだったくせに、ちょっと死ぬ間際に面倒みたくらいで偉そうに。そもそも、僕は言ったんですよ。家での介護はどう考えても無理だって。おふくろももう年でなかなか思うように身体も動かないし、うちの嫁もうちの会社で働きながら親父の介護なんて到底無理です。だから環境のいい特別老人ホームを探そうって言っていたのに。一人ではっちゃけて自分勝手に親父とおふくろを振り回しておいて、今度は自分の取り分が少ないなんてどの口で言えるんですか。そもそも、僕が相続するのは会社関係のものばかりです。経営に必要だから、親父が僕に残したのに。あいつは本当になにもわかっていないんですよ。うちの会社顧問をされている先生ならわかるでしょう。なんとかあいつを説得してくださいよ」
 千里子は蟀谷の辺りに鈍痛を覚え、うめき声をかみ殺した。あの穏やかな斎藤一家はどこにいってしまったのだろう。たった数日で、なぜここまで実の兄妹がいがみ合えるのか。
「隆さん、残念ながら私は立場上どなたかの味方をすることができないんです」
「でも、先生はうちの会社の顧問弁護士ですよね」
「はい。しかし、この相続に関して、あえて言うなら私は亡き斎藤修さんの代理人です。修さんの遺志である公正遺言証書以外のことは、隆さん側でも洋子さん側でもできません。法律上、できないんです。もし、洋子さんが遺留分減殺請求事件を申し立てるのであれば、御二方とも私とは別の弁護士を立てて戴く必要があります」
「弁護士って、融通がきかないんですね」
 隆は失望隠さない声で言い捨てて電話を切った。
「だから、これって身内の愚痴じゃない」
 千里子は疲れ切って、デスクに突っ伏した。しかし、もしかしたら、千里子は古くからの顧問先を失くしてしまうかもしれない。
「もっと、いい方法があったのかもしれない」
 少なくとも、千里子が斎藤邸を訪れた時点では、二人はただ父の死を悼む心優しい兄妹だった。お金が人を変えてしまう様を、この業界が長い千里子はいままで腐るほど見てきた。人間とはそういうものであるという、ある種の達観のようなものが千里子にはあったのだ。しかし。
 千里子は、デスクの脇に飾った斎藤さんとのツーショット写真に視線が吸い寄せられた。
 斎藤さんがこの公正証書を作った時、こんな事態になることを予想していただろうか。鷹揚な楽天家だったから、想像だにしていなかったかもしれない。それとも、経営者としては、観察眼の鋭く、人の心の機微の聡い人だったから、ある程度予想してこの公正証書を用意したのかもしれない。
 どちらにせよ、こんな状況を望んではいなかったことは確かだろう。
 千里子は、斎藤さんの信頼に応えることができなかったのだ。


 フェス前日の夜、海東理沙が居酒屋で友人達と呑んでいると、不意にスマホが鳴った。確認すると千里子からのラインだ。

「誰から?」

「上司から」

「えー、就労時間外でしょ。よくあるの?」

「いや全く。全然。初めて」

怪訝に思い内容をみると、そこには、「明日のフェスには行けません。ごめんなさい」という文字があった。

「はぁ!?」

理沙は、怒気を帯びた唸り声をあげた

 

 その日の深夜、ゆっくりと食事を味わい、しっかり友人たちとカラオケまで楽しんだ後、理沙は千里子の自宅を訪れた。明日、千里子がフェスに行かないということは、フレンチフルコースの約束も破棄される可能性が高い。それだけは何としても避けなくてはいけない。理沙は、決意を胸にインターホンを押した。しかし、応えはない。室内からは人の気配がするので、きっと居留守だ。 

 理沙は躊躇なくドアノブを回した。鍵はかかっておらず、ドアはあっけないほど簡単に開いて、理沙の侵入を許す。入りますよ、と一言声をかけて、理沙は、玄関の三和土にあがりこんだ。

リビングに通じるドアを開けた理沙は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。室内は真っ暗だった。暗闇の中ごく小さな音量のDVDの映像だけが流れていた。そこにカチコチカチコチと規則的な音が不気味に響く。よくよく聞くと、まばらに、そして間違いなく調子外れな、力ない手拍子が、パン…パン…パンと悲し気に聞こえる。

「神崎先生?」

声をかけるも、テレビの前にペタンと座り込んだ千里子は、遠い目をしながら、おどろおどろしく、パン…パン…パンと手拍子を続けるだけだった。  千里子の脇には、一人だけ正常な顔をしてリズムを刻むメトロノームが鎮座している。千里子のクラップとは、残酷なほどに合っていなかった。

