IN THE RED〈前編〉

口先だけで語る「ダイジョウブ」という言葉ほどダイジョばないことはない。

どれほどの知識、情報を得ようと、そこから発せられる言動には人間性がつきまとう。優れた食材を手に入れたとしても、それを活かすための能力は比例しない。そして高性能な車を所持したとしても、それを活かすための運転能力は比例しない。……そう、短絡的であることに無自覚な、ある者たちにとってはとくに……

1日だけの仕事で向かうこととなった顧客の管理するビルの住所は、交通の便が悪く、とても憂鬱だった。しかし、その前日に、独特なセンスでお馴染みの上司の○山さんが営業ついでに私の自宅から、そのビルまで車で送迎してくれるという話の流れになったのは、不幸中の幸いであった。

「I河を指名してるみたいですけど、僕でいいんですか?」

「ダイジョウブ、話は通してあるから。I河は今の仕事から抜けられないからね」

担当者どうしの打ち合わせを一任されている田□さんと私のやりとりである。院卒の超高学歴の男だ。

I河は人当たりのいい、社内では比較的に私にとっては仲が良い部類の後輩である。裏表のない単純明快な人間性を誇り、箸よりスプーンのイメージが強めの恐ろしいほどに食べるのが速い巨漢である。すべてを飲み込む勢いでの、彼の食事と咀嚼の回数は比例しない。

「そんなに食ってダイジョウブなん?」

「ダイジョウブです。これ以上は太ることないんで」

それから数ヶ月で、ふた回りはおっきくなっちゃったように感じるのは決して私の目の錯覚ではないはずである。丸飲みすんな。ちゃんと噛め。

朝の待ち合わせ時間になっても○山さんは現れなかった。それから15分後、30メートルほど先の広い道路から右折して、電柱の横に立つ私のほうへと向かってくる1台の車を視認した。

「ごめん、おまたせ」

運転席には、私が生まれて初めて目にする独特な柄のスーツを着た○山さんの姿があった。彼はたくさんの初めてを私に捧ぐ。情熱的なイタリアの太陽の光を浴びながら、すくすくと育ったトマトのごとき色をした車は、○山さんには、とてもお似合いであった。

「わざわざ、ありがとうございます」

そう告げて助手席に乗り込むと、車は目的地へと発進した。以前、私が住んでいた建物の近所である。車の運転には、状況判断、自己制御、危機管理、あらゆる能力が必要となる。

車は分かれ道に差し掛かると、5割以上の確率で最短経路を拒否した。事前に、あるいはリアルタイムで最短経路を調べようという状況判断は○山さんの中には存在しないようである。車内のディスプレイは何も映してはいなかった。わずかな先の未来でさえも……

助手席から細かい指示など出そうものならば、彼の自己制御に影響を及ぼすことを私は経験的に知っている。その点に関しては沈黙を貫いた。しかし、待ち合わせまでの残りの時間と、その場所までの距離を思うと、焦りを覚えた私は

「間に合いそうですか?」

とだけ口にした。

「ダイジョウブだよ」

そう言いながら○山さんは深くアクセルを踏み込んだ。速まるスピード、縮まる車間距離、長めの直線で青信号が続いたのは偶然以外の何ものでもなかった。そして車は待ち合わせ時間、ちょうどに目的地へ到着した。15分遅れでのスタートから最短経路を拒否した遠回り、余裕がないにも程がある。彼にとっては、幸運も危機管理の下に存在するのだろう。

閉ざされた門の向こうの敷地内に、人の気配など微塵も感じないまま10分が経過した。誰も現れない。○山さんが担当の人に電話をかけてつながると10数秒のやりとりで会話は終了した。

「田□がやらかしたみたい」

日常的にあることと、私はそれを知っている。状況が飲み込めていない私に、さらに付け足され並べられた言葉……その時、私は思い出した。浪費させられた数々の場面の、そのひとつひとつに抱いた感情を、この後、待ち受けているであろう、身の丈にあわぬプライドと、思い違えたエリート意識が織り成す、すがすがしいまでの逆ギレの日々を。

「頼んだの今日じゃないって」


……ある領域で
ケモノの悲痛な鳴き声がした


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