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「人質の朗読会」を読んで

 読書は好きなのだけれど、次男が亡くなったあと私はしばらく本を読むことができなくなっていた。文字からの情報を得るためにはそれなりの集中を要する。その間、次男のことを考えない時間ができてしまうことが耐えられなかった。新聞を読むのは、特にダメだった。どんな事件も、次男の死に比べたらどうでもよいことのように思え、そのどうでもよいことのために、次男をたとえ一瞬であっても脇に置くということは、許しがたいことだった。
 そんな状態は3ヶ月ほど続いただろうか。ちょうど卒哭忌を過ぎたころ、ふと思いたって久しぶりに開いた本は、小川洋子さんの本だった。小川洋子さんの小説は、喪失を経験した私に優しく届いた。次男を亡くした私を、次男ごと抱きしめてくれ、亡くなった次男も私も、癒し救ってくれた。
 特に『人質の朗読会』は、何度も読んだ。
 反政府ゲリラに拉致され人質になった8人が、何もすることのない人質生活の退屈を紛らわすために、「何でもいいから一つ思い出を書いて、朗読」するという話だ。
「今自分たちに必要なのはじっと考えること、耳を澄ませることだ。しかも考えるのは、いつになったら解放されるのかという未来じゃない。自分の中にしまわれている過去、未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ。それをそっと取り出し、掌で温め、言葉の舟にのせる。その舟が立てる水音に耳をすませる。」
 人質たちが朗読会を始めたいきさつはこのように語られる。それはそのまま、次男を喪った私にも必要なことだった。読書は静かに次男のことを思う時間にもなった。
 人質は、解放されないまま、救出活動の最中に捕えられていた小屋ごと爆破されて全員が亡くなったことが最初に語られる。私は、もうこの世に存在しない人の、大切な思い出を、一話ずつ読み進める。
 それは、子どものころや学生だったころの思い出。何年経っても忘れられない不思議な出会い…。
 人質になる前の話なのに、どの話にもどこかに「死の予感」が漂っている。でも決して恐怖に苛まれるような死ではない。むしろ、死は、生者の隣で静かに優しく寄り添っているかのように感じられる。生者は、死者に見守られ、静かに明日への一歩を踏み出す。それは心地よく愛おしく静かな一歩だ。誰もがそうやって自身の生を生き、やがて、死者に迎えられ溶け合う。
 次男と過ごした過去の時間は、決して損なわれない。次男はこの世からはいなくなったけれど、これからも、私の隣に次男がいる。私のこれからの人生を、次男はともに生きる。「人質の朗読会」を読んだあと、それがとても自然なことのように思えた。


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