「先生、電気つけますよ」

電気をつけて、メトロノームと止めると、千里子はズルズルと床に倒れ伏す。そして、地を這うような声で千里子がつぶやいた。
「あなた、来るの遅すぎない?今、何時だと思ってるのよ」
理沙は、腕時計を確認する。時計の針は午前1時を少し回ったところだった。
「来て欲しいなんて、ラインに書いてありましたっけ」
こんな深夜にわざわざやってきたのだ。むしろ、お礼があってもいいだろう。そして、そのお礼はフレンチのフルコースであって然るべきだ思い、理沙は憮然として応えた。
「ライン送ったのって九時よ。何時間経ってると思ってるの。一体何をしていたの」
「普通に友達とご飯食べて、お酒飲んで、カラオケに行ってましたけど」
「こんな私を放っておいて?」
「先生、私のカノジョか何かですか。アナタは雇用主の一人、私は従業員。一従業員に一体なにを求めているんですか。そういうのはカレシとか友達とか、身内の人にお願いします」
どんどん雲行きが怪しくなる会話に理沙は危機感を覚え、急いで軌道修正を試みる。しかし、千里子は床にへばりつき、遠い目のまま、くぐもった声で応えた。
「こんな時間に電話できる友達なんていないもの」
カレシなど、言わずもがななのだろう。
「みんな結婚して子供もいるのよ。夜に迷惑かけられない。女友達って、結婚して、出産してってなると、時間と話が合わなくなるの。遊んでくれるのは、いかず後家と出戻りりだけ。その子たちもみんな仕事がるから、迷惑なんてかけられない」
「私への迷惑についても考えてもらっていいですか」
 なぜその配慮が自分には当てはまらないのか。理沙は頭を抱えたくなる。
 この女弁護士のなかで自分はどの位置にいるのか。それを考えると空恐ろしかった。そんな理沙の思考を見抜いたように、千里子はじとっとした暗い目で理沙を見上げる。
「あなた、自分は関係ないと思っているでしょ。あなたもうすぐ三十歳なのよ。三十代から四十代なんて光の速さで過ぎていくの。明日、目覚めたら四十になって、身体だけ老いてる感覚よ。今にわかるわ」
「恐ろしい呪いを吐くのやめてください」
「恋愛も結婚も出産も、誰もが普通に通っていく経路だと思ってるでしょ。そんなわけないじゃない。誰もが普通にこなせるタスクなら日本は少子化になんかなってないわ」
 本当に怖くなってきて、理沙は我知らずに後ずさった。ここには、負のオーラが満ちている。四十五年かけて煮詰まった人生の澱が、淀んで腐臭を漂わせている。こうはなるまい。理沙は密かに心に誓う。
「でも、先生には20年のキャリアがあるじゃないですか。頑張ってきたんでしょう、お仕事」
 理沙にフォローさせるとは、四十五歳独身キャリウーマンの淀みの深さは想像を絶する。
 仕事、と虚ろに呟いて、千里子はまたガクッと肩を落とす。この話題もお気に召さないらしい。一体どこに何の地雷が潜んでいるの本当にかわからない。理沙は内心頭を抱えた。地雷原でタップダンスどころではない。会話の全てが地雷なのかもしれない。地雷のマット上で前転し続けている気分だ。
 身なりに気を遣う余裕もないのか、いつもはきっちりと整えられている千里子の髪がくしゃくしゃのモップのようになっていた。
「恥の少ない生涯を送ってきました」
「逆太宰治って、自己肯定感高すぎて鼻につきますね」
 そのモップが打ちひしがれながら高慢ちきなことを宣うので、理沙は反射的に湧き上がった反抗心を、隠さずそのまま口にした。色々と気を使って話題を振っていた自分が、損をした気分だ。
 千里子はそんな理沙に見向きもせず、私、優秀だから、と突っ伏したまま続けた。理沙は、へえそうですか、としか言いようがない。しかし、その後、急にさめざめと泣きだす45歳独身女に理沙はぎょっとなる。
「嘘。本当は失敗しないように生きてきただけ。恰好悪いのが嫌で、恥をかくのが怖くて、自分にできることしかしてこなかったの」
「それで、弁護士になってるなら十分でしょう」
「私、今まで大抵のことは人よりちょっとだけ上手くできてきたの。勉強もスポーツも、仕事も。頑張るの好きだし、頑張って結果が出ないなんてことなかったから」
 でも、と、千里子は鼻を啜る。
「でも、相続人間の調整すらまともにできない。クラップもできない。こんなに練習してるのに、全然全く微塵もできる気がしない。自分だけリズムがズレて変なところで手を叩いたり、拳を上げたりする事を考えるだけで、胃の辺りがきゅっとなって手が震えるの」
 数々の訴訟をこなし、勝つこともあれば、もちろん負けることもある法曹の世界を生きてきた千里子が、なぜ手拍子ごときでこんなに追い込まれているのか、理沙には訳が分からなかった。
「斎藤さんの遺言執行の件ね、私、ラッキーって思ったの。斎藤さんは資家だし、簡単な仕事で大きなお金が入ってくるって。仕事の対価として報酬をもらうのは当然だし、そのために仕事は完璧にする。それで報酬が多ければ依頼者も私も事務所もあなたたち事務員もみんな満足できるじゃない。でも、いつの間にか私は」
理沙はそこで言葉を切って、のどをぐっと詰まらせた。
「私は、人の死をラッキーって思う人間になってた。若い頃はあんなに斎藤さんの信頼が嬉しかったのに。四十五歳になった私はその信頼を二重の意味で裏切ったの。二十年も弁護士やってて、親を亡くした人たちの争いごとを、法でしか解決できない。こんな結果、斎藤さんが望んだはずないのに。そんなことにも気づかずに、私は、斎藤さんの死を喜んでた」
話が飛び過ぎて、理沙にはやっぱり理解できない。しかし、無駄に制して暴れられても厄介だと思い、大人しく話を聞くことにする。
「でも、そのことをあなたに指摘されて、私、何も言い返せなくて、その時に、あのバンド曲を聞いて」
いつもなら鼻で笑ってしまうような青臭い陳腐な愛を、高らかに歌った若者たち。その姿が、とてもきらきらしたものに見えたのだと、千里子は言う。「そんな人たちの前で恥をかくくらいなら、私、行かない」
 これは、どこに出しても恥ずかしい、立派な、拗らせオバサンだ。
理沙は天を仰いだ。

