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髭は抜けても髭なのか

この前、訪日中のイギリス人の友人と一緒に夜ごはんを食べに行った。彼に合うのは約4年ぶりだった。

彼は髪形がボブマーリーそのものだったのだが、4年ぶりに会ったらスキンヘッドに変貌していた。小錦クラスの体格と、ファンタスティックビーストのダンブルドアみたいな髭も健在だった。西洋人はやたらと髭が立派である。髭が大人の証。今はマスクを付けなくてはいけないから、マスクの下から飛び出ている。とても変だと思う。

この友人はとても社交的でおしゃべり好きで楽しい人だ。しゃべり出すと止まらない。彼との出会いはかつて半年ほど通った英会話教室だった。彼はもちろん先生だったのだが、その頃から一方的に喋っていた。だから会話の練習にはならなかった。彼はまくしたてるような早口なので、正直言っていることの8割は理解できない。私が眉間にしわを寄せる表情を見ておそらく私が理解していないことを察している。でも彼はしゃべり続けるのである。ありがたい。アハアハと言っているだけで良い。

二人で出かけられるような友人がいない私にとって、彼の訪日は内心嬉しいものだった。久しぶりに誰かと二人でいる時間であった。アハアハとアイドンノを多用する会話であったけれども、会話のある夕食は久々であった。

彼は1週間後に帰らなけらばならない。そうすると、再び友人0人生活に戻る。別に、慣れ過ぎて、というか最初から、寂しい!誰かに会いたい!とかは思わない性格だ。でもふと、行きたいところとか食べたいものとかあったときに、一人であきらめることも多少あるので、そういうときに気軽に誘える友人がいるというのは良いなぁ、と思うことはある。

だから、あぁ、気の置けない誰かと食べるごはんはおいしくて楽しいなぁ、と心が温かくなるのを感じていたのだ。

そうしたら、テーブルの上にひらひらっと、黒いお髭一本が舞い落ちたのだ。

テーブルの上のその一本の髭が、私には陰毛に見えた。
刺身やホイコーローやポテサラの乗っているテーブルに、陰毛が乗っている。
私は陰毛が嫌いだ。風呂場の排水溝にたまった自分の陰毛を見ても鳥肌が立つ。目の前の友人は気づかず意気揚々としゃべり続けている。気のおけない友人とはいえ、髭落ちたよ、とは言い出せなかった。髭が落ちるって、なんだか恥ずかしい。
イケメンの息が臭いと恥ずかしさを感じる。イケメンから勝手にイメージする完璧な姿と、その人らしくない現実のギャップに、私は恥ずかしいという感情を抱く。この友人は髭を伸ばしたらかっこ良いと思っている、それなのに現実は陰毛みたいになってしまっている、そのことが恥ずかしい。

次の料理が運ばれてきた。テーブルにスペースを作るために既存のお皿を動かす。友人が、チラッと下を見て、やっと気づいた。その刹那、彼の顔が少しだけ戸惑いの表情を見せたことを私は見逃さなかった。とっさに平静を装い、手でササっと払いのけた。陰毛は虚しく床に落ちた。さっきまで陰毛が鎮座していたその場所に焼き鳥が置かれた。陰毛なんて初めから無かったかのようだ。

私は焼き鳥を手に取り串から噛みちぎりながら思った。

きっと彼も、自分の髭が陰毛のようであることに恥ずかしさを感じたはずだ。だから一瞬表情がゆがんだ。

もし彼が恋人とかだったら、こういう瞬間に百年の恋も一気に冷めるだろう。幸い、彼は既婚者だしただの友人なのでなんとか笑って流せそうだ。

流暢に喋り続ける彼を見ながら、ハイボールで鶏肉を流し込んだ。

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