 申し訳程度に「楽しみ方はそれぞれだと思いますけど」とだけ言い残して理沙は帰っていった。一人残された千里子は、惰性で流していたDVDの画面を、虚ろな目で漫然と画面を眺めていた。しかし、不意に跳ね上がる勢いで立ち上がり、画面の前に駆け寄る。そして、画面に顔を押し付けるような近距離で、目を見開いた。画面には、感動のあまり涙目になって楽曲に聞き入り、微動だにしない人たちがいる。千里子は以前聞いた理沙の説明を思い出した。

「激しい曲で、人の波に乗らず全く動かない人は、地蔵と呼ばれ嫌われます。理由は、危ないからです。モッシュで押されたら無駄に抵抗せず、流れに身をまかせてください。バラードとかしっかり聞きたいときは、地蔵でも全然大丈夫なので、まわりの空気を読んでください」

千里子は、曲調を確認する。盛り上がる曲の中でも、邪魔にならない場所なら、一定数の地蔵が存在する。つまり、場所を選べば、地蔵でも十分フェスに参加できるじゃないか。千里子は拳を握った。リズムは捨てる。
「私は、地蔵になる」

  フェス当日、千里子は晴天の下、すり鉢状の会場も縁に立っていた。お目当てのバンドの順番になり、千里子は被っていたキャップを脱ぐ。今日、千里子が身に着けているのは全ての装飾性を排除した実用一辺倒の武骨な登山服だ。 周りには少数ながら、騒がず音楽を楽しみたい人間がちらほらと立っていた。

曲が始まりオーディエンスが湧く。音が聞こえて来る。音楽に声が乗る。駅で聞いたあの曲だった。ああ、これを聞きたかった、これを求めていたのだとすとんと実感が腹に落ちて、我知らず千里子は涙ぐんでいた。曲の終わりに後方で誰かが「ありがとう」と声をあげた。千里子も自然と、声の限りありがとうと叫んでいた。まるでその声が聞こえた様にバンドのメンバーが腕を振り上げる。こういう楽しみ方をしてもいいのだと肯定された気分になった。
 きっと千里子は、一生クラップはできない。仕事をしていれば、近い将来また彼らの曲を陳腐な理想論と断じる日々に戻るのかもしれない。現実世界で、実利を求めるのが千里子の仕事で、その世界には汚いドロドロしたものだってある。それを知ってしまった今日、千里子はもう、若くてきらきらしていた頃には戻れない。

でも、それでいいじゃないか。

 千里子は、千里子の生き方を全うすることしかできないのだから。そして願わくば、彼のバンドが、どんなに薄汚い世界にいても、青臭いきらきら輝く歌を歌い続けてくれるよう祈った。彼らにはそういう仕事をしてほしい。  地蔵な千里子の眼下では、もちもちした丸い物体が千里子には絶対できない難解なリズムで、楽しそうに弾んでいるのがみえた。

                                           